2024/06/04

この世のどこにも我はない

佐々木閑先生のYouTube「ミリンダの問い」を時々見直しています。そしてあらためて仏教は非二元の教えそのものだと感じています。非二元の教えを学んだからこそ佐々木閑先生の教える仏教がよくわかるのだと思います。

佐々木先生は、「我」はどこにもないということを理解することは、仏教の悟りへの修行の重要なステップだとYouTubeの中で言われましたが、おおいに納得できます。「私」が実在ではないとわかれば、欲や煩悩は自然と消えていくのではないでしょうか。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その4」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この回などはセイラーボブのスピールを彷彿させます。まったくすばらしい。

2024/05/31

あなたがそれなのです

  

あなたがそれを手に入れることも、それになる必要もありません。  
あなたがそれなのです。                          カリヤニ

2024/05/28

見せかけによってアウエアネス(意識)が汚されることはありません

鏡に映った像が決して鏡を汚さないように、見せかけによってアウエアネス(意識)が汚されることは決してありません。
                                    セイラーボブ

2024/05/24

非二元的な生き方

非二元を学んで理解して、その後で「非二元的な生き方」があるかというと、そんなものはないと思います。非二元の教えの目指しているところは心理的な苦悩からの解放だけです。その後はどんな生き方をするかは、人それぞれ個人の意思にかかっていると思います。

「私」が実在ではないということを理解して、それならもっとやりたいことをやって自由に生きようとする人もいるでしょうし、以前にも増して成功や願望実現へ向けて精を出す人もいるでしょう。精神的な問題や悩みが無ければ、成功する確率は高くなるかしれません。

私も精神的には随分と楽になりました。それで私の生き方が変わったかというと、非二元を学んだから生き方が変わったということはないように思います。すべては起こってくることだと思うと、何かをどうかしようという思いもあまりおこりません。その影響もあると思うのですが、佐々木閑先生の教える仏教を学んで多いに納得することがありました。そして今は、できるだけ「欲望や願望を追及しない生き方」をしようと思っています。

年齢的にもこれから世に出て何かをしようという年齢ではないし、どうしても何かが欲しいという願望もありません。もっと英語が上手になりたいとか、もう少しビビらないようになりたいとかいうささやかな願望はありますが、大したことではありません。とりあえず食べるものがあって、その上健康ならありがたいなと思う程度です。

もともと多少ドロップアウト気味に生きてきたこともあって、佐々木閑先生の説く仏教には随分と救われました。もちろん、「欲望や願望を追及しない生き方」の人が増えてしまっては、経済も社会もうまくいかなくなってしまうので、そういう生き方は社会では息苦しさを感じる少数の人に限定されるべきものなのでしょう。できるだけ人や社会に迷惑をかけないようにして、「欲望や願望を追及しない生き方」をしていこうと思っています。

「人並みに」とか、「人と同じように」生きなくてもいいんだよ、というお許しをもらった気がして救われた気持ちです。どうせある意味でヴァーチャルな世界に生きているんだから、自分の思うように生きればいいのだと思います。

佐々木閑先生はたびたび「欲望や願望を追及しない生き方」(佐々木先生の使われる表現とは多少違うかもしれませんが同じ意味だと思います)が仏教の目指すところだと語ってみえます。私には、それが幸福をもたらす鍵のような気がしてなりません。


佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その33」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

2024/05/21

今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?

問題が起こっているように見えます。必要に応じて行動が起こります。
では、何が問題ですか? 
みなさんにお尋ねします。「今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?」
何が問題なのかを見ようとする前に一瞬の間があります。
何かが問題となる前には必ず思考があるということを理解してください。
その問題について議論して時間を浪費してはいけません。
                                    セイラーボブ

2024/05/17

世界は幻か?

前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。

セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?

そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。

非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。

個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。

でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。

人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。

以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。

以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。

認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。

2024/05/14

仏教の認識論  私とは何か?

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その29」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話、おもしろいですよ。
非二元を学ぶ人必見。ぜひ見てください。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その30」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話は非二元そのものです。

2024/05/10

霊魂のような不変の実体はどこにもない

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その27」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

「私」はいるのか。佐々木先生のすばらしい話が続いています。

2024/05/07

時間は生あるものにしか存在しない

非二元の教えの中で、時間に関するところは理解が容易ではないところではないかと思います。時間は思考の中にしかないと言われても、なかなか理解できない人が多いのではないでしょうか。
仏教ではどうか? 「ミリンダの問い その24」では、「時間は生あるものにしか存在しない」という説明が出てきます。そして「ミリンダの問い その25」はもうほとんど非二元の世界。もちろん仏教と非二元では時間に関する考え方は違うのですが、似たような捉え方をしていたんだなと参考になりました。そして佐々木先生は、もし人間がいなかったら時間とは何なのかと問うてみえます。とても興味深いところです。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その22」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その23」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その24」

