2021/08/28

ネオ・アドヴァイタとは

アドヴァイタとはヒンドゥー教の中のヴェーダーンタ学派の思想、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)のことであるということを、前二回のブログで書きました。

その中で、ネオ・アドヴァイタという言葉が出てきました。セイラーボブはネオ・アドヴァイタなのかという疑問がわいたので調べてみました。結論を先に言うと、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないと思います。

日本語で「ネオ・アドヴァイタ」と検索してもWikipediaに出てこないので、英語版のWikipediaで「Neo advaita」と検索して出てきたものを翻訳掲載します。専門用語や人名の厳密な訳語を探すのは時間的な制約上難しいため、正確ではないということをご了解ください。

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Neo-Advaita (ネオ・アドヴァイタ)

ネオ・アドヴァイタとは、非二元論をともなうサットサングムーブメントと呼ばれ、準備段階の修行を必要とせずに、「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することを強調する新宗教運動である。その教えは20世紀の賢者ラマナ・マハルシの教えに由来し、H.W.L.プンジャジ(パパジ)や何人かの彼の西洋人の生徒によって解釈普及したものであるが、マハルシ公認というわけではない。

これは、アーサー・バーズルイスによる直知説と呼ばれる、より大きな宗教的潮流の一部であり、西洋と東洋の両方の精神世界にルーツがある。西洋での影響としては、超絶主義や「ニューエイジの千年紀、自己啓発、自己療法」のような、秘教的な伝統に対するものがある。

ネオ・アドヴァイタは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的枠組み」をほとんど使用していない。そのため、準備段階の修養が欠如しており、ネオ・アドヴァイタによって誘発されるエンライトメントの体験は表面的であると批判する人もいる。

目次(省略)

教え

ネオ・アドヴァイタの基本的な実践は、「私は誰か?」という質問による自己探索、または単に「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することである。この認識は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおけるアートマンとブラフマンが同一であるという認識、もしくは「形のない自己」を認識することと同じであるとされる。ネオ・アドヴァイタの人たちによると、準備段階の修養は不要で、経典や伝承の長期にわたる学習は必要ではなく、洞察だけで十分であるという。

ネオ・アドヴァイタ運動の主要な推進者の一人として知られているプンジャジは、この自己認識によって、カルマの結果による再生からの解放をもたらすと考えた。プンジャジによれば、「エンライトメントの後もカルマの影響は残っているが、エンライトメントした人はもはやカルマと同化することなく、それ以上のカルマを積むこともない」という。コーエンによれば、プンジャジは「自己実現は世俗的な行動とは何の関係もないと主張し、エゴを完全に超越することが可能であるとは信じてはいなかった」。プンジャジにとって、倫理的基準は二元性に対する二元論的な理解と個人が動作主であるという概念に基づいており、「非二元的な悟り」を示すものではなかった。プンジャジにとっての目標は自己実現であり、相対的な現実という幻想的な領域は最終的には重要ではなかった。

歴史

ルーカスとフローリーによると、ネオ・アドヴァイタの精神的なルーツはラマナ・マハルシであり、その教えと自己探求の方法は、北米のリベラルな精神的サブカルチャーと簡単に置き換わることができた。インド宗教に対する一般的な関心は19世紀初頭にまでさかのぼり、アメリカの超絶主義者と神智学協会によって活気づけられた。1930年代、ラマナ・マハルシの教えは、神智学者のポール・ブラントンが「秘密のインドでの捜索」で西洋にもたらした。アーサー・オズボーンに刺激されて、1960年代にバガワト・シンはラマナ・マハルシの教えをアメリカで積極的に広め始めた。

1970年代以降、アジアの宗教に対する西側の関心は急速に高まっていった。 ラマナ・マハルシの教えは、H.W.L.プンジャジと彼の生徒たちを介して西側でさらに普及した。 パパジとしてよく知られているプンジャジは、「一回または多くの強力な目覚めの経験をしたという理由だけで、何百人もの人たちに対して、彼らが完全に悟りを開いたと告げ、彼らがそれを信じることを許した。ネオ・アドヴァイタ あるいはサットサングムーブメントは、人気のある西洋のスピリチュアルの重要な構成要素になっている。それはその教えに簡単にアクセスできるウェブサイトや出版企業によって広められている。

ラマナ効果

ルーカスは、西洋でのラマナ・マハルシの教えの普及を「ラマナ効果」と呼んでいる。ルーカスによれば、ラマナ・マハルシは、目覚めを達成するための手段として、「私は誰か?」という質問を強調することでよく知られている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの最も偉大な現代の支持者だった。ルーカスによれば、この運動の成功はトーマス・ソルダスの存在に続いて、「携帯できる実践」と「転移可能なメッセージ」によるものだという。ラマナ・マハルシの主な実践である「私は誰か?」という質問による自己探求は、制度化されていない状況でも簡単に実践できる。彼の訪問者と信者は、自己探求を実践するために、ヴェーダーン文化を採用したり、制度やイデオロギーに自分を合わせたりする必要はなかった。ラマナの教えは西洋の状況に置き換え可能だった。ラマナ・マハルシは人々に改宗を要求せず、聖書から引用するなど、西洋の宗教に精通していた。ネオ・アドヴァイタの教師たちは、アドヴァイタの伝統的な言語と世界の枠組みをあまり重要視せず、現代の心理学化された世界の枠組みを利用して、より多くの聴衆が簡単にアクセスできる自助の形として、自らの教えを提示した。

