2019/08/30

空は形です。


Emptiness is Form.

空は形です。
その意味は、この空、何もないもの、空間のようなアウエアネスは、パターンとなり、姿形となって、あらゆる顕現となって現れているということです。
それはすべて、知性エネルギーのパターンです。

逆の言い方をするなら、形は空以外の何ものでもありません。
そうやって一つの本質を両面から指摘しています。
形がどんなパターンに変化しても、何を形作っても、それは空にすぎないのです。

そしてそれが私たちの問題となります。
私たちは、見せかけを実在だと思っています。
そして、本質を無視(ignore)します。

それを聖典では、無知(ignorance)と呼びます。
何かおろかなことをするという意味ではなく、文字通り、本質を無視(ignore)しているという意味です。
そうやって、見せかけに焦点を合わせ、パターンや姿形の存在を信じています。

私は、分離は存在しないと言いますが、あなたは自分の周りが分離だらけだと思うでしょう。
では尋ねますが、あなたは分離していますか?
あなたは、自身がその体とマインドだと信じています。
あなたが、自分は体とマインドだと思うなら、それがどこなのかを指摘してください。

あなたの体で、ここから私が始まったという場所を指し示すことができますか?
そしてあなたはいつ始まりましたか?
あなたは、誕生によって始まったと言うでしょう。

でも、この部屋にいる人のうち何人が、自分の誕生の瞬間を覚えていますか?
あなたは自分が覚えている地点を超えては思い出すことができません。
それは、二歳か二歳半の時ぐらいまでです。
それを超えて思い出すことはできません。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていません。

もしあなたが自分の体を調べてみるなら、自分は体であると言うことはできません。
この体は何でできていますか?
あなたは、体が構成要素でできていると理解するでしょう。

体は、土、空気、火、水、空間でできていて、身のまわりあるものと同じものでできています。
もし分離しているというなら、自身を空気と切り離してください。そしてどれだけ生きられるか見てください。

体から水を取り出してください。
空間の外に出てみてください。
体温、火を取り出してみてください。

あなたは、そうした要素と分離してはいないと知るでしょう。
構成要素なしでは5分も生きられません。
私たちは調べもしないで、自分は分離した存在だと信じています。
それを調べてみてください。

構成要素は何でできていますか?
それは亜粒子でできていて、さらに詳しく調べると、単なるエネルギーであることがわかります。
ということは、この体も、他の顕現と同じように、エネルギーのパターンが形になったものです。違った姿、形になったものです。

2019/08/27

セイラーボブの言葉

個人のものではない、純粋な知る働き

ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。

質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?

ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。

質問者:そう確信しています。はい。

ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。

2019/08/24

時間や距離はマインドの中にしかありません。

私は今、いつものようにパソコンの前に座って、ブログを書いています。
そして、ブログを書き終わったら、後でトイレに行こうかなと、ふと思いました。そう思った瞬間に、部屋からトイレまでの距離が生まれました。

私の友人は今、南アフリカのケープタウンを旅しています。ふとそう思った瞬間に、日本からケープタウンまでの距離が生まれました。もし私が、トイレのこともケープタウンのことも考えなかったら、そこに距離はありません。

時間はどうですか? 後でトイレに行こうと思った瞬間に、「後で」という時間が生まれました。
明日は名古屋で友人に会う日だな、と思った瞬間に「明日」という時間が生まれました。
去年の今頃は何をしていたのかな、と思った瞬間に「去年」という時間が生まれました。

あなたが考えなければ、時間は生まれません。
時間も距離も、あなたの思考の中にしかありません。

体はどうですか?
あなたは今、椅子に座ってパソコンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あるいは、どこかでスマートフォンでこのブログを読んでいるかもしれません。

あなたのお尻は今、椅子に触れていますか?
私が、「あなたのお尻」と言うまで、あなたのお尻は消えていたのではありませんか?
そこにお尻はありましたか?

あなたの手はどうですか?
マウスに触れていますか? それともスマートフォンを持っていますか?
もし私が、「あなたの手」と言わなければ、あなたの手は消えていたのではありませんか? そこに手はありましたか?

目はどうですか?
画面を見ていますか?
私が、「目」と言わなければ、目は消えていたのではありませんか?

頭はどうですか?
私が「頭」と言わなければ、頭は消えたいたのではありませんか?

体も、あなたの意識に現れているのではないですか?
もしあなたが意識しなければ、体は消えていたのではないですか?