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その25」

2024/05/03

あとがき・まとめ

私はこのブログをずっと続けていきたいと思っています。でも、いつどんな理由で更新できなくなるかはわかりません。病気、事故、災害などの理由で、何の断りもなくブログがそのままになることだってあるかもしれません。そんな尻切れトンボで放置するのは嫌だと思って、毎年年末になると、その翌々年の一月一日にタイマー投稿をセットして、「ごあいさつ」の記事がブログのトップに来るようにしています。幸い今までのところ毎年そのタイマー投稿を翌年にずらすことができています。それで一応ブログとしては恰好がつくかなと思うのですが、でもそれだけだと何か物足りないと思うようになりました。そこで、本でいうなら「あとがき」のようなものを先に書いておこうと思います。

私がこのブログに一貫して書いてきたことは、この一言に集約することができます。

本質としての「私」は身体でも思考(マインド・心)でもなく、意識である。

私たちは、ある日人間としてこの世に生まれ、成長して大人になり、この「私」がこの人生を生きていると信じています。私は男性である。私は女性である。私は会社員である。私は母である。私は日本人である。私は町の中で暮らし、休日には山へハイキングに行く。そこには自然がある。こうしたことを、ごく当たり前に信じて生きています。

でも、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは何でしょうか? 非二元を学び、こうした物事の一つ一つを調べていくと、どれもが実在ではなく、後天的に学んだ思考のかたまり、あるいは条件づけであるという理解に至ります。「私」は思考のかたまりにすぎません。そして、時間についても、それは思考の中にしか存在しないということがわかります。

そして、セイラーボブを始めとする非二元の教師たちは、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは、今この瞬間に意識があるということだけだと言います。この意識のことを非二元の教師たちは多様な言葉で表現します。アウエアネス、純粋意識、生、気づき、真我、空間、それ。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りて言うならば、「私は在る」という感覚、つまり意識があるということだけが今この瞬間に絶対的な確信をもって言えることです。その他のことはすべて仮説か想像にすぎません。

この意識とは、私たちの日常に普通にある意識のことです。何か特別な体験をして手に入れなくてはいけないとか、特別な人にだけにある意識ではなく、誰もが普通に持っている意識のことです。思考のことを意識と言い、思考の背後にある意識のことを純粋意識と呼ぶ教師もいます。呼び方は何でも構いません。それは思考の背景にいつもある普通の意識のことです。私たちが絶対的な確信を持って言えることは、今その意識がここにあるということだけです。

その意識とは一体何なのでしょうか? 多くの人は、人間は生まれてあくせくと一生を生きて死ぬものだと思っています。でも、もしそうではなくて、生まれることも死ぬこともない永遠不滅の意識が本当の「私」だとしたら。その意識がたまたま体や思考となって、一時的に「私」として表れているのだとしたら。

本物の非二元の教師たちが説いていることは、私たちは、はかない命を生きている哀れな人間などではなく、生まれることも死ぬこともない永遠不滅の一つの意識であるということです。それを手に入れるために何かをする必要はなく、私たちはもともとそれなのだということを理解すればよいだけです。

例えば、私たちは自分が生まれて生きていると思っています。でも、生まれるということはどういうことでしょうか? 生きているということはどういうことでしょうか? 生まれるということの定義づけも、生きているということの定義づけも、後天的に人から植え付けられた概念であり、実際にはどういうことなのか誰もわかっていません。心臓が脈を打ち、肺が呼吸をしているから生きているのだと考えていますが、それも誰かから植え付けられた概念にすぎません。

世界は私の意識の中に現れます。そういう点において万物は一つのものです。では、意識の外に世界はあるのでしょうか? それは確かめようがありません。なぜなら、私たちは五感を通して意識の中に現れる世界しか認識しようがないからです。世界は必ず五感を通して意識にやってきます。でも私たちは、世界は私たちの意識とは関係なく存在していると勝手に想像しています。でも、本当にそうでしょうか? 意識の外に出ることができない以上、意識の外に世界があるのかを確認する方法はありません。

時間に関してはどうでしょうか? 明日はまだやって来ていないので、当然存在していません。では、昨日はどうでしょうか? 昨日はどこにあると聞かれても、それは記憶の中にしか存在しません。つまり、意識の中にしか存在しないのです。昨日の時点では昨日は存在したと言われるかもしれませんが、それは今の時点で昨日のことを想像しているにすぎず、昨日の時点の昨日は今だったはずです。すると昨日も私たちの意識の中の想像でしかないことになります。

こうやって、一つ一つのことを突き詰めて考えていくと、今この瞬間に確かな確信をもって言えることは、今ここにある意識だけが確かなものであり、その他のもことは想像か仮説、あるいは思い込みや条件付けにすぎないということがわかります。非二元の教師たちが教えているのは、この意識のことです。私は「意識」という言葉がわかりやすいので意識という言葉を使っていますが、実際のところ、この意識とは何なのかと聞かれると答えることができません。

朝起きるとやってくるもの。思考の背景にいつもあるもの。それでいて、深い眠りの中にもあるもの。そこに世界が現れるもの。この程度の説明しかできません。それが本質としての私だと非二元の教師たちは言うのです。私たちは、この意識を客体として認識することはできません。なぜなら、私たちがその主体である意識だからです。目が自身の目を見ることができないように、意識が意識を認識することはできません。