西洋における言説

「アジアのエンライトメントの伝統」に対する西洋のアプローチは非常に折衷的であり、様々なアジアの伝統に加えて「心理学、科学、政治などの多数の西洋の言説」を利用している。 ネオ・アドヴァイタはその教えを伝えるために「ニューエイジの千年王国主義、禅、自己啓発、自己療法」などの西洋の言説を利用している。それは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的な枠組み」をほとんど使わず、「その社会的、倫理的、政治的な側面を無視して」、西洋的な経験的・多年的な神秘主義の枠組みで構成されている。 この「現代的な経験的・多年的な神秘主義の枠組み」は、Perennialism(多年主義)、つまりすべての宗教には共通する神秘的な核があり、それは個人的な経験によって経験的に検証できるという考えに基づいている。これはアジアの宗教に対する西洋での理解に浸透しており、スワミ・ヴィヴェカナンダやサルヴェパリ・ラダクリシュナンのネオ・ヴェーダーンタに見られるほか、鈴木大拙の著作や禅宗の「decontextualized and experiential account 文脈を排除した経験的な説明」にも見られる。 また、神智学協会や、オルダス・ハクスリーの『多年哲学』や『知覚の扉』、ケン・ウィルバーのような作家に影響を受けた現代のニューエイジ文化にも見られる。

グレッグ・ラフッドはまた、アメリカの超越主義、ニューエイジ、トランスパーソナル心理学、ケン・ウィルバーの作品に例示されているように、「宇宙的異種交配、精神的な楽園が結びつくプロセス」の要素としてネオアドヴァイタに言及している。 ブラウンとレレダキはこの「異種交配」を「構造化主義」のアプローチと位置づけており、これは「歴史的な過去」との連続性を主張しているものの、「発明された伝統」であり、それは「ほとんど事実無根」であると指摘している。ブラウンとレレダキはこれらの新しく登場した伝統を西洋のオリエンタリズムの一部として捉えており、それは西洋文化が東洋文化に魅了されることであり、同時に「アジアの社会、その人々、慣習、文化を『他者』という本質主義者的なイメージに還元すること」でもある。 ブラウンとレダキはまた、このオリエンタリズムは一方通行ではなく、「過去150年の間、様々な宗教的伝統のアジアと西洋の代表者の間にはダイナミックな相互作用があった」とし、この「思想と実践の融合」は東西双方のモダニズムの宗教運動からの共創であると指摘している。

アーサー・ヴェルズリュイスによれば、ネオ・アドヴァイタは、彼が即席主義(直知説)と呼ぶより大きな宗教的潮流の一部である、「特定の宗教的伝統の中で、あまり準備的な練習をしなくても、すぐにスピリチュアルな啓示が得られると主張すること」である。 その起源はアメリカの超越主義に先立つものである。バーズルイスは『American Gurus: From Transcendentalism to New Age Religion』の中で、即席主義のグルたちの出現について述べている。即席主義のグルたちとは、伝統的な宗教とは一切関係なく、即座に悟りと解放を約束するグルたちのことである。 "ヴェルズリュイスによれば、即席主義は「宗教の果実は欲しいが、その義務はいらない」というアメリカ人にとって典型的なものである。 即席主義はヨーロッパの文化と歴史にそのルーツを持ち、プラトン主義にまで遡り、多年主義も含んでいるが、ヴェルズリュイスはその重要な祖先としてラルフ・ウォルドー・エマーソンを挙げており、彼は「即時的で直接的な精神的知識と力の可能性を強調していた」。

批判

ネオ・アドヴァイタは「物議を醸す運動」と呼ばれており、準備のための修行を省き、洞察のみに重点を置いていると批判されている。また、ラマナ・マハリシの「系譜」に言及していることも批判されているが、ラマナは弟子がいると主張したことはなく、後継者を指名したこともない。

洞察と実践

洞察だけでは不十分である

「自我という幻想」を見抜くことがネオ・アドヴァイタの主眼であるが、それだけでは不十分だという批判する者もいる。キャプランによれば、これらの教師や彼らのサットサングによって誘発されるエンライトメントの体験は、表面的なものだと考えられている。

修行が必要である

デニス・ウェイトによれば、ネオ・アドヴァイタは無知を取り除くと主張しているが、無知を取り除くための助けは提供していない。 キャプランによれば、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは何年もの修行を要するが、ネオ・アドヴァイタはそうではない。古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、生徒を鍛えてモクシャを得るために「四つの修行」(sādhana-catustaya)を用いる。何年にもわたる献身的な修行は、いわゆる「ヴァザナ、サムスカーラ、身体の鞘とヴリッティ」、「グランティまたは自己と心の間の識別を形成する結び目」といった「閉塞感」を断ち切り破壊し、非二元性への洞察のために心の準備するために必要とされる。

スピリチュアルな迂回

ジェフ・フォスターとアンドリュー・コーエンは、ネオ・アドヴァイタ・コミュニティの指導者たちが、感情的な痛みやトラウマの表現を精神的な未熟さを示すものとして排除する傾向があると批判しているが、これはスピリチュアル・バイパシング(精神的な回避)と呼ばれる行為である。二人とも、自分自身の洞察や「覚醒」によって、個人的でエゴイスティックな感情、願望、恐怖を持つ人間であることがなくなったわけではなく、そうしたことは、健全な精神的成長と相反するものではないと考えている。どちらも「スピリチュアル・バイパス」という言葉は使っていないが、コーエンは「ブレークスルーを生み出そうとする誤った努力」が一部の生徒に「多くの害」を与えたことを認めている。

系統

西洋の批評家たちは、ラマナ・マハリシとネオ・アドヴァイタの間にあると思われている関係に異議を唱えている。ラマナはいかなる系統(系譜)も口にしたことはなく、自らをグルと言ったことも、弟子がいると公言したことも、後継者を任命したこともない。にもかかわらず、ラマナの系統であると主張したり、示唆したり、あるいは他の人から言われたとする現代の教師たちが数多くいる。 また、ラマナやニサルガダッタ・マハラジのような志を持つ教師たちは、料金や寄付を請求しなかったことにも言及している。

反論

これらの批判に対して、トニー・パーソンズは、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは「多くの教えや文献を持つ既存の宗教の一つに過ぎず、その全てが非常に十分かつ一貫して的外れである」と書き、それは「最終的な精神的充足を約束する個人的な教化の多くのシステムの一つ」であるとみなしている。 パーソンズによれば、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは、「エンライトメントすることができる独立した個人のようなものが存在するという根本的な誤解から生まれたものであるため、解放とは無関係である」と言う。彼によれば、それは一つであること(アドヴァイタ)に対する直接の否定であるという。

