2023/08/29

あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。

ゾクチェンの経典で言われているように、あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。
ただそれだけ。他には何もない。
あなたはずっとそうであったし、これからもずっとそうです。
自身を過小評価しないでください。
20年かそこらかかって探求したことを捨てて、自分が「それ」であると知って、この部屋を出ていくことができるのです。
これまでも、これからも「それ」であるというのは、すばらしいことではないですか?
それ以外のものにはなり得ないのです。
始まりもなく、終わりもなく、誕生も死もなく、時間も空間もなく、体でもマインドでもない。
                                    セイラーボブ

2023/08/25

あなたに選択権がありますか?

2023.8.20ミーティング  52:23から

ギルバート:ボブの最初の本には数百のポインター(ヒントとなる言葉)があり、その中の一つに、「言葉は物ではありません。水という言葉を飲むことはできません」というものがあります。水という言葉を文字で書くことはできます。パソコンで千回書いて、一万回プリントアウトすることもできますが、それが水になることはなく、水という言葉を飲むことはできません。

言葉は実在(being)ではありません。思考は実在ではありません。そして、アウエアネス(意識)には思考がありません。誰しも同じです。もしそれを深く考えると、何が起こるでしょうか? アウエアネスには思考がありません。明晰さ(clarity)。明晰さは、手に入れる特質ではなく、すでにあるものです。それを普遍的な特性、あるいは存在という事もできます。

すべては明晰で明らかです。そして、人は何ものにもなることはできません。実際それは蜃気楼(mirage)にすぎません。蜃気楼の中の水を飲むことはできません。あなたが人を探しても、見つけることはできません。それは単なる思考、イメージ、記憶のかたまりにすぎません。「私」という記憶が犯人のように見えるのです。その「私」が、記憶の図書館の長なのです。

その私は、うわべ上では好みがあります。ある物事を思い出すのを好み、他の出来事を忘れるのを好みます。でも、「私」の記憶はフィクションです。存在(being)のことを、人は究極のものと呼びますが、それを何と呼ぼうと、ラベルはそれではありません。そして、非実在から実在への旅は実在ではありません。

分離した存在という幻想は実在ではなく、それをあなたはどうすることもできません。実在が非実在に対して何かしなくてはいけないことがあるでしょうか? それに何ができるでしょうか? それが何かをする必要はありません。非実在は決して実在になることはありません。

「What's wrong with right now if you don't think about it.」の最後がこの話だったと思いますが、それは、「くつろいで、ありのままでいなさい(Relax, and be what you are.)」という大文字です。そして、あなたに選択権がありますか?(Do you have a choice?)

2023/08/23

唯識(ゆいしき)・世界は実在するのか

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その22」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

去年一年がかりで、仏教の中にある非二元についてこのブログに書きました。その中でも特に、唯識の思想がセイラーボブの教える非二元の世界に近いことを言っていると書いたつもりです。でも、あまり上手に書けなくて、最後は佐々木閑先生のYouTubeをたくさん転載させていただきました。

現在進行中の倶舎論の話はいまいち非二元とは関係ないなぁ、と思って見ておりましたが、今回、唯識の教えの要点を的確に語っておられます。佐々木先生はそれを「もやもや」「不思議な力」と表現してみえます。

用語も説明も違いますが、佐々木先生の説かれる仏教は、セイラーボブの教える非二元と根本的には同じではないかという気がします。仏教に興味がない人も、ぜひこのYouTubeを見てください。おおいに参考になると思います。

2023/08/22

ただ、そのままにしておいてください

考えることや思考を取り除こうとすることは抵抗です。そうすることで、それを留めさせてしまいます。
実在は、非受容、非拒絶、非執着、非分離です。
ただ、そのままにしておいてください。
そのままにしておくと、そこには二元性に対立する独立した個人という考えはありません。
分離した存在という考えがあると、二元性の中へと戻ってしまいます。
非二元性という観念もろとも、捨ててしまうほうがましでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/08/18

恐怖には理由がありません

2023.8.13ミーティング 1:06:06から

アニータ:私は実際に自分に尋ねてみました。そして、ここには(体を指さして)何もないということは明らかです。皆さんがどう見ているのかは知りませんが、それは私にとっては知的なものです。でも、ここには何ないということは明白です。だとすると、どうして私は、自分が私だと思っている人とこれほどまでに同化しているのでしょうか?

私が同化しているのは、この体の中にある何かだと思えるのです。体があって、その体が「私」はいると信じているようなものです。そのことを確認するために座って瞑想して、体の境界を消すのです。私にはその訓練が必要に思えます。というのも、そうすると、そこには何もないということがはっきりするからです。でも、この自己同化がどこからくるのかわかりません。

カット:思考です。

アニータ:何?