ではどうしたらいいのか? 多くの非二元の教師たちが異口同音に言っているのは、思考を見つめることです。良い・悪い、好き・嫌いといった判断をしないで、ただ見つめる。あるいは気づいている。それを変えようとせず、消そうとせず、ただあるがままに見つめる。

非二元の教師たちは映画のスクリーンの例えを使うのが好きなので、ここでも使わせてもらいます。スクリーンが意識です。そのスクリーンの上に物語や世界が映し出されます。私たちには物語や世界は見えますが、スクリーンを見ることができません。そこで、スクリーンに映し出される物語や世界を見つめるのです。それを見つめることによって、それが実在なのかそうでないのかを見るのです。

意識のスクリーンに現れる最大のものは思考です。その思考を見つめるのです。それに気づいていることで、その思考が実在なのかどうか、その思考の背景には何があるのかを感知するのです。

意識に気づくことで何が起こるのかは人それぞれだと思います。至福、愛、やすらぎという人もいるでしょう。物語に巻き込まれなくなったという人もいるでしょう。私の場合は、ニサルガダッタが言った「もう何も悪くない」という表現が一番近いかなと思います。

多くの人は、非二元の教えを理解したら、何か特別なことが起きると信じています。意識がシフトして、悩みや苦しみが消えると思っています。でも、そんな事は起きません。非二元の教えを理解しても、特別なことは何も起きません。非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないのです。

多くの人は、非二元の探求が終わればエンライトメント、あるいは覚醒が起こるはずだと信じています。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって意識に変容が起こり、あとは至福に包まれて幸福に暮らせるとか、光に包まれるような体験をして意識がシフトして、あとは悩み事もなく幸福に生きていけるというような、おとぎ話のように信じられてきた出来事のことを言っています。東洋、特にインドでは、こうしたおとぎ話が信じられてきた伝統があり、多くの人がそれを求めて探求してきた歴史があります。

でも、そんなものはありません。それはおとぎ話です。私はそれを多くの非二元の教師から学びました。真の非二元の教師たちは、誰一人としてエンライトメント、覚醒を説きません。もちろん、そうした教師の中には、「覚醒」「目覚め」という言葉を使う人もいますが、それは「理解する」「気づく」という意味で使われています。

スピリチュアルの教師、グルの中には、エンライトメントがあるかのように説く教師もいます。自らを覚醒した人だと宣言する人もいます。でも、そうした教師やグルは、誰一人として信奉者を救済することなく、多くの災いをもたらして去っていきます。それは歴史を振り返ってみればわかることです。

私も長い間エンライトメントを求めて探求してきました。その途中で多くの人たちに出会いました。突然仕事をやめてインドに旅だち、周りの人を悲しませた人たち。あ、これは私のことでした。なけなしの貯金を差し出してコミューンという名の共同生活に身を投じた人たち。自称覚醒した人に騙されて大金を失った人たち。日本では、かつて大きなカルト事件がありました。教祖は自らを覚醒した人だと名乗り、それを信じた多くの人たちが自分も覚醒して楽になりたいと教団に飛び込んでいき、最後には地下鉄にサリンをまくという事件がありました。

どれもこれも、覚醒があると信じていたから起こったことです。そんなものはありません。よく考えてみればわかることではありませんか。人間の苦しみや悲しみが、覚醒してすべて消えるなんてことがあろうはずがないではありませんか。でも人は自分ではどうすることもできない大きな苦しみや悩みを背負ったとき、そうしたおとぎ話をいとも簡単に信じてしまいます。私もそうでした。非二元の教えを学んで苦しみから解放されたいと思っている人は、そうしたおとぎ話を信じた人たちを笑うことはできないはずです。ひとつ間違えば、同じ道をたどっていたかもしれません。

今現在でも、多くの人がエンライトメント、覚醒を求めてさまよっています。あるいは覚醒を求めて次々と非二元の本をあさっている人もいるでしょう。そして最後には、自分は覚醒できなかったいう鬱々とした思いを抱えながら生涯を終えるか、トリップして自分は覚醒した言いだして、さらに多くの人に不幸をもたらすかのいずれかです。エンライトメント、覚醒などないということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのです。「私はエンライトメントした」という教師、グルはとても危険です。必ず災いをもたらします。

真の非二元の教師たちが教えていることは、エンライトメント、覚醒ではありません。彼らが教えていることを理解しても意識が変容することはありません。至福に包まれることも悩みや悲しみがたちどころに消えることもありません。彼らが教えていることを理解しても特別なことは何も起きません。彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないのです。一瞥体験は非二元の教えとは何の関係もありません。私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。なぜなら、私たちがその主体だからです。

一瞥体験を語る人の常套句は「その時私はいなかった」というものです。では、私がいなかったことを覚えているのは誰なのですか? どうして私がいなかったのに、そのことを覚えているのですか? そして、一瞥体験が去った後はまた「私」を生きていることになります。これでは普段は「私」がいることになります。非二元の教えの核は、もともと「私」など存在しないということです。