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セイラーボブは自らのことをアドヴァイタの系統の人だと言ったことはなく、ましてやラマナ・マハルシの系統の人であると言ったこともありません。また、プンジャジ(パパジ)のように、自らが「覚醒した」もしくは「何かを手に入れた」と言ったこともなく、エンライトメントや覚醒を説いたこともありません。そういう意味で言うなら、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないということになります。

ただし、古典的、伝統的アドヴァイタとの比較において、現代の非二元の語り部たちをひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼んでいる人たちもいます。でも、自らをアドヴァイタの教えの継承者であると名乗らない非二元の語り部たちを、ひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼ぶのは間違いだと思います。

前回のブログで出てきたパパジやガンガジはアドヴァイタの系列と言えるかもしれませんが、エックハルト・トールはそうではない。そもそも、ネオ・アドヴァイタという呼び方は一種の蔑称であり、好ましいものとは言えない。

Advaita Vision というサイトでは、現代の非二元の語り部たちも含めてアドヴァイタの語り部として掲載していますが、これは明らかに誤りであり、あえて扱うとするなら、Nonduality(非二元) というくくりで扱うべきだと思います。

ニサルガダッタ・マハラジがアドヴァイタの系統の人だったことは間違いないとは思いますが、セイラーボブはいかなるアドヴァイタの流派にも属していないと明言しています。

アドヴァイタの系統(系譜)ということ自体がナンセンスであり、信頼に値するものかどうかは別として、Advaita Vision にある系統図を掲載しておきます。なお、シャンカラを開祖とする伝統的なアドヴァイタ(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)は今でもいくつかの僧院がインドに存在し、シャンカラという名を代々受け継いだ人たちによって運営されています。

ニサルガダッタ・マハラジ、セイラーボブの系統

ラマナ・マハルシ、パパジの系統

シャンカラの系統

2021/08/21

Nondualism(非二元論)とは

英語版 Wikipedia で「Nondualism」を検索してみました。そこでは、日本語版の「一元論」よりも詳細な説明がされています。非二元論(Nondualism) という言葉は、アドヴァイタのことだけを指すのではなく、ウパニシャッド、アドヴァイタ、仏教、タオイズム(道教)、ゾクチェンなどの根底にある非二元の思想のことを指す。

英語版 Wikipedia の Nondualism(非二元論)にそのあたりが詳しく書かれているので、確認の意味を込めてを翻訳掲載しておきます。Wikipediaの記述を鵜呑みにしてよいのかという問題はあるし、記述が明快ではない部分もありますが、参考にはなると思います。

※この原稿は少し前に書いておいたのですが、ブログの更新にあたり元サイトを確認したところ、大幅に書き換えられていました。書き換えられたものは、かえって複雑でわかりずらいので、書き換え前のものをそのまま掲載します。

なお、一部の専門用語(宗教用語)や人名は辞書やネットで検索しても正確な訳語を見つけることができないため、原語のまま掲載します。

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Nondualism(非二元論)

スピリチュアルにおいて、非二元論、あるいは非二元は、「二つではない」あるいは「他には何もない未分割の一つのもの」という意味である。非二元とは元来、私と他者という二分法を「超越した」完成された意識の状態のことを指し、その時の意識は、「中心のないもの」「二分法のないもの」と描写される。この状態は自然に現われるように見えるかもしれないが、通常それは、禁欲や倫理的な禁止事項を伴う瞑想や瞑想的な訓練という長期の準備期間の後に起こる。(筆者注記:この、「現れる」「起こる」という表現には問題があると思います。現れもしないし、起こりもしないからです。理解が現れる、理解が起こると考えるなら、この表現でもよいと思います)

非二元の意識の描写は、ヒンドゥー教(アドヴァイタ、Turiya、sahaja)、仏教(空、pariniṣpanna、nature of mind、rigpa)、スーフィズム(Wahdat al Wujud、Fanaa、and Haqiqah) 、そして西洋のキリスト教や新プラトン主義(henosis, mystical union)の中で見つけることができる。

インドにおける非二元の思想は、ヴェーダとヴェーダ後のウパニシャッド哲学、仏教の伝統の中で発展した。インドにおけるもっとも古い非二元の痕跡は、仏教以前のBrihadaranyaka Upanishad and Chandogya Upanishadといったウパニシャッドの中に見られ、そこでは個人の魂であるアートマンと、究極の実在であるブラフマンとの一体を強調している。ヒンドゥー教において、非二元はより一般的にアジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダ-ンタの伝統と関連付けられてきた。

仏教の伝統において、非二元(advaya不二)は空(śūnyatā)の教えと、二つの教義、とりわけ、中論の非二元の教えである究極の相対的真実と、Yogachara( 唯識瑜伽行派)の「唯識」(citta-matra) 、すなわち「表象のみ」(vijñaptimātra)に関係している。こうした教えは仏性に関する教義とともに、その後、インドのみならず、東アジア、チベット仏教、とりわけ中国におけるChan(禅)と密教といった大乗仏教に大きな影響を及ぼす概念となった。

西洋の新プラトン主義は、キリスト教の観想と神秘主義の両方、そして西洋の秘教主義と現代の精神性、特にユニテリアン主義、超越主義、普遍主義、そして永遠主義の本質的な要素である。

目次(目次はその項目の個所にリンクが貼ってありますが、省略します)

