2019/10/26

理解することが必要なだけです。

セイラーボブの教えを理解するためにすべきことは、自分で調べて、「私」は実在ではないということを理解することだけです。

私がこう書くと、多くの人が「どうやって?」と思うことでしょう。
私はその「どうやって」を何度も何度も詳しくこのブログで書いたつもりです。

「どうやって?」という問いの裏側には、(簡単に)や、(手っ取り早く)という含みがあります。
でも、「私」が実在ではないと調べる方法に、簡単な方法や、手っ取り早くやる方法はありません。

時間をかけて、「私」は本当に実在なのかと自分に問いかけるしかないのです。
でも、多くの人が、この作業をやりません。
ほんの一、二回、もしくは一日か二日考えて、「わからない」とやめてしまいます。

そして、別の非二元の人の本をあさったり、セミナーやリトートに参加したりしようとします。でも、そこにも答えはありません。
あっちのメソード、こっちのコースと探しても、そこにも答えはありません。

「ただそれだけ」やこのブログを何度も読むことは、ある程度は役に立つかもしれませんが、そこにも答えはありません。
それなら、セイラーボブに会いに行ったらどうかと考えるかもしれませんが、会うだけでは答えは見つかりません。

何が必要なのかというと、自分で調べることです。「私」は実在なのだろうかと、自らに問いかけて、あきらめないで、何日も何日も問いかけることです。
なぜなら、答えは自分で見つけるしかないからです。

ニサルガダッタ・マハラジは答えを見つけるのに3年かかりました。セイラーボブはマハラジのもとへ断続的に1年通いました。
私の場合はセイラーボブの教えを完全に理解して、もう何の疑念も揺り戻しも起きなくなるまでに4年かかりました。

自分で調べることをしないで、どこかに答えがあるはずだと、あちこち探しても、答えは見つかりません。
必要なことは、あきらめないで自分で調べることだけです。

もしどうしても「どうやって?」という問いが湧いてくる人は、もう一度このブログを読み返してみてください。マインドなどというものがありますか?

調べても調べてもわからないから、もう「私」は実在ではないと信じよう、というのでは、何の解決にもなりません。信じることと理解することでは大きな違いがあります。
信じているうちは、疑念が繰り返しやってきてあなたを不安にさせます。

信じるくらいなら、わからないままにしておく方が正直です。
信じるくらいなら、セイラーボブの言う事はナンセンスだと背を向けて去るほうがましです。
自分で調べて理解することだけが必要なだけです。

セイラーボブの教えは、覚醒やエンライトメントではありません。
セイラーボブの教えは、何かになることや、何かを経験することではありません。
私が実在なのかどうかを理解することだけが必要なだけです。

理解するために必要なツールを私たちは持っています。
それはマインドであり、意識です。
それを使って、調べてみてください。

私は、エンライトメントや覚醒などないということを理解しました。
セイラーボブがそう言ったからではありません。
自分で納得いくまで考え、調べた結果、そんなものはないと理解、確信したからです。

私は、「私」は実在ではないということを理解しました。
セイラーボブがそう言うからではありません。
自分で納得いくまで考え、調べた結果、「私」は実在ではないと理解、確信したからです。
そして、それが揺らぐことはもうありません。

私たちが、「私」という条件付けを身につけるのに、何年もかかっています。
生まれてから物心がつくまで、何年もかけて身につけたものです。
それは、私たちのまわりの人すべてによってなされたものです。
その条件付けを見破るのは簡単ではないかもしれません。

でも、自分で調べて、自分で見破るしかないのです。
誰もあなたのかわりにやってはくれません。
いくら瞑想しても、それは起きません。
いくらセミナーに参加しても、それは起きません。
いくら非二元の本を読んでも、それは起きません。
自分で調べるしかないのです。
「どうやって?」と問う瞬間に、あなたは自分で調べることを放棄していることに気づいてください。

メルボルン 朝のエリザベス通り

2019/10/19

それはいつも不鮮明ですか?


Is It Ever Obscured?

マインドの中でおしゃべりがまた始まり、うわべの上ではそれが不鮮明となります。
それは不鮮明ですか?
それはいつも不鮮明ですか?

もし基本に戻れば、そこにはただ一つのものがあるだけです。
それが現れ、ヴァイブレーションとなってすべてのものとなっています。
たとえそれが表面上ははっきりしなくても、それ以外のものでありえますか?

良い思考であろうと、悪い思考であろうと、それ以外のものでありえますか?
喜びであろうと、痛みであろうと、それ以外のものでありえますか?
それを理解してください。

良い、悪い、喜び、痛みといった言葉が、それを弱めることはできないのではないですか?
言葉の本質、その本質無しでは、言葉は起こってきません。
それが純粋な知性エネルギーです。

鏡の中の像が、鏡無しでは起きないのと同じです。
あなたは鏡に映る像によって、鏡そのものを見ることはありません。
それを調べてみることによって、それが鏡に映っている像であるとわかります。

さらに調査すると、鏡無しでは像もありえないということを理解します。
そして、鏡に映る像は鏡の中にあるということを理解します。
それはいつもそうでした。

2019/10/12

問題は関係性の問題です。


Problems are problems of relationship

何か破壊しなければならないようなものを見つけることができますか?
自己の中心とは何ですか?
それは「私」ではありませんか?