思考も同じです。
今あなたは何を考えていますか?
もし私がこう問いかけなかったら、思考は意識されることなく、やってきては去っていったはずです。

すべては、そうやって意識の中に現れます。
時間、距離、体、思考。世界はあなたの意識の中に現れます。
そしてそれは一つのものです。

ボブの家の近くの花屋にて 2015

2019/08/21

知性エネルギー


Intelligence Energy

そのことを知性エネルギーと言います。
知る働きの活動のことです。
あなたの知性のことを言っているのではありません。

知る働きが、そこここにあることは否定できません。
それは自然に起こってくるものです。
それはこの瞬間に起こっています。

それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのバイブレーションです。

そのバイブレーションには始まりがありますか?
今はいつ始まったのかをピンポイントで指摘できますか?
今の終わりをピンポイントで指摘できますか?

それは脈動する鼓動のようなものです。
始まりが終わりであり、終りが始まりです。

それは自然な活動です。
それが姿形となり、あなた、私、すべてのものとなって現れています。
私たちはそれと別々のものではありません。

同様に、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。
運命も自由意志もありません。

誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間もなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。

2019/08/18

セイラーボブの言葉

もし、概念も思考もなかったら、そこには何がありますか?

考えたくありません。

考えるという問題ではありません。ほんの一瞬思考を止めてみてください。ほんの一瞬。それについてどんなことが言えますか?

それをやっても意味がありません。

あなたはちゃんとやっていません。そうでなければ、それをやっても意味がないとは言えません。ちゃんと見てください。もし思考がなかったら、たとえそれが一瞬でも、それについては何も言うことできません。概念無しでは、それが穏やかだとか、そうではないとか、怒りや恐怖、良いとか悪いとかを言うことが全くできません。それは純粋なアウエアネスです。それは思考ではありません。それが知る働きであり、知性の働きであり、あなたと共にあるものです。それが私たち全員と共に今ここにあります。そこには分離はありません。それには、始まりも終わりもありません。それはすべてを含んでいます。

2019/08/15

Sailor Man song by James Braha



Lost in the middle of the sea              The sailor man came to me
Praying for a taste of  truth                 Devoured by the search since youth
Thirty years along the road               Til Sailor man broke the code
A life of desire and fear                     Disappears in the final frontier
Tossed like a feather in the breeze     Shouting my demands and pleas
Sailor man heard this cry                   Listen son to my reply
If you really want to know what I see
Pierce the illusion of a me
Time and space never last                 There cannot be a future or a past
                    CHORUS
    The sweetness of this humble man
    Melts your heart like no one can
    Points the way, today’s the Day
    That’s the plan of the Sailor man
    And that is why I love this guy
                                  Sailor Bob the Sailor man
Tried every truth that came along        Every damn path turned wrong                               

Everywhere a big lofty goal                And no one ever left feeling whole 

But Sailor man knew what was real   Just look below what you feel

Underneath every thought and every sense   Indescribable space immense
Thought my search would never end             Til I met an ocean going friend
One lovely night he said to me                       Words I didn’t know I could see
Just have a look or a peak                              We already are what we seek
Underneath the many is the one                     Like fire creates the sun
                                        REPEAT CHORUS
When thoughts lose their power of belief         Then comes peace and relief
Events aren’t ever what they seem                   Welcome the imaginary dream
Just like clouds hide the sun                             The many overshadows the one
It’s all a great big play                                      Sailor man came to say
Don’t put the horse before the cart                   There never was an end or a start
Never was a time we were not                         The mind plays a game it forgot
Just like Strawberry fields                                 Nothing in this world is real
Like rainbows in the sky we see                       There never was a you or a me
                                                 REPEAT CHORUS

***

ジェームズ・ブラハの歌がうまいのには驚きました。
ボブは電動車椅子みたいなものに乗っているんですね。どの程度自立歩行できるのでしょうか。

2019/08/09

答えはマインドの中にはありません。


No Answer in the Mind

ここで私は、答えをマインドの中で見つけることはないと言います。
たとえ一晩だけでも、マインドで理解しようとしないでください。

マインドで理解しようとすると、頭と頭になります。
それでは何も理解できません。
自分や他の人に対する概念を得るだけです。

ハートとハート。心臓のことを言っているのではありません。
あなたの存在の本質、すなわち魂のシンボルのことを言っています。
ハートとハートが開いている時、共鳴が起きます。

それがどんな言葉だったのか2分も経つと忘れてしまうかもしれませんが、いったん共鳴が起きれば、ある時それはあなたの言葉、考え、認識としてやってきます。それ以降は、読んだり聞いたりしたものとしてではなく、あなたのものです。

(聞き取り不能の箇所を省略しています)