1 語源
2 定義
3 ヒンドゥー教
 3.1 ヴェーダーンタ
 3.1.1 アドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.1.1 実在の 3 つのレベル
 3.1.1.2 仏教との類似点と相違点
 3.1.2 ヴィシュタドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.3 新ヴェーダーンタ
 3.2 カシミール・シヴァ派
3.3 現代の不二一元論
 3.3.1 ラマナ・マハルシ
 3.3.2 ネオアドヴァイタ
 3.3.3 ナータ・サンプラダヤとインチェゲリ・サンプラダヤ
4 仏教
 4.1 インド
 4.1.1 中観派
 4.1.2 唯識瑜伽行派の伝統
 4.1.3 その他
 4.2 東アジア
 4.2.1 中国
 4.2.2 禅
 4.2.3 韓国
 4.3 チベット
 4.3.1 Adyava: Gelugpa スクール Prasangika Madhyamaka
 4.3.2 シェントン
 4.3.3 ゾクチェン
5 シーク教
6 道教
7つの西洋の伝統
 7.1 ローマ世界
 7.1.1 グノーシス主義
 7.1.2 新プラトン主義
 7.2 中世のアブラハムの宗教
 7.2.1 キリスト教徒の観想と神秘主義
 7.2.2 ユダヤ教のハシディズムとカバラ
 7.2.3 イスラームにおける新プラトン主義
 7.3 西洋の秘教
 7.3.1 永遠の哲学
 7.3.2 オリエンタリズム
 7.3.3 超越主義とユニテリアン・ユニバーサリズム
 7.3.4 新ヴェーダーンタ
 7.3.5 神智学協会
 7.3.6 ニューエイジ
8 学術討論
 8.1 非二元意識と神秘体験
 8.1.1 開発
 8.1.2 批判
 8.2 共通の本質としての非二元的意識
 8.2.1 共通の本質
 8.2.2 批評
9 こちらもご覧ください
10 注意事項
11 参考文献
12 ソース
 12.1 公開されたソース
 12.2 ウェブソース
13 続きを読む
14 外部リンク
 14.1 中観派
 14.2 ラントンシェントン
 14.3 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ
 14.4 アドヴァイタと仏教の比較
 14.5 ヘシカスム
 14.6 非二元意識

語源
非二元論に言及する場合、ヒンドゥー教は一般的にサンスクリット語の Advaita を使用するが、仏教は Advaya (チベット語: gNis-med、中国語: pu-erh、日本語: fu-ni) を使用する。

「アドヴァイタ」は、サンスクリット語の a (not)、 dvaita(二元論)、dual(二元的)に由来し、通常は「非二元論」、「非二元性」、「非二元」と訳される。 「非二元論」という用語と、その語源である「アドヴァイタ」という用語は、多様な意味を持つ言葉である。英語の nondualism の語源は、ラテン語で「2」を意味するduoで、接頭辞「non-」は「not」を意味する。

「Advaya」はまた、サンスクリット語で「アイデンティティ、ユニーク、二つではなく、一つもない」を意味し、通常、大乗仏教、特に中論の2つの真理の教義を指す。

アドヴァイタ(Advaita)という言葉の最も初期の使用の 一つは、Brihadaranyaka Upanishad (紀元前 800 年まで) の 4.3.32 節と、Mandukya Upanishad (紀元前 500 年から紀元前 200 年の間で書かれたとさまざまな日付がある) の 7 節と 12 節に見られる。この用語は、以下のように、アートマン (個人の魂) とブラフマン (普遍的な意識) の一体の説話を含むセクションのブリハダラーンヤカ ウパニシャドに現れる。

(ウパニシャドからの抜粋:省略)

英語の「Nondual」という用語は、1775年以降の英語以外の西洋言語でのウパニシャッドの初期の翻訳によっても知られた。これらの翻訳は、ミュラー (1823 年 - 1900 年) の記念碑的な仕事、東方聖典群集 (1879 年) から始まった。

マックス・ミュラーは、最近の多くの学者がそうであるように、「アドヴァイタ」を「一元論」と訳した。ただし、一部の学者は、「アドヴァイタ」は実際には一元論ではないと述べている。

定義
参照: 一元論、心身二元論、二元論的宇宙論、多元論 (哲学)。
非二元論はあいまいな概念であり、多くの定義を見つけることができる。

エスピン と ニコロフによると、「非二元論」は、ヒンドゥー教、仏教、道教の一部の学派における思想であり、一般的に言えば、宇宙の多様性は 一 つの本質的な実在に還元できると教えている。

しかし、古代から現代まで、さまざまなスピリチュアルや宗教の中に同様の思想や用語があるため、英語の「非二元性」という言葉の単一の定義では十分ではなく、様々な「非二元」や非二元の思想があるというのがベストであると思われる。

主体と客体の間の非二元性を道教、大乗仏教、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの共通項として見ているデビッド・ロイは、「非二元性の5つの特徴」を区別している。

正反対のペアにおける二元的思考の否定。道教の陰陽のシンボルは、この二元論的な考え方の超越を象徴している。
一元論、世界の非複数性。現象世界は複数の「もの」として現れるが、実在としては「一枚の布」である。
アドヴァイタ、主語と目的語の非二元性、あるいは主体と客体の間の非二元性。
アドバヤ、現象と絶対の同一性、「二元性と非二元性の非二元性」、中観派仏教に見られる相対的かつ究極的な真理の非二元性と、二つの真理の教義。
神秘主義、神と人間との間の神秘的な合一。

非二元論の考え方は、通常、二元論と対比されるが、二元論は、宇宙と実在の性質が、神と世界、または神と悪魔、または心と物質などの二つの現実から構成されているという見解として定義されている。

非二元性の考え方は、西洋の宗教や哲学でも教えられており、現代の西洋のスピリチュアルとニューエイジの思想において、魅力と人気を博している。

非二元性に関連するさまざまな理論や概念は、さまざまな宗教的伝統で教えられている。これには次のものが含まれる。

ヒンドゥー教(英語版Wikipediaのヒンドゥー教にリンクが貼ってありますがリンクは省略します)
・ウパニシャッドでは、主に tat tvam asi (タットバマシ・汝それなり)という非二元論的な方法で解釈された教義を教えている。
・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ では、単一の純粋な意識が唯一の実在であり、世界は非現実的(マヤ)であると教えている。
・Kashmira Shaivismや女神を中心とした Shaktism を含むヒンドゥー教のタントラ の非二元論。彼らの見解はアドヴァイタに似ているが、世界は非実在ではなく、意識の現れであると教えている。
・主にアドヴァイタとラマナ・マハルシやスワミ・ヴィヴェーカーナンダのような現代のインドの聖人が教えるヒンドゥー教のモダニズムの形態。