カット:それは思考からやってきます。もしあなたがそのことを考えなかったら、それは存在しません。

アニータ:そのとおりです。

カット:思考がなければ、あなたは同化することはできません。あなたは、自分が存在するということを知っています。でも、思考なしでは、自分が誰なのか、それが何なのか、どこにあるか、大きいのか小さいのか、宇宙全体なのか、無なのか。思考なしでは何ひとつわかりません。でも、あなたは、自分が存在するということは知っています。

アニータ:そのとおりです。そして、そこにはたくさんの恐怖があるということを認めます。

カット:どうしてそれが恐怖だとわかるのですか? あなたはそれにラベルを貼り付けています。

アニータ:ええ、ちょっと子供っぽくありたいと思っている時があります。たくさんの恐怖が根底にあって、それが体に痛みとして現れているように感じるのです。そしてここへやってくると、そのことに意識的になる助けになります。

ピーター:それが助けになっている。

アニータ:そうです。夜、家に一人でいる時にはそういう恐怖があるとか、子供っぽい瞑想は全くしません。たくさんの恐怖があって、私が深く入っていくのを止めているように思います。深く入っていくと、恐怖がやってきて、それができなくなるのです。

カット:あなたはそれを恐怖と呼んでいますが、ボブの言うことを信頼していますか? あるいは、このことを理解している他の人の言うことを信頼していますか? そうした人たちが指摘していることが信頼できると思っていますか?

アニータ:ええ、完全に全く信頼していますが、しかし、

カット:「しかし」。いいですか。その「しかし」によって信頼を放棄して、ポインターを見失っているのです。あなたは聞いたことがないかもしれませんが、ボブは何度も指摘しています。恐怖は観念であり、ラベルです。でも、それはまた肉体的な要素もあって、知覚を伴い、心臓が激しく打つかもしれないし、呼吸が激しくなるかもしれません。でも、そうしたことは、すべて思考がもとになっていることです。例えば、サーベル・タイガーが実際に部屋にいるような場合を除けば、恐怖には理由がありません。

恐怖がそこに依然としてあるなら、それは思考がもととなっています。それはとても繊細な思考です。ボブが何度か他の人にアドバイスをしているのを聞いたことがありますが、恐怖に直面した時の最悪のシナリオは、あなたが気を失うことです。あなたは死にはしません。ほんの数秒気を失うだけです。あなたが受け入るべきことは、数秒気を失うだけのことです。でも、それはおそらく起きません。

なぜなら、たくさんの人たちがここへやって来て、「OK、私は見続けることにしよう。真実のため、真実が成就するために喜んで死のう」と言いました。でも、最悪のシナリオは、マインドがはったりを利かして、「おまえを殺す。それは危険だ。やめろ。私と一緒にいろ。同化していろ」と言います。でもあなたがはったりを見抜いて、「OK、私は見つける」と言います。そして、あなたは、決してそれが起きないだろうと知ります。

私がみんなから聞いたことによると、あなたがはったりを見抜くと、マインドがあなたを気絶させることは決してありません。あなたはそれを見抜き、マインドはリラックスして、何も起きません。恐怖には根拠がありません。もしボブの言うことが信頼できるなら、自分で確かめてみてください。自分で見てください。

あるいは、その恐怖に明け渡して、調査することを止めて悩んでもかまいません。その後で恐怖に直面してみてください。そしてそれがあなたを殺すと言うのなら、何を殺すのですか? 体? マインド? それはソフトウエアにすぎません。では、何が殺されるのですか? 

ギルバート:ストーリー。

カット:ええ、ストーリーです。

ギルバート:恐怖は常に未来にあります。

カット:ええ、良い指摘です。恐怖は未来、未知です。

2023/08/15

「今」はいつ始まりましたか?

顕現の中には、どこにも静止した地点はありません。それは自然に起こっていて、時間はありません。
「今」はいつ始まりましたか?
「今」と言ったとたんに、今は終わっています。
「終わった」と言ったとたんにまた始まっています。
それは自然に起こっています。そこには時間は存在しません。
                                    セイラーボブ

2023/08/11

どんな言葉もそれではありません

2023.8.6ミーティング 43:43から

ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。

たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。

直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。

そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。

朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。

メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。

noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。

昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。

あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。

2023/08/08

本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。

忘れているように見えるかもしれませんが、思い出したり忘れたりするものはあなたではありません。
そのアウエアネスがなかったら、思い出すことも忘れることもできないということを理解してください。
忘れることを気にしないでください。
忘れることも、あなたが「忘れる」というラベルを貼るようなパターンとして現れるということをわかってください。
本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。 
                                  セイラーボブ

2023/08/04

あなたはそれを理解する必要はありません

2023.7.30ミーティング 45:19から

カット:コメントが来ています。彼女いわく、「物事が静止した世界の中を私が動くというより、私はいつも変わらずにいて、私の中を物事が動いていくという表現が好きです」。ええ、また私たちは過去数回のzoomミーティングで、似たような理解について話をしていますが、それは、命が私たちを生きているということです。すなわち、目や体は命によって生かされているということです。

