2024/09/27

あなたは思考ではありません

ボブ:古い習慣のパターンは、何年もの間条件反射として続いてきたので、しばらくは続くでしょう。しかし、ひとたびその居場所を失い、エネルギーがそこから抜けると、そこに留まることはありません。もはや重要なものではなくなります。

質問者:では、ただ単に思考を見つめればいいのですね?

ボブ:あなたは思考よりも前にいます。あなたは思考ではありません。それに気づいてください。その認識、その純粋な知性の中に、それはそのまま存在しています。
                                    セイラーボブ

2024/09/24

「いのち」は実在しない

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その58」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

「いのち」とは、「たましい」とは、そして「私」とは何か?
今回も素晴らしい話でした。

2024/09/21

一つもの(oneness)を理解しようというのは罠です

一つもの(oneness)を理解しようというのは罠です。そのままにしておいてください。
                                    セイラーボブ

2024/09/20

返事のおたよりをいただきました

拓さん早々のお返事ありがとうございます。
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした

> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解の
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きな
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと
> 思います。

はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は承知しています。

> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。

はい。私もそのように思います。

> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。ま
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」とい
> う基本さえ外れていなければ。

はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳なく思います。拓
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。

例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダムソンの生涯の教
え』に書かれている以下のような表現です。

・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点から…」
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないのです…」
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残されるのです。そ
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染されたり傷つけられた
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたことがありません。そ
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありませんでした。」

その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見ることができない
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理解されるもの、と
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる1なる本質」とい
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思って探してしまう
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との説明が加わると、
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくちなので。
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できませんし、ただいま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れるし、心臓は鼓動
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象はとどまらず自ず
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できるので混乱しないの
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基本的にはそのとお
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったということでした。
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの

お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。

ケン


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おたよりをありがとうございました。
時々、自分が死んだら全部の思考が停止して、何も感じなくなるのは寂しいなと思うことがあります。いくら小さな波が海に帰るだけだと言われても、もう架空の「私」を感じることもできないのは寂しい気がします。
そこにアウエアネス、あるいは知性エネルギーと呼ばれるようなものがあったとしても、肉体がない以上、それを感じることも表現することもできないと思います。
でも、それも全部、今現在人間という参照点から見た想像なのであって、実際そこに何があるかは、誰にも解きえない永遠の謎だと思います。
このあたりの話は非二元の教師によって味付けの仕方がまちまちなので、あまり深く考えてもしょうがないと思います。
「私は実在ではない」とだけ理解すれば十分かなと思います。
おたよりどうもありがとうございました。

2024/09/19

おたよりをいただきました

拓さんはじめまして
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。

私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハーディング、マハラ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してきている者です。
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちらのブログを発見し
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私のような探求の最
中にあるものにはすがすがしく響きました。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現象としての私も確
認できませんし、かえって混乱するのかなと。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なのでしょうか?
ふと気になったのでお便りさせていただきました。

よろしくお願いいたします。
ケン

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おたよりありがとうございます。
とても難しい内容で、どうご返事したらよいのかよくわかりませんが、一応何かご返事をと思い書いています。

非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。

私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解のくだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きないと言いたいだけです。理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと思います。

多くの非二元の教師たちは、「私は実在ではない」以上終わり、という人が多く、主体や客体という話を持ち込まない人も多いので、その方がわかりやすいのかなと思います。非二元の教えの核は「私は実在ではない」ということなので、それさえしっかり説いていれば、あとはそれぞれの教師の味付けだと思います。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?