仏教(リンク省略)
・Shūnyavāda (空観) または Mādhyamaka (中論)学派は、従来の真実と究極の真実、および輪廻と涅槃の間にもまた非二元関係がある (つまり、真の分離はない)という見解である。
・Vijnānavāda あるいはYogachara( 唯識瑜伽行派) は、主体と客体、すなわち認識者と認識されるものとの間に究極の認識的、概念的な分割は存在しないと考えている。それはまた、意識だけがあると主張して、心身二元論に反対している。
・すべての存在は仏になる可能性があるというタタガタガルバの思想。
・ヴァジュラヤナ仏教 、ゾクチェン とマハムドラのチベット仏教の伝統を含む。
・禅 や華厳宗などの東アジアの仏教の伝統、特に縁起の概念。

タオイズム(道教、老荘思想)(リンク省略)
タオイズム は、タオ (文字通り「道」) と呼ばれる単一の微妙な普遍的な力または宇宙の創造力の思想を教えている。

スブド(リンク省略)

アブラハムの伝統(リンク省略)
マイスター・エックハルトやノリッジのジュリアンなど、「非二元体験」を促進するキリスト教神秘家。このキリスト教の非二元論の焦点は、崇拝者を神に近づけ、神との「一体性」を実現することにある。

スーフィズム(リンク省略)

ユダヤ教のカバラ(リンク省略)

西洋の伝統
・すべての現実の源はただ一つ、一つであると教えている新プラトン主義。
・ヘーゲル、スピノザ、ショーペンハウアーなどの西洋哲学者 は、さまざまな形態の哲学的一元論やイデオロギーを擁護した。
・ドイツのイデオロギーとインドの宗教の影響を受けた超越主義。

神智学(リンク省略)

ニューエイジ(リンク省略)

ヒンドゥー教

「アドヴァイタ」とは、ヴェーダーンタ、シャクティイズム、シヴァイズムでは、非二元論、実在としての非分割、つまり、実在としてのアートマン (個人としての自己) とブラフマン (単一の普遍的な存在) の一体性を意味する。アドヴァイタという用語は、アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ学派からのものが最もよく知られているが、「アドヴァイタ」は、多くインドの中世の学者だけでなく、現代の学派や教師の論文で使用されている。

ヒンドゥー教のおけるアドヴァイタの概念は、宇宙のすべてが本質的な一つの実在であり、宇宙のあらゆる側面、様相は一つの実在の究極的な現れであると説く。ダスグプタとモハンタによると、非二元論は、ウパニシャッドの時代から、ヴェーダと仏教の両方のインドのさまざまな思想の中で発展した。インド思想における非二元論の最古の痕跡は、初期仏教よりも前に遡るチャンドガ・ウパニシャッドに見られると言える。先部派仏教もまた、チャンドギャ・ウパニシャッドの教えの影響を受け、アートマン・ブラフマンに関連した形而上学の一部を拒絶した可能性がある。

アドヴァイタは、アドヴァイタ・ ヴェーダーンタ、Vishtadvaita Vedanta (Vaishnavism)、Sudhadvaita Vedanta (Vaishnavism)、非二元の シヴァイズム および シャクティイズムなどのヒンドゥー教のさまざまな学派において、微妙に異なるニュアンスをともなって現れる。アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタでは、アドヴァイタとはあらゆる実在はブラフマンと一体である、つまりはアートマン(魂、自己)とブラフマン(究極の不変の実在)は一体であると説く。
いくつかのヒンドゥー教の伝統のアドヴァイタの考えは、二元論やドヴァイタを擁護する流派とは対照的で、例えばマドヴァチャリヤは、経験された現実と神は二つ​​(二元的)で別個のものであると述べた。

ヴェーダーンタ
ヴェーダーンタのいくつかの学派では、非二元論の形式を教えている。最もよく知られているのはアドヴァイタ ヴェーダーンタであるが、他の非二元論のヴェーダーンタ派も重要な影響力を持ち、ヴィシュタードヴァイタ ヴェーダーンタやシュッダドヴァイタ などもあり、これらは両方とも bhedabheda (不一不異説)である。

アドヴァイタ ヴェーダーンタ
白鳥はアドヴァイタの重要な象徴。
アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元性は、ブラフマンとアートマンの同一性である。 アドヴァイタは、インドの文化と宗教の幅広い流れとなり、カシミール シヴァ派のようなその後の伝統に影響を与えた。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの現存する最古の写本は、伝承によると、ゴヴィンダ バガヴァットパーダの師であり、アディ シャンカラの祖父と見なされてきたガウウィボリ ウアパーダ (西暦 6 世紀) によるものである。 アドヴァイタ は、アジ・シャンカラ (788-820 CE) の アドヴァイタ ヴェーダーンタの伝統から最もよく知られている。彼は、単一の統一された永遠の真実であるブラフマンは、純粋な存在、意識、愛・至福 (Sat-cit-ananda) であると述べている。

ムルティによれば、アドヴァイタとはブラフマンと自己意識(識者)に違いがないいという知識である。ヴェーダーンタのゴールは、「真に実在する」ものを知り、それと一体になることである。アドヴァイタ ヴェーダーンタによると、ブラフマンは究極の実在である。アドヴァイタ哲学によると、宇宙は単にブラフマンから生ずるのではなく、ブラフマンそのものである。ブラフマンは、宇宙に存在するすべてのものの多様性の背後にある単一の拘束力のある統一体である。ブラフマンは、すべての変化の原因でもある 。ブラフマンは「全世界で実現される創造的原理」である 。