私たちは、体が動くのを見ると、それを見たマインドがコメントをするのです。ええ、そのようにデザインされているからです。心臓は血液を送るようにデザインされています。体は危険を避けて心地良さと安全を求めるようにデザインされています。そしてマインドはコメントをするようにデザインされています。

そして、そのいずれもが、いかなる存在によっても行われてはいません。誰も行為者を見つけた人はいません。これはある人から受け取ったすばらしい認識ですが、言ってよいかどうかわからないので名前は伏せておきます。そのシンプルなポインターがマインドを最終的に開かせるのです。

あなたが真実を見破れば、そこには何かをする誰かはいません。それは確固たることです。命が体を生きています。そのことが、あなたにそのほかの単一性のあるゆることを明らかにしてくれます。そこに誰もいなければ、そこには分離、分割、分断する人は誰もいません。そしてまた、今朝、eメールでお便りが届きました。

これも誰からかは言いませんが、理解は、あるがままを認識することからやってくるというものです。あなた(ディーン)が言ったように、変えず、修正せず、正さない。ただ、あるがまま。そして思考。思考が、私が言った、私が聞いた、私がやった、私が影響を与えたと言います。でも、それは単なる思考です。それもその一部です。

そうした思考がなければ、それは単にあるがままです。そして思考は、でも、そこには依然として「私」はまだそれを理解していない、どうしたらボブやカットのようにそれが確かなものになるのかと言います。私にはその確かさがないというのは、すべて思考です。そこには確かな人は誰もいません。確実に理解している人がそこにいると考えても、そこには誰もおらず、空です。それは単なる思考、ブルシットです。なんと明らかなことでしょう。

それがわかると、マインドが開きます。そしてその件は終わります。それは脇に置かれ、あ~あ、それは今この瞬間だ、永遠に新鮮で永遠に新しく、生きている。そして思考。私が見ている。これが私だ。私が聞いている。などなど。それです。そういうわけで、私はこの集まりの話には、それがあふれていて好きなのです。ボブが話の終りに語ったように、誰もがそれを垣間見ていて、誰もが自然な状態に生まれるのです。

誰もが、かつては言葉より先にいました。誰もが、完全に感覚器官の体験に注意を向け、物語が入ってこないで、自由な注意力が起きるような瞬間にいたのです。みんな、夢の中へと落ちて、無からどういうふうに世界がやってくるかを見るのです。ディーンが指摘したように、顕現全体、姿形、対象物は名づけられていて、マインドによって解釈されています。

目を閉じると、同じことが起こります。昨日のことを思い出すと、その中に世界全体が現れます。それは完全に意識の中にあります。意識のアウエアネス、存在の中に、世界全体が現れるのです。あなたは誰なのですか? その存在の中の想像上の生命体ですか? それとも、存在ですか? それを否定することはできません。

そしてまたコメントが来ています。ルチカ。「世界全体が、私たちの中に投影されたものであるということを理解するのはとても難しいです。そのことで何か考えを。ボブ、カットありがとう」。

カット:すばらしい考えですね。でも、注意しなくてはいけないのは、中とか外とかはないということです。なぜなら、私たちの内側に投影されたという考えもまた、投影されたものだということです。中も外も投影です。それを行っている人は誰もいません。それは単に根底にあるソフトウエアが投影して見ているにすぎないということです。昨日ミーティングをしましたが、ある友人がその投影のことを詳しく説明しました。同じ根底にあるパターン、二元性。あらゆるものの根底にあるもの。体、空、ハッブル望遠鏡、動物の行動の中、あらゆるものの中にあるもの。

白と黒、幸せと不幸はどこにでもあります。それを理解するのは難しいことです。そして、ありがたいことに、あなたはそれを理解する必要はありません。

2023/08/01

彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです

伝統的な教師の中には、「この訓練をしなさい。あれをしなさい。何年もかかります」という人がいます。
彼らには多くの信奉者がいます。
彼らは、そのシンプルさ、自然さに気づくことがありません。
そしてもしあなたが、伝統的な信念を抱いているのなら、このことを理解するのは難しい。
尻込みしてしまうのです。
多くの人がそうです。彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです。
                                    セイラーボブ

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7月4日のブログで紹介した佐々木閑先生と横田南嶺老師の対談が再公開になりました。興味のある方はぜひご覧になってください。

佐々木閑先生のYouTubeで、またしても仏教の根本思想である「我は存在しない」という場面が出てきました。輪廻や煩悩という思想は、一般的な非二元の考え方とは相入れないかもしれませんが、根底にあるものは同じです。

そして臨済録も続いています。