一瞥体験は、いるはずのない「私」をわざわざ作り出して、その私がいない体験を演じているにすぎません。覚醒やエンライトメントなどというものはないということをしっかりと理解できたなら、ましてやそうしたありもしない世界を一瞥することなどありえないと理解できます。そうした体験はマインドによる疑似体験でしかありません。

私たちは幸福や平安を求めます。でも、幸福や平安は不幸や苦しみがあってこそ成り立つものです。もし覚醒が起こって不幸や苦しみが消えたら、幸福や平安も消えます。幸福や平安は不幸や苦しみがなければ存在しえないからです。覚醒して毎日至福に包まれて暮らしたなら、その至福は至福ではなく、平凡な日常になります。それが私たちの生きている二元性の世界であり、その外へ出ることはできません。

また、非二元の教師たちのことを、私たちとは違う意識の、覚醒した人たちだと思い込んでいると、彼らが言っていることが理解できません。彼らは決して難しいことを言っているわけではないのですが、ことの性質上、不鮮明な説明や表現を使うことがあります。そうすると、「やっぱり私は覚醒していないから理解できない」となって、理解することを放棄してしまいます。彼らの語っていることはシンプルなことです。勝手に想像して彼らの教えを複雑にしてしまっているのは、彼らは特別な人だという思い込みにすぎません。

多くの人が、彼らには私たちとは違う世界が見えていて、超越的な知識を持っているのではないかと思い込んでいます。彼らは、私たちはどこから来てどこへ行くのか知っているのではないか、来生はあるのか、宇宙の成り立ちはどうなっているのかという類のことを知っているのではないかと思い込んでいます。でも、彼らにそんなことがわかるはずがないではありませんか。

彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。同じ世界を私たちと同じように見ているのであって、超越的な知識を持っているわけではないのです。私たちより少し先に非二元を理解したにすぎません。理解したことによって特別の意識の状態になったということは決してないのです。

多くの人が、探求が終わると何か特別なことが起こって意識の変容が起こると思っています。そんなことは起こりません。なぜなら、探求などもともとないからです。探求という概念そのものに時間という観念が含まれています。探求による成長や変化はマインドの中で勝手に想像した産物に過ぎません。時間がなければ探求などないのです。あるのは今ここにある意識だけであり、成長も変化も探求もないのです。私たちはもともとそれなのです。

覚醒した人なんていません。非二元の教師だって悩みごともあれば心配ごともあります。ただ彼らは、悩みごとや心配は単なる思考に過ぎないということを心底理解しているにすぎません。かつては、自らを覚醒したグルだと宣言して、祭壇の上で覚醒した人を演じるグルや教師もいました。でも今日では数多くの非二元の教師たちが現れ、インターネットの発達と相まってそんなイカサマを暴いてくれています。

自らを覚醒した存在だとして信奉者を集める手口は時代遅れのイカサマです。決して騙されないでください。もし、エンライトメントや覚醒などないと多くの人が知っていたら、数多くの悲劇を防ぐことができたであろうし、今後も繰り返し起こるであろう悲劇を避けることができると思うのです。

非二元の教えを正しく理解すれば、エンライトメント、覚醒がないということは容易に理解できます。非二元の教えを正しく理解すると、「私」は思考のかたまり、条件付けにすぎないということがわかります。つまり、「私」は実在しないのです。実在しない「私」がどうやって覚醒するというのですか? エンライトメント、覚醒があると言ったとたんに、いるはずのない「私」が現れて、その「私」が覚醒するというストーリーをマインドがでっちあげてしまうのです。

エンライトメント、覚醒という概念には、今覚醒していない私がいつか未来に覚醒するという時間の観念が含まれています。非二元の教えでは時間は思考の中にしか存在しないのです。いつか未来に覚醒するという発想そのものが非二元ではなくなってしまうのです。

そして極めつけは、覚醒する前の意識と覚醒した後の二つの意識があると思っているのなら、それは二元であり非二元ではなくなってしまいます。一つの意識しかないのです。今この瞬間、ここにある意識がすべてであり、他には何もないのです。二つの意識を認めることは、非二元の基本を踏み外した思考の産物に他なりません。

最後に非二元を理解する上で誤りやすいいくつかの点について書いておきます。時々、ネット上で見聞きすることですが、非二元を運命論や宿命論のように考えている人がいます。例えば、私たちの人生はすでに出来上がった映画のようなもので、ストーリーはもう決まっているというものです。それは正しくありません。非二元は運命論でも宿命論でもありません。何も決まってはいません。

運命論を語る場合、その大前提になるのは、そこにその運命を生きる「私」がいるということです。でも、非二元の教えでは「私」は実在しません。だとすると、誰がその運命を生きるというですか? そしてまた、運命論には時間という概念が入っています。ところが非二元の教えでは、時間は人の思考の中にしか存在しません。勝手に未来の運命を考えているのは思考の中だけです。運命論を口にしたとたんにマインドが「私」と「未来の時間」を作り出していることを理解してください。

私がセイラーボブに会って間もないころ、「人の未来がすべて決まっているのなら、努力は何の役に立つのですか?」と聞いたことがあります。するとボブは、「誰が努力をするのですか? 努力は自然に起こっています」と言いました。そこには、努力をする「私」も運命を生きる「私」もいないのです。