アドヴァイタ の非二元論は、個人の「実在としての自己」、「本質」、およびヒンドゥー教の概念で魂を意味するサンスクリット語のアートマンの上になりたっている。アートマンは第一原理であり、 現象との同一化を超えた個人の真の自己であり、個人の本質である。アートマンは普遍的な原理であり、永遠の未分化な自ら輝く一つの意識であると、ヒンドゥー教のアドヴァイタ ヴェーダーンタ派は主張する。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの哲学では、アートマンは自己存在的な意識であり、無限で非二元的であり、ブラフマンと同じであると考えている。アドヴァイタ派は、ブラフマンと完全に同一である各生命体の中に「魂、自己」があると主張している 。このアイデンティティは、その姿や形に関係なく、すべての生き物につながっていて、存在する一つの魂があるとする。その形や形に関係なく、区別はなく、優れたものも劣ったものも別の献身者の魂(アートマン)も別の神の魂(ブラフマン)もない。一つのものはすべての存在を統合し、すべての存在の中に神性があり、すべての存在は単一の実在であると、アドヴァイタ ヴェダンティンは述べている。アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元論の概念は、各魂は無限のブラフマンと異なるものではないと主張している。

(ここからは必要と思われる個所のみ翻訳します)

仏教との類似点と相違点

学者たちは、共通の用語と方法論、およびいくつかの共通の教義を考えると、アドヴァイタ ヴェーダーンタは大乗仏教の影響を受けたと述べている。 Eliot Deutsch と Rohit Dalvi は次のように述べている。

いずれにしても、大乗仏教とヴェーダーンタの間には密接な関係があり、後者は前者の特定の教義ではないにしても、弁証法的技法の一部を借用している。

アドヴァイタ ヴェーダーンタは仏教哲学に関連しており、二つの真理の教義や意識のみが存在するという教義 (vijñapti-mātra) などの考えを支持している。アドヴァイタの哲学者ガウダパーダが仏教の思想に影響を受けた可能性はある。シャンカラはガウダパーダの考えをウパニシャッドのテキストと調和させ、正統なヒンドゥー教の非常に影響力のある学派を発展させた。

仏教用語 vijñapti-mātra(唯識) は、citta-mātra (知)という用語と同じ意味で使用されることがよくあるが、それらは異なる意味を持っている。両方の用語の標準的な翻訳は、「意識のみ」または「心のみ」である。 アドヴァイタ ヴェーダーンタは学者によって「理想主義の一元論」と呼ばれてきたが、このラベルに同意しない人もいる。中観派とアドヴァイタ ヴェーダーンタの両方に見られるもう一つの概念は、ガウダパーダがナーガルジュナの哲学から採用した Ajativada ("ajāta"不生)である。ガウダパーダは二つの教義をMandukayaウパニシャッドに組み込み、それはシャンカラによってさらに発展した。

マイケル・コマンズは、仏教の思想とガウダパーダの思想との間には根本的な違いがあると述べていている。仏教には「あらゆるものには自性がなく、あるゆるものはその本質において空である」という縁起の教義を哲学的根拠としているのに対して、ガウダパーダにはそれが全くない。ガウダパーダのアジャティヴァーダ(不生論)は、本質的な性質(自性)を持つ「生まれていない(aja)実在(sat)が存在する」という不変の非二元的現実に適用された推論の結果であり、これは「永遠、恐れ知らず、衰えることのない自己」であり、朽ちることのない自己(アートマン) とブラフマンである。このように、ガウダパダはナガルジュナのような仏教学者とは異なり、その前提を受け入れ、ウパニシャッドの基本的な教えに頼っているとComansは言う。とりわけ、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ派は、「アートマンは自明の真実として存在する」という前提を持ち、その概念を非二元論の理論で使用している。対照的に、仏教は、「アートマンは存在しないのは自明である」という前提を保持している。

マハデヴァンは、初期仏教がウパニシャッドの用語を採用し、その教義を仏教の目標に適合させたように、ガウダパーダが仏教の用語を採用し、その教義をヴェーダンタの目標に適合させたことを示唆している。どちらも、既存の概念とアイデアを使用して新しい意味を伝えた。ダスグプタとモハンタは、仏教とシャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタは対立するシステムではなく、「ウパニシャッド時代からサンカラ時代までの同じ非二元的形而上学の発展の異なる段階」であると述べている。

ラマナ・マハルシ(リンク省略)

ラマナ・マハルシ (1879年12月30日-1950年4月14 日) は、現代の傑出したインドの指導者の 1 人として広く認められている。 ラマナの教えはしばしばアドヴァイタ ヴェーダーンタと解釈されるが、ラマナ・マハルシは「いかなる公認の権威からもディクシャ (イニシエーション) を受け取った」ことはない。 ラマナ自身は、彼の洞察をアドヴァイタとは呼ばなかった。

ネオ・アドヴァイタ(リンク省略)

ネオ・アドヴァイタは、アドヴァイタヴェーダーンタの現代的西洋的解釈、特にラマナマハルシの教えに基づいた新宗教運動。Arthur Versluis によると、ネオアドヴァイタ は、彼が即席主義と呼んでいる大きな宗教的潮流の一部である 。特定の宗教的伝統の中での準備的な実践なしで、即時のスピリツアルの成就を主張する。ネオ・アドヴァイタは、この即時性と準備の実践の欠如によって批判されている。著名なネオ・アドヴァイタの教師はHWL・プーンジャジ(パパジ)と彼の生徒のガンガジ、アンドリュー・コーエン、およびエックハルト・トール。

仏教

非二元すなわち「二つではない」(advaya 不二)に対応する仏教の見解にはさまざまなものがある。仏陀は、最も初期の仏教の経典ではアドバヤ(advaya 不二)という用語を使用していないが、維摩経のような大乗経典のいくつかには出てくる。仏陀はウパニシャッド思想で一般的に教えられている精神的統合状態のサマーディと瞑想的没我の状態のディヤーナを説いたが、ウパニシャッドの形而上学的な教義、特にヒンドゥー教の非二元と関連する様な教義、たとえば、「この宇宙が自己である」「すべては一つのものである」ということを拒絶した。このため、非二元論に対する仏教の見方は、理想主義的な一元論に向かう傾向があるヒンドゥー教の概念とは特に異なる。