***

お知らせ

ギルバートの新刊が出ました。日本のアマゾンでも買えます。セイラーボブの講話ではなく、ギルバートのオリジナルです。しっかり読んだら感想を書きます。



ギルバートがブログを始めるそうです。きっと参考になることがいっぱいのはず。

Gilbert Schultz-Seeing-Knowingブログ

2019/08/06

菅平合宿

二泊三日で恒例の菅平合宿に行ってきました。
モロッコで砂漠ツアーをご一緒させていただいた河村さんが、夏になると菅平の山荘に招待してくださるので、今年も行ってきました。

日本で一番暑い多治見から「しなの」で長野へ。


長野で北陸新幹線に乗り換え。12分間乗るだけですけどね。


上田到着。お出迎えの河村さんの車で40分、菅平へと登って行きます。


到着。涼しいです。26度ぐらいのはずですが、体感的にはもっと涼しく感じます。
多治見との温度差は10度ぐらいのはずです。


別荘地の中にある山小屋です。さっそくビールで乾杯。
まだ晩御飯には少し早かったので散歩。今回で4回目なので、近所の地理は良くわかっています。


高校生が走っていました。


近くに立派な施設があります。


サッカーの練習試合をする高校生。この施設には多目的グランドが何面もあって、高原で夏合宿をやっている高校や大学が、練習試合をします。


立派な陸上競技場もあります。






ラグビーワールドカップの直前にイタリアチームがここで事前合宿をするようです。

散歩も終わって夕食の時間になったので、合宿開始です。


私たちの合宿はラグビーではなく、酒です。


河村さんはワイン通なので、毎回ワインに合う料理を作ってくれます。
私はもっぱら飲み食い片付け専門です。
今日のワインは南アフリカ原産のピノタージュ。メイン料理はラタトゥーユ。
ワインのことをあれこれと教えてもらいながら、料理の作り方や材料も教えてもらうのですが、たいてい酔っぱらって聞いているので忘れてしまい、帰ってきて作ったためしがありません。

夜中の二時まで二人で、ビール2缶、ワイン2本、ウイスキーボトル3分の1飲んでおしゃべり。マダガスカルやケープタウンの話で盛り上がりました。内容は例によってあまり覚えていません。


翌朝、裏の畑でトラクターの動く音。


たぶん外国人労働者だと思うのですが、ブロッコリーの収穫をしていました。
ブロッコリーの葉は捨ててしまうんですね。葉も売れそうな気がしますが。
菅平高原ではレタスやブロッコリーをあちこちで作っています。

過去三回の合宿では、昼間は高原を降りてあちこちの観光地にドライブで連れていってもらいました。松代大本営防空壕跡、上田城址、真田の里、上越高田、姥捨て棚田、戸隠、小布施の寺々などなど。このあたりは見るものがたくさんあって、とてもいいところです。

でも今回は猛暑なので、下界へは行かずに避暑を楽しみましょうということで、遠出はなしです。
毎回、ほとんど学習能力のない私は、今回も二日酔い。頭が痛い。

サニアパークでは、KOBELCO CUP 2019という高校生のラグビーの大会をやっていました。


全国から、高校生のチームがやってきています。


この日は女子の試合でした。


炎天下で見ていても平気なくらいの温度で、酒が抜けて気持ちいいです。
途中一雨降ったのですが、みんな熱心に応援していました。

試合観戦のあと、須坂の温泉で汗を流して山荘に戻り、今日も合宿。


今日のメインはボブチョルバというスープだそうです。どこのどういう料理だったかは、例のごとく思い出せませんが、美味しくておかわりしました。

生茶のペットボトルに入っているのは、河村さんがブルガリアの友人宅で仕込んで作った赤ワインです。なかなかサッパリしておいしい味でした。

涼しい菅平から、沖縄よりも暑い多治見の我が家に帰ったら、キッチンが大変なことになっていました。一昨日、出がけに生ごみをゴミ袋に入れて出かけたのですが、口がしっかりと閉まっていなくて、そこにブヨが大量発生。
床には、ブヨの幼虫と思われるウジのような小さな虫がたくさん這っていてびっくり。

たった三日家を空けただけで、こんなことになるとは。汗だくになりながら、キンチョールを吹きかけて、ぞうきんがけして大掃除。
今回の合宿の教訓。夏に家を空ける時は生ごみをちゃんとして行け、でした。ギャフン。

2019/08/03

非二元の師たちが教えているのは、エンライトメント(覚醒)ではありません。

最初にセイラーボブの本を読んだ時、セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)した状態のことだと勝手に思い込んでいました。

セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。

セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。

セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。

セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。

1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。

最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。

長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。

また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。

私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。

そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。

ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。

彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。

私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。

何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。

問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。

ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。

非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。

また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。

こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。

非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。

問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。

でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?

あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。

多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。

一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。

セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。

非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。

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