「私」とは何ですか?
それは思考、身につけ学んだ言葉ではありませんか?
でもそれは剥き出しの思考ではありません。

その思考とともに、ほかの思考が「私」を見た目の上で実体のある強固なものにしています。
例えば、私はボブ。オーストラリア人。あれやこれや。悪い事。私に起こった出来事。
記憶が思い出され、それが「私」に付け加えられます。

そうやって、自分が何物かという想像上の絵、イメージが出来上がります。
それがあなたが信じているものです。
それはすべて概念であり、死んだイメージです。
なぜならそれは過去の出来事や経験がもとになっているからです。

そして、すべてがそのイメージと関連付けされます。
それが基準点となっていつも関連付けされます。
その想像上のイメージと関連付けされます。

私はこれが好きではない。
どうしてそんなことがわかるのでしょう?
以前にそのことを経験したからです。
それは嫌な経験でした。

私はこれが好きだ。
これはいい。
そうやって、いつも死んだイメージに関連付けされます。

そして、あらゆる問題は関係性の問題です。
関係性とは、私と他者であり、二元性です。
どんな関係性も二元性です。

ですから、そうした方向を探しても、決して非二元を見つけることはできません。
実在しないものをじっくりと見ることによって、それを破壊することができますか?
分解したり、征服したりすることができますか?
誰が何をどうするというのですか?
それが存在しないと認識しているのに。

新しい自分のイメージを創り出すことで古いイメージを払拭することもできます。
そうして、それが繰り返さます。
そうやって続いていきます。

それは何にも関連していません。
見る人、主体には何が起こっているのですか?
主体と客体は常に二元性です。

私は見る、私は信じる、といったことは概念上のイメージであり、それが主体、見る人を生み出します。
そして私が見ている対象もまた概念です。
椅子、テーブル、あなた、私、その他のもの。

ラベルがなければ、イメージ、パターンです。
パターンは純粋なエネルギーです。
私たちをそれにラベル、言葉を貼り付けました。
そのために、それが見た目の上での客体となりました。
そうやって二元性、主体と客体を生み出しました。

見る働きの中で、何が起こっているのでしょうか?
見る働きは二元性ですか?
聞く働きは二元性ですか?
味わう働き、触れる働き、嗅ぐ働きは二元性ですか?

見た目の上でだけ分離があるだけです。
見る人、味わうこと、触れること、主体と客体。
概念によって、見て目の上では二元的に分割されています。

見る人、主体は見ていません。
見る働きなくして、見ることができるとは言えません。
そしてまた、見られる対象も見る働きなくしてはありません。

見る働き無くして、見ることができますか?
見る働き無くして、見る人がいますか?
その線にそって調べてみてください。

それは一本の棒の両端のようなものです。
二つの概念が一つの見る働き、一つの聞く働き、一つの味わう働きの中にあるようなものです。
そしてそれが見た目の上で概念上分割しています。

そしてその分割ゆえに苦悩が始まります。
それは必要ではありません。

2019/10/05

ひとつのもの。

毎年夏になると、多くの人が富士山に登ります。
私も二回登ったことがあります。
二回とも山頂まで行ったのですが、高山病でフラフラして、もうこりごりです。

ところで、富士山はどこからどこまでが富士山ですか?
山頂ははっきりとわかるのですが、ふもとはどこが始まりですか?
実際にはどこが始まりなのかはっきりしません。

私たちは、静岡県の一部の出っ張りに、富士山という概念を与えてそう呼んでいるにすぎません。
富士山は静岡県の一部を概念付けしたものです。

では静岡県とは何ですか?
地図上では県境の線がありますが、そこへ行ってみても実際にはそんな線はなく、人間が勝手に日本の一部を概念付けしてそう呼んでいるにすぎません。

では、日本はどこまでが日本ですか?
尖閣、竹島、北方領土の問題もあって、どこまでが日本の領土なのかは争いのあるところですが、仮にそうしたところまで含めたとしても、それも人間が勝手に地球の一部を日本と概念付けして呼んでいるにすぎず、国境の線が実際にあるわけではありません。

では、地球はどこまでが地球ですか? 大気圏までですか、成層圏までですか?
これも、実際には地球という名前を人間が勝手に宇宙の一部につけて、概念付けしているにすぎません。

では宇宙とは何ですか?
宇宙とは、星、銀河系、太陽系、ブラックホール、そういったものがある空間を概念付けして宇宙と呼んでいるものです。

ということは、宇宙も地球も日本も静岡県も富士山も、空間の一部を人間が勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではないですか?

では、「私」とは何ですか?
この体、マインドを勝手に概念付けしてそう呼んでいるだけなのではありませんか?
それは空間の一部なのではありませんか?
もし人間が概念付けしなかったら、それはすべて一つのものではありませんか?

「あなたが母親のお腹の中にいた時、あなたは母親だったのか?」ニサルガダッタ・マハラジ


セイラーボブの家の近くの公園・クリケットのボールが落ちていた。

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Sailor Bob - Nonduality Melbourne