インドにおいて
カメシュワル・ナス・ミシュラによれば、インドのサンスクリット仏典におけるアドバヤ(advaya 不二)の意味の1つは、それが2つの反対の極(たとえば永遠主義と消滅主義など)の中道を指しているがゆえに、「2つではない」ということです。

(以下、仏教の中観派 唯識瑜伽行派の伝統、ゾクチェンなど、興味深い項目が続くのですが、専門用語が多くて手におえないためここで終わりとさせていただきます。中観派、唯識瑜伽行派については、今後のブログに書く予定です

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繰り返しになりますが、非二元とはアドヴァイタのことではなく、さまざまな宗教、哲学の伝統伝承の中にある「二つではないもの」という思想のことです。世界中に仏教やアドヴァイタを源流としない非二元の思想があります。

私がこれから書こうとしているのは、仏教の中にある非二元についてですが、それは非二元の教え全体から見れば、ほんのごく一部にすぎないということがわかると思います。

私は学者でも僧侶でもなく、仏教の専門家でもないので、それぞれの教えを深く解説することはできませんし、そういう趣旨のブログでもありません。あくまでも、その根底にある非二元的な部分にのみ焦点を当てていくことになります。

2021/08/14

非二元とは

仏教について書こうとして、仏教は釈迦から始まるので、まずは釈迦が出てくる以前のインドの状況について調べようと思いました。釈迦以前のインドの宗教はバラモン教がメインとなっていたようなので、図書館に行ってバラモン教の経典 世界の名著 1 バラモン教典/原始仏典 を借りてきて見たところ、その中に「不二一元論」という見出しがあり、シャンカラという人が書いた「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」」という注解書があった。

「不二一元論」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタのことであるということは知っていたが、はたしてそれが具体的には何なのかを知らなかった。アドヴァイタについては、セイラーボブの教えの根底にそれがある程度のことしか知らない。
調べてみると、シャンカラは8世紀のインドの哲学者で、アドヴァイタを大成させた人らしい。

そのシャンカラが書いたとされるのが「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」。仏教のことを書くより先に、まずアドヴァイタのことを書くべきだと思って書くことにしました。

「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」Wikipedia 不二一元論より)

「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」Wikipedia梵我一如より)

ちょっと乱暴な解釈をすると、ブラフマンというのはセイラーボブの言うアウエアネス(知性エネルギー)で、アートマンは自己(魂)。じゃあ、シャンカラの説くアドヴァイタやヴェーダの梵我一如がセイラーボブの説く非二元と同じなのか?

セイラーボブは、自らの教えの根底には、インドに古くから伝わるヒンズー教哲学のアドヴァイタ、チベット仏教の最高の教えであるゾクチェン、高度なキリスト教を基にしていると言っているが、伝統的なアドヴァイタのいかなる流派にも属していないと言っています。

セイラーボブは「アドヴァイタ」という言葉は使うが、「ブラフマン」「アートマン」「シャンカラ」という言葉を使ったのを聞いたことはありません。

私は今まで、非二元、アドヴァイタという言葉の定義をはっきりとブログに書いてこなかったので、ブログを再開するにあたり、一度そのへんをはっきりとさせようと思いました。

Wikipediaで「非二元」と検索しても出てこない。「アドヴァイタ」と検索すると、Wikipedia 不二一元論 が出てくる。ということは、アドヴァイタ=不二一元論ということはできるが、非二元=アドヴァイタではない。

Wikipediaで「非二元」と検索しても出てこず、代わりに「一元論」が出てくる。それによると、「一元論(いちげんろん、英: monism、仏: monisme、独: Monismus)とは一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語である。

これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。」となっている。

非二元論=一元論と言うことはできる(そうではないと言う人もいる)。非二元論(一元論)はアドヴァイタのことのみを指すのではなく、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、古代ギリシャなどにも同じ考え方があるという。

要するに、アドヴァイタは非二元の教えであるということはできるが、非二元とはアドヴァイタだけを指すものではなく、様々な宗教や哲学の根底にある教え、もしくは哲学であるということ。非二元の教えは、様々な成り立ち、伝統があり、必ずしもアドヴァイタが源となっているわけではない。

ニサルガダッタ・マハラジは、伝統的なアドヴァイタの一つの流派のグルから教えを学んでいるが、その教えは必ずしもシャンカラの教えそのものではない。それは例えば日本で禅を学ぶ場合、その源流は釈迦にあるとしても、それが釈迦の教えそのものとは言えないのと同じ。アドヴァイタにもたくさんの流派がある。

そして、セイラーボブは、自分でも言うとおり、彼独自の非二元の教えであり、アドヴァイタそのものの教えではない。そのため、ブラフマンは知性エネルギー(アウエアネス)と同じものだと軽々には言えない。

もしブラフマンが知性エネルギー(アウエアネス)と同じものだと言うのなら、その両方の教えに精通していなくてはいけない。アドヴァイタとは何なのかをもっと調べないといけない。


非二元論、アドヴァイタとは何かを確認する意味で以下を読んでみてください。
私の場合、その定義づけがあいまいで、はっきりと認識してこなかった気がします。

一元論Wikipedia(非二元論のこと)

不二一元論Wikipedia(アドヴァイタのこと)

シャンカラ

梵我一如

2021/08/07

セイラーボブの言葉(facebookより)

 Sailor Bob - Nonduality Melbourne(7月17日より)