そしてまた、自由意志についても同じことが言えます。「自由意志はない」と言う人がいますが、それも正しくありません。「自由意志はない」と言ったとたんに、自由意志を持たない「私」が現れます。「自由意志はある」と言っても、自由意志を持つ「私」が現れます。「私」という主体が実在ではないのに、誰が自由意志も持つのですか? 自由意志があるとかないとか言うこと自体がおかしいのです。そしてまた、自由意志という概念にも時間の観念が含まれています。

同じ理屈は、輪廻やあの世の話にも当てはまります。「人は輪廻するのですか?」と問うこと自体が間違いなのです。そこに輪廻の主体となる「私」がないのなら、誰が輪廻するというのですか? そしてまた輪廻や生まれ変わり、あの世にも時間という概念が含まれています。

非二元の教えをきちんと理解していれば、運命論や自由意志、転生やあの世の話は出てこないはずです。「私」は実在しない。時間は思考の中にしかない。今ここにある意識だけが実在である。こうしたことは非二元の教えの基本です。そして、今ここにある意識だけが実在だと理解すると何が起こるのか。私たちの悩みや苦しみはすべて実在ではなく、想像の産物だという理解が起こります。

心理的な苦悩は不要です。逆に言うと、非二元の教えを理解して起こることは、心理的な苦悩からの解放だけです。引き寄せの法則がスムーズにいくとか、社会的に成功するということではないのです。悩みや苦しみは依然として起こってきます。でも、それには実体がないということを理解していて、巻き込まれることがなくなります。得られるものはそれだけであり、それこそがセイラーボブをはじめとする非二元の教師たちが教えていることです。

私は非二元の教えを十分に理解したつもりです。でも、それを体現して生きているかというと、そうとも言えません。いくらそれが実体のない思考にすぎないとわかっていても、悩みや不安にあっと言う間に圧倒され、ありもしない未来をさまようこともしょちゅうです。まだまだだなぁ思う毎日です。でも、基本的なことをしっかりと理解していれば、以前と同じように問題を雪だるま式に大きくしたりせず、問題は自然に解決するとわかっています。もともと問題などありはしないのですから。

セイラーボブと別れる時、彼は私に「このことをたくさんの日本の人に教えてあげて」と言いました。私はセイラーボブから学んだ非二元を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。でも、非二元の教えを十分に体現して生きているとは言い難い私が教師面してミーティングをしたり個人セッションをしたりする気にはなれません。それに、インターネットがこれほど発達した今日、もはや非二元の教えは誰かに直接会って教えてもらわなければ学べないというものではなくなりました。非二元の教えはこのブログを一通り読んでいただければ十分に学べることです。それを体現して生きるかどうかはそれぞれの人次第です。私はこれからもせっせとブログを書いて、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思っています。それで私の役目は十分に果たせていると考えています。

謝辞

以下の人たちに感謝します。

私にセイラーボブのことを教えてくれた友人に。
一緒にミーティングに参加して、いろいろ教えてくれたトビー、ビル、サビーナ、ラメッシに。
セイラーボブの教えの理解に役立った「LIVING REALITY」を書いてくれたジェームズ・ブラハに。
セイラーボブの教えを最終的に理解することを助けてくれたギルバートとカットに。
さらに深い理解と洞察をもたらしてくれたピーターとカリヤニ、U.G.クリシュナムルティをはじめとする多くの非二元の教師たちに。
セイラーボブをはじめ、多くの非二元関連の本を翻訳して先駆的な仕事をしてくださった高木悠鼓さん、たくさんの非二元の本を翻訳してくださった古閑博丈さん、ナチュラルスピリットの皆さんに。
仏教の中にある非二元(無我)の理解を助けてくださった佐々木閑先生、横田南嶺老師に。
ブログを読んでいただいた皆さん、おたよりでブログを盛り上げてくださった皆さんに。
そしてもちろん、私にこんなに素晴らしいものを教えてくれたセイラーボブと、あらゆるものとなって現れている一つのものに。

2024/04/30

生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています

生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています。何の努力もなく。
生は思考さえも引き起こしています。というのも、エネルギーは出口を見つけなくてはいけないからです。
生はあなたが世界を見る光となってあなたの目を輝かせています。
あなたは見るためにどんな努力をしましたか?
あなたの目を輝かせるためにどんな努力をしましたか?
聞くためには? 考えるためには? あなたはどんな努力もしていません。
                                    セイラーボブ

2024/04/26

それが習慣のパターンだと見抜いたなら

「私」という狭い視点から見るのでなく、全体性から見ると、物事に対処するのは簡単になるはずです。
すると何が起こるでしょうか? 誰にもわかりません。
ひとたび古い習慣のパターンを見破ったなら、それが習慣のパターンだと見抜いたなら、そこにはもはや以前のような強烈さはありません。
                                     セラーボブ