「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そんな自分はいないということを言いたいだけです。「意識だけがある」と言ってしまうと、それは誰の意識なのか、その主体は何かとなってしまう恐れがあります。実際にはそれを「意識」と呼ぶことさえ一種の観念化であって、そう呼ぶべきではないのかもしれません。仏教がいうように、そこには何もない。空だというべきかもしれません。

何もないと言ってしまった方がすっきりすると思うのですが、人間という参照点から見た場合、そこには世界を投影している何かがある気がするので、仮に「意識」という言葉を使っているにすぎません。もし、人間という参照点を離れれば、そこには何があるかは誰もわからないし、何とも表現しようもない気がします。U.G.クリシュナムルティは「意識なんてものはない」とさえ言っていたと記憶しています。

意識についても、そんな説明をしない非二元の教師も多くいます。私はセイラーボブから非二元を学んだので、意識やアウエアネスという言葉を使っていますが、実際それは何なのかと聞かれても、答えようがありません。また、それを答えることができる人がいるとは思えません。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、

そのように理解されているのなら、それで十分だと思います。私のブログが、その理解をかえってわかりずらいものにしているのなら、申し訳なく思いますが、ケンさんはもう十分に非二元を理解されていると思います。主体や客体という説明に違和感を感じてみえるなら、その説明は無視してください。「私は実在しない」ということさえしっかり理解してみえれば、あとの説明は不要だと思います。

時々自身のブログを読み返してみて「意識」という言葉は良くなかったなと思うこともしばしばです。でも、セイラーボブが「awareness」という言葉を使うので、その都合上、「意識」と訳して書いています。

私は、思想の体系や説き方は全く違うけれど、佐々木閑先生の教える仏教も師事しています。そこでは、「意識」や「主体・客体」という言葉も説明も出てきませんが、「私は実在しない」という基本だけは非二元の教えと同じだと思って師事しています。説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。また、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」という基本さえ外れていなければ。

お便りの返事としてはピントがずれていて、何の返事にもなっていないかもしれませんが、難しい内容なので、とりあえずこれでご返事とさせていただきます。

2024/09/17

私とは本当にそれなのでしょうか?

私はボブ、オーストラリア人、男、いいやつ、悪いやつ、トラウマを抱えていた。そう私が言う時、それはどれも観念であり、「私」という思考に付け足されたものです。
そのため、人々がボブについて語る時、「私」とは、そうした私として存在することになります。この観念化された、あるいは、うわべ上で思考によって作り上げられたもの。それがいまや何らかの実体を持っています。
それが存在するものの正体です。作り上げられた架空のイメージ。私が自身に対して持っている観念。でも、私とは本当にそれなのでしょうか?
                                     セイラーボブ

2024/09/13

何が死んで、何が死なないのですか?

質問者:ボブ、私たちが死んだらどこへ行くのですか?
ボブ:波が海へと戻ったら、その波はどこへ行きますか?
質問者:わかりません。
ボブ:また同じ波が戻ってきますか?
質問者:いいえ。
ボブ:では、何が死んで、何が死なないのですか?
                                    セイラーボブ

2024/09/10

身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー

あなたの本質、本当の性質を味わってください。それは、生まれることも死ぬこともない、時間も空間もない、身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー、分離も分割もないもの、それがあなたです。
                                    セイラーボブ

2024/09/06

私たちが生まれた時には言葉を知りません

もちろん、私たちが生まれた時には言葉を知りません。私たちが身に着けた言葉は、学んだり教えられたりしたものです。私たちはそれを親から学び、ものごとにラベルを貼り付けます。そのラベルは常に、良い/悪い、楽しい/辛い、過去/未来、幸せ/悲しいといったペアへとうわべ上では分割されます。それはどれも振動するエネルギーに異なるラベルを貼り付けたものです。でもエネルギーが分離しているわけではないのです。もしラベルを剝がしたら、そのエネルギーはどこに留まるでしょうか?
                                    セイラーボブ

2024/09/03

あなたは、もうすでにそれなのです

鮮明でリアルな夢から目覚めた時、その夢はどこへ消えましたか?
その夢はどれほど真実味があって、どれほど現実味がありましたか?

エンライトメントや覚醒によって手に入れたり達成できたりすることは何もないとわかってください。そこには何もありません。
あなたは、もうすでにそれなのです。
                                    セイラーボブ