Here are some sentences copied from a couple of Kat's earlier transcriptions where Bob organically uses the word ‘realize’. I trust this will be refreshing reminder!
カットが以前書き留めたボブの言葉の中から、彼が有機的に「理解する」という言葉を使っているものを紹介します。これがあなたに新鮮な気づきを与えてくれると信じています!
Bob: I came to realize I was being lived. I came to realize that my seeming journey was how it all panned out. The realization was that there is no centre, if I am that space-like awareness. I realized that there is no ‘me’, there is nothing there at all. I realized that everything I had believed in, I was not, and everything just dropped away.
ボブ:私は自分が生かされていることを理解しました。私のうわべ上の旅が、どうのように展開しているのかを理解しました。その理解とは、もし私があの空間のような意識であるなら、そこには中心がないということでした。「私」はおらず、そこには何もないということを理解しました。私がそれまで信じていたものすべてが私ではないと理解し、すべては落ちていきました。
Realize there is only now! You can realize just how much takes place without the use of the mind. Realize that the functioning is happening effortlessly, without any ‘me’ involved. Realize that before anything can be wrong, there has to be thought.
今この瞬間があるだけだということを理解しなさい! どれほど多くのことがマインドを使わずに起こっているかを理解することができるでしょう。どんな「私」の関与もなしで、機能は自然に起こっているということを理解してください。何かが悪くなる前には必ず思考があるということを理解してください。
There is no relationship between apparent seeking and realization of liberation. In the dawning of that, you realize that any direction you go in will always be in the mind. What ‘way out’ of the mind is there? Full Stop! Realize that all that is happening is conceptualization.
うわべ上の探究と解放の実現には何の関係もありません。それが明らかになると、どの方向へ行ってもマインドの中なのだということを、あなたは理解するでしょう。マインドの中にどんな「出口」があるでしょうか? フルストップ(全停止)! 起こっていることのすべては概念化だということを理解してください。

Realize that there is no personal doer of it. Realize there is no one to do it, and nothing to do, and it will settle down of its own accord. Realize that which is ceaselessly and spontaneously arising, prior to any thought. You are beyond the mind. Realize that. You must realize that you have been lived.

それをやっている個人はいないということを理解してください。それをやる人は誰もおらず、なすべきこともなく、自然に落ち着くのだということを理解してください。それは、どんな思考よりも前に絶え間なく自然に起こっているということを理解してください。あなたはマインドを超えています。それを理解してください。あなたは生かされてきたということを理解しなくてはいけません。
You may not realize that even when the thoughts are going on the silence is still there. You have realized that you don't have to get to the silence. There is more silence in this room than there is sound.
You realize there is not a thing you can say about it. But you can’t deny the fact that it still is as it is. Realize you can’t negate your being, you can’t say, ‘I am not’. Realize that prior to the mind there is always that pure intelligence or knowingness. Just come back to the sense of presence that you are, and realize that that is birth-less, deathless, timeless, spaceless, bodiless and mindless.

思考が続いている時でさえ、そこには静寂があるということを、あなたは気づかないかもしれません。あなたは、静寂を手に入れる必要はないということを理解しました。この部屋の中には、音よりも多くの静寂があります。 そのことについては何も言えないということをあなたは理解しました。あなたは、それがありのままの事実だということを否定することはできません。あなたは自らの存在を否定すること、「私はいない」ということはできないということを理解してください。 マインドよりも以前に純粋な知性、すなわち、知る働きがあるということを理解してください。 自身が存在しているという感覚に戻り、それは生まれることも死ぬこともなく、時間もない、空間でも体でもマインドでもないということ理解してください。
We are not realizing that we were whole from the start, that we never have been separate. When you realize that you never find an answer to it in the mind, what happens? But realize that thought has come up spontaneously, effortlessly and intuitively on that what you are.

私たちは、自分が最初から完全だったこと、決して分離していなかったことを理解していません。マインドの中には答えを見つけられないと理解すると、何が起きるでしょうか? それでも、思考は自然に努力なく、直観的にあなたというものに起こってきます。
You realize also that you can’t cut space; you can’t grasp space; you can’t stir it up; you can’t do anything with it. The same applies to this awareness. See that and realize that you are the emptiness itself, the no-thing-ness.

空間を切ることも、掴むこともかき回すこともできない、空間をどうすることもできないと理解するでしょう。アウエアネス(意識)についても同じことが言えます。そのことを調べ、あなたは空(くう)そのもの、物ではないものであるという理解してください。
But realize that you were seeing before the thought ‘I see’ came up. Look again without labelling and realize that you are seeing as well as hearing at the same time. Realize that, before words and images came up, there was a registering of things. They are only being translated into words and images.

「私は見る」という思考がやってくる前に、もうすでに見ていたということを理解してください。ラベルを貼ることなく、もう一度見て、見ていると同時に聞いているということを理解してください。言葉やイメージがやってくる前に物事は現れています。それが、言葉やイメージに変換されているにすぎません。
Don’t you realize that there is never a time when it is not there?
Realize that there is not a past unless you think about it. And what future is there unless you think about it? From that, you see that mind itself is time.

そうでない時などなかったということが理解できませんか? あなたがそのことについて考えさえしなければ、過去などないということを理解してください。もしあなたがそのことについて考えなかったら、どんな未来があるというのですか? このことから、マインドそのものが時間であるとわかるはずです。
When the mind realizes that it has no power of itself, just like the piece of iron in the fire, then it aligns itself with that intelligence.

火の中のひとかたまりの鉄と同じように、マインド自体にはパワーがないと理解すると、マインドはあの知性と連携し始めます。

Realizing that that intelligence is functioning, that's the ‘razor's edge’. All you need is to recognize that it is already so.

あの知性が機能しているということを理解すること、それが「カミソリの刃」なのです。あなたは、もうすでにそれなのだということを理解しさえすればよいだけです。


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セイラーボブは7月21日に93歳になり、1日にレストランで大勢の人と一緒に誕生パーティをしたようです。この動画の最後に誕生パーティの様子があります。動画で見る限りは元気なようですが、誰一人マスクをしていません。メルボルンでは5日からまたロックダウンが行われています。

このブログは、週一回、毎週土曜日に更新していきます。