2024/04/23

非二元の教師たちのYouTube

非二元の教師たちのYouTubeの登録者数を調べてみました(数字は4月20日時点)。








登録者数からみると、一番人気はルパート・スパイラです。しかも私の観察では以前見た時よりもかなり数字が伸びています。セイラーボブはたったの3790人。横這い。それぞれのYouTubeチャンネルの作り方も違うし、更新頻度、動画の数の違いもあるので、一概に登録者数が人気を反映しているとは言えませんが、ルパート・スパイラが人気なのはうなずけます。

それにしても、トップのルパート・スパイラですら45万人です。非二元という分野の人気のなさを物語っています。世界中で、これだけの人しか見ていない。そう考えると、佐々木閑先生と横田老師は日本だけでこれだけ登録者がある。

佐々木閑先生 1.63万人


某全米人気ナンバーワン教師のYouTubeチャンネルは200万人近い登録者がいてびっくり。しかもしっかり広告入り。スピリチュアルのチャンネルに広告を入れるんじゃない! あ、入れてもいいです。別にいかんことはない。でも儲かるやろうなぁ。

2024/04/19

非二元の教師たち・まとめ

昨年10月にカリヤニと話をしてから、セイラーボブ以外の非二元の教師の本も読んでみようと思い、何冊かの本をまとめ買いしました。途中、さらに読みたくなって二冊追加。全部の本の感想をブログに書き終えたので、そのまとめを書きます。

取り上げた本(バイロン・ケイティは非二元の教師ではないのでここでは載せません)

「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーン

「プレゼンス 1プレゼンス2」 ルパート・スパイラ 

「生まれながらの自由」 ジャック・オキーフ

「今、永遠であること」 フランシス・ルシール

「気づきの扉」 ティモシー・フリーク

「つかめないもの」 ジョーン・トリフソン

「夢へと目覚める」 レオ・ハートン

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド

「すでに目覚めている」 ネイサン・ギル

「何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて」 トニー・パーソンズ

「もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める」 ジェフ・フォスター




「どの本が良かったの?」という質問が届きそうなので、書いておきます。選定基準は、読みやすく・わかりやすく・読んで楽しかったもので選びました。
この四冊がとても良かったです。

私が非二元を学んだのはセイラーボブからです。その影響で私は、細かく説明するのではなく、断定的に、「あなたは思考でも身体でもない。あなたは意識だ。以上終わり」というタイプの教師が好きです。この四冊は語り口がボブに似ていて、とてもわかりやすかった。

もちろん、他の本がよくないという意味ではありません。他の本もそれぞれすばらしかった。たとえば、私は非二元の教師が何を教えているのかよく知らないから基本的なことが知りたいという人には、「気づきの扉」 ティモシー・フリーク「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーンが良いと思います。

また、理解や気づきの過程・方法をもっと詳しく知りたい人には、「われ在り I AM」ジャン・クライン「今、永遠であること」 フランシス・ルシール「プレゼンス 1プレゼンス2」 ルパート・スパイラ が良いと思います。少し手ごわいけど。また、エクササイズを通して学びたいという人には、「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド。そして、高木悠鼓さんのYouTube ダグラス・ハーディングのワークショップもわかりやすいです。


ここに掲載した非二元の教師たちは何を言っているのか、その共通点は何なのか。まず第一に、ここに掲載した教師たちのうち誰一人として、「私はエンライトメントした」あるいは、「私は覚醒した」と言っている人はいません。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって至福に包まれたとか、光に包まれる体験が起こって意識に変容が起こり、もう悩みが起きない、といったたぐいの体験のことです。

つまり、彼らの教えていることは、エンライトメントや覚醒ではないということです。本の中では、「覚醒」、「目覚め」という言葉が出てくるものもありますが、それはあくまでも「理解した」「気づいた」「実感した」という意味であり、原語としては awake もしくは awakening のはずです。多くの人が、非二元の教師たちは覚醒した人たちであり、私たちとは違う意識の状態にあると思っています。でも、そうではないのです。彼らも私たちと何も変わらない普通の意識の人たちです。

非二元の教えを理解したら、意識の変容が起こるとか、特別な体験をするということはありません。なぜなら、彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。もし彼らが私たちとは違う覚醒した人たちだという先入観を抱いて彼らの本を読むと、彼らの言う事がさっぱり理解できなくなります。なぜなら、本の中には探しているようなエンライトメントや覚醒はないからです。

また、一瞥体験について語っている教師もほとんどいません。例外的にネイサン・ギルは一瞥体験について語っていますが、あとになって、それは非二元とは関係ないと否定しています。時々、一瞥体験について語っている人を本やブログで見かけますが、私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。「私はそこにいなかった」というのが一瞥体験の常套句ですが、ではどうしてそこに私はいなかったことを覚えているのですか? もし私がいなかったのなら、私がいないのを覚えているのは誰なのですか? 

彼らが教えているのは何なのか。それは本質としての「私」のこと。彼らはそれを様々な言葉で形容します。意識、純粋意識、アウエアネス、空間、生、気づき、真我、それ。教師によってまちまちですが、みんな同じもののことを指しています。そして、本質としての「私」は思考でも身体でもないというのが非二元の教えの核です。

何人かの教師は、意識と純粋意識を分けています。思考や五感などを意識と言い、その背後にあるものを純粋意識と言っています。純粋意識とは、夢さえ見ないような深い眠りの状態にあるような意識のことだという人もいます。深い眠りの意識の状態を、眠りから覚めて思い出すことができないように、私たちはその純粋意識を認識することはできないと言います。

でも、私はこの純粋意識と意識という区分けが好きではありません。セイラーボブのように、そんな区分けをせずに、意識とだけ言う教師もいます。私にはそっちの方がわかりやすい。単純に思考の背後にある意識でいいと思います。でも、その意識とは何なのかと聞かれても説明できる人はいないのではないでしょうか。

それぞれの教師は、それが何なのかを本の中で説明しようとします。あなたはもともとそれであるというのがほとんどの教師の語るところですが、それを理解する方法については、教師によってまちまちです。エクササイズ・実験を使う人、問いかけをする人、対話形式の人。説明だけの人。

そして、その理解の起こり方の説明は教師によってまちまちです。あなたはもともとそれだ、以上終わり、という教師もいれば、それは簡単なことではない、時間はかかる、という教師もいます。私は前者のタイプの教師が好きです。でも、それは個人の好みの問題だと思います。私の場合、「言っていることはわかるけど、確信がない」という状態が長く続いて、ある時絶対的な確信が起こったので、どちらかといえば後者のような理解の仕方だったかもしれません。

そして、非二元の教えを理解すると、どんな良いことがあるのか。彼らがアウエアネス・意識・気づき・空間と呼ぶものを至福と表現する人もいれば、愛と言う人もいます。気楽になるという人もいます。それはそれぞれ個人が自分で体験して感じるものだと思います。そして非二元の教師たちが最終的に目指すところは、人々を精神的な苦悩から解放することです。苦しみや悩みは思考の産物にすぎず、実体のないものであるということを心底理解することこそが、彼らが教えていることではないでしょうか。

私は「エンライトメントある派」の教師を支持しません。もともと私が取り上げた教師たちはギルバートのサイト(The Urban Guru Cafe)からリストアップした人を、古閑博丈さんのブログ高木悠鼓さんのブログを参考にして、日本語で読める本を選んで買ったものです。ギルバートは非二元をよく理解しているし、非二元の教師たちの良し悪しにも精通しています。その多くには実際にインタビューをしています。私が取り上げた非二元の教師たちは、みな信頼に足る教師たちです。非二元関連の本は、残念ながらその多くがすぐに絶版になってしまいます。なるべく上質な教師の本に触れておきたいものです。

2024/04/16

あなたは純粋で静かな澄みきった気づきの空間

あなたは純粋で静かな
澄みきった気づきの空間

そこには誕生も
行為も
「私」もない

あなたは一なるもの
変化も死もありえない
                            アシュターヴァクラ・ギーター

2024/04/12

あなたは一なるもの

あなたは一なるもの
純粋な気づきだ
それを知りなさい

この確信の炎で
無知の森林を焼き尽くしなさい

悲しみからあなた自身を解き放ち
幸せでありなさい!
                           アシュターヴァクラ・ギーター

2024/04/09

アシュターヴァクラ・ギーター

Ashtavakra Gita アシュターヴァクラ・ギーター  トーマス・バイロン(著) 福間巌(訳)


レオ・ハートンの「夢へと目覚める」の中に「アシュターヴァクラ・ギーター 」からの引用文がいくつかあって、それがとても良かったので、この本を読むことにしました。

********* 以下はAmazonのサイトから ****

Amazonの本の説明
誰によって、いつ書かれたかは定かではないが
時を経て愛され、読みつがれてきたアシュターヴァクラ・ギーター
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典。
ラマナ・マハルシ、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ニーム・カロリ・ババ・・・古来より、インドの聖賢すべてに愛され、賛嘆され、語り継がれてきた真我探求のための聖典。

あなたは、純粋な気づき
すべてのものごとを見守る観照者なのだ
世界はただの幻にすぎない

放棄することを放棄しなさい!
何も拒んではならないし、何も受け入れてはならない
静かにありなさい。だが、何よりも幸せでありなさい。
ただものごとをあるがままに知ることで、
あなたは自己を見いだすだろう

インドの霊性の歴史は、意識の源泉を探求し続け、自己の本性である真我を実現するに至った偉大なる覚者を数知れず生み出してきた。
彼らが確立した数多くの教義のなかでも、現在もっとも勢力をもち、広く行きわたっている教えがアドヴァイタ・ヴェーダーンタである。
ヴェーダーンタは世界最古の聖典『ヴェーダ』の最後に表された『ウパニシャッド』の教えを基本とした宗教哲学であり、その一学派であるアドヴァイタは「不二一元論」と呼ばれ、宇宙の根本原理ブラフマンと自己の本質アートマンの同一性を主要な教義としている。幾世紀にもわたって受け継がれてきたこの教えは、インドを代表する2人の偉大な聖者ラーマクリシュナ・パラマハンサとラマナ・マハルシの弟子たちによって広く紹介されて世界中に浸透し、21世紀に入り、急速な広まりを見せている。

山に籠もることや宗教組織に加わること、剃髪して僧衣に着替えることでなく、オフィスや学校で、あるいは電車の中で、各個人が日常生活において誰にも知られないで静かに内面に向かい、「私」という想念が湧き起こる自己存在の源にとどまることで真我に至ることができるという革新的な教えである。

著者について
英訳者:英国生まれ。オックスフォード大学のベリオール・カレッジ、ハーバード大学にて博士号取得。ハーバード大学で歴史学と文学を、オックスフォード大学のエクセター・カレッジ、セント・キャサリンズ・カレッジで英文学、古代および中世英語学の教鞭を執る。76年、米国に移住。ニーム・カロリ・ババの弟子である米国の霊的教師マ・ジャヤ・サティ・バーガヴァティーの弟子となり、フロリダのカシ・ファウンデーション会長を務める。その後、マ・ジャヤ・リヴァー学校を創設。91年にその生涯を閉じるまで校長を務める。著書に、『ブッダの語る覚醒への光の道―原始仏典「ダンマパダ」現代語全訳』(三雅出版)がある。

翻訳者
1960年、山口県萩市生まれ。74年より北鎌倉臨済宗円覚寺にて参禅。79年、インドにてラマナ・マハルシの教えに出あう。玉川学園大学英米文学科卒業。スリランカ、インドの仏教僧院にて瞑想を修する。92年まで米豪欧にてデザインの仕事、ドイツ他にて瞑想指導に従事。長年インドに滞在し、多くの聖賢に出会う。訳書に『アイ・アム・ザット 私は在る』『あるがままに』『ラマナ・マハルシの伝記』『覚醒の炎』(以上、ナチュラルスピリット)他がある。

********* 以上Amazonのサイトから ****

この本は古今東西、アドヴァイタを学ぶ人たちによって広く読まれてきた聖典のようです。わかりやすい言葉で書かれていて、読みやすいです。内容は非二元そのもの。

原文の英文が同じかどうかはわかりませんが、「夢へと目覚める」にある古閑博丈さんの訳とあわせて紹介させていただきます。太字がこの本の福間巌さんの訳、普通の字が古閑さんの訳です。

11-6
私は身体ではない
身体は私ではない
私は気づきそのもの

私は身体ではなく、
身体は私ではない。
私は意識そのものだ。

15-9
身体はその本来の性質に縛られている
それは現れ
しばらくの間、生きながらえ
消え去る
だが、真我は来ることもさることもない
ならば、なぜ身体について嘆くのか?

身体は縛り付けられている
その本来の特性によって。
それはやって来て、しばし留まり、行ってしまう。
だが真の自己はやって来ることも行ってしまうこともない。
なのになぜ身体のことで嘆き悲しむのか。

2-20
身体とその恐れ
天国と地獄、自由と束縛
すべてはただの作り話
気づきそのものである私に
何の関わりがあるというのか?

身体はまやかしであり、
それが感じる恐れもまやかしだ。
天国と地獄、自由と束縛。
すべてが作り話だ。
どうして私がそんなことを気にかけようか。
私は意識そのものなのだ。

1-14
わが子よ、
自分は身体だと考えるために
あなたは長い間束縛されてきた
あなたは純粋な気づきだと知りなさい
この知識をあなたの剣として
鎖を断ち切るのだ
そして幸せでありなさい!

自分は身体だと思っているせいで、
長いあいだお前は縛られてきた。
自分は純粋意識だと知れ。
この知識を剣として
鎖を断ち切れ。
そして幸福であれ!

*****

「幸せでありなさい」という言葉がいいですね。

まだまだ良い言葉がたくさんあるのですが、あまり引用するとしかられのでこれだけにします。こんなにわかりやすく非二元の本質を教えている聖典があるとは知りませんでした。この本は、繰り返し繰り返し「私」が何であるかを教えてくれています。内容は、英訳者のまえがきがあって、詩文形式の聖典が続き、最後に翻訳者のあとがきがあります。

聖典の部分は、読もうと思えば半日もかからない長さで、しかもわかりやすい言葉で書かれています。手元に置いて、何度も読みたくなる内容です。ぜひ読まれることをおすすめします。福間さんのあとがきに良い言葉があるのですが、あまり引用するとしかられので、ぜひご自分で手に取って読んでください。

2024/04/06

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その20」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)


仏教は無我の教えです。つまり、私(我)はいない(無)のです。では何が輪廻するのか? この説明はまったくよくできていると思います。

4月8日追記 ナーマ・ルーパとは
この話はまったく非二元の話です。私とは、肉体、心的要素、そして外界も含めたものだという説明には驚きました。

2024/04/05

ただ生だけがある

何よりもまず、誰も生きてはいない、ただ生だけがあるだけだということを認識してください。生きている個人というのは間違った思い込みです。
                           ジャン・クライン(われ在り I AM

4月1日 近所のジョギングコースにて。   ムスカリが咲くと春が来たなと感じます。

2024/04/02

意識の外には何もありません

意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます。
                         ジャン・クライン(われ在り I AM

3月30日 恵那市大井町にて。他はまだ咲いてないのに、この木は満開でした。