2019/09/28

私と呼んでいるもの


This Thing Called I

あると信じている自己の中心が問題の原因です。
それを見て調べてください。
あると信じている自己の中心はフィクションです。
そこには実体のあるものや独立した性質も持つ存在はいません。

信念のエネルギーがそこに流れ込み、見た目の上ではそれを実体のある確かなものにしていて、とてもリアルな存在に見えます。
そこに、概念、イメージ、感覚、恐れ、怒り、自己憐憫、憤慨、すべてのものが現れます。

その信念のせいで、物事をその概念上の基準点に関連付け、それを信じるようになります。
それがすべての問題の原因となります。
表面上の基準点に関連付けるためです。

それを、しっかりと調べる必要があります。
この「私」というもの、メンタルイメージ、概念、気持ち、思い描いているものを調べる必要があります。

調べてみると、そのメンタルイメージ、思考は見ることも聞くことも気づいていることもできないと理解するでしょう。
信念のエネルギーが見た目の力を与えているにすぎません。
それが見た目の上での生命のパターンを確かなものに見せていますが、何も力は持っていません。それはフィクションです。

それが、見た目の上での束縛を生み出しています。その束縛はフィクションによるものです。
その束縛から自由になるためには、それを調べて、はっきりと見ることです。

何度も何度も見ることです。
すべての方向、ポイントをみて、そこに何か実体のあるものがあるかどうか調べてみてください。

そして、何も見つからないなら、確信が湧いてくるのではありませんか?

我はそれなり。
私はいつも昔もそれだった。

もう間違った信念を受け入れることも信じることもできないのではありませんか?

それは基本的には・・・。
さあ、あなたの番です。
質問や疑問、何でも結構です。

2019/09/21

すべては物として現れています。


All Appearance is Things.

人々は、空(くう) (nothing)と聞くと、真空、空虚、何もないものと考えますが、nothing を、no と thingに分けてみてください。

すべての顕現は物(thing)として現れています。
でも、物自体には実体や独立した性質はありません。
それは物ではないもの(no thing)です。
no thing、何も起こっていないのです。

一つの本質が振動して、見た目の上ではパターンとなって現れています。
鏡の例えを使いましょう。
鏡の中にはすべての物が映っています。

鏡のところまで行って、映っているものを掴むことができますか?
映っているものが無いということはできません。
でも、そこへ行って掴もうとしても、それがそこにあるということもできません。

そこにあるように見えるのですが、映っているものに実体や独立した性質があるわけではなく、あなたは鏡を掴むだけです。
あなたは、鏡を見たことがありますか?

鏡そのものを?

そうです。

鏡は見逃しているかもしれません。

ええ、でも鏡を見ることはできますか?
鏡の中にあるのはすべて反射して映っているものです。
あなたが今まで見た鏡はすべて、反射が映っていました。

でもあなたは、鏡を調べて、表面に移った反射と鏡は一体のものであると知っています。
鏡そのものは見えなくても、それが鏡だということを知っています。
反射している表面や一部を分割することはできませんが、それは鏡であると知りました。
表面には反射が映っているため、鏡そのものを見ることはできませんが、それは鏡であると知りました。
あなたは真実を見破りました。

あなたは、自身がその本質だと知りました。
自身は純粋なアウエアネス以外のものではないと知りました。
そこにあるのはたった一つの本質があるだけです。それがトムとなって現れています。
それがすべてとなって現れて消えています。

ピーター:鏡の中の例えは、空間のようなアウエアネスを連想させます。
鏡を見た時、そこには反射が映っていて鏡は見えません。
でもいいですか。私たちが物を見る時、それはシーン(景色)であって、空間を見ることはなく、現われたものだけを見ています。それと同じです。それだけです。

2019/09/14

ラベルをはがして見てください。

ちょっと考えてみてください。
今あなたは、パソコンか何らかの端末を使って私のブログを読んでみえると思います。
でも今、例えば、生まれて初めてそのパソコンか端末を見ると仮定して、それを見てください。

あなたは、パソコンや端末が何であるかを知りません。
するとそれは一体何ですか?

同じように、視界に入る物一つ一つを、生まれて初めて見るように見てください。
そこには、生まれてからこれまでに学んで貼り付けてきたラベルが張り付いています。
蛍光灯、机、椅子。そうしたラベルを剥がして見てください。

するとそれは一体何ですか?
もし、自分がこれまで学習して貼り付けてきたラベルを剥がして見たら、それは一体何ですか?

そうやって、一つ一つラベルを剥がして見てください。
すると、そこに広がる世界は何ですか?

人に対して貼り付けているラベルも剥がして見てください。
父、母、恋人、親友、子供、上司。

景色に貼りつけているラベルも剥がして見てみてください。道路、山、川、大地。
すると、それは何ですか?

そして最後に「私」というラベルを剥がして見てみてください。
するとそこには何がありますか?

私たちが見ている世界はすべて概念です。
もしその概念のラベルをすべて剥がしたら、そこには何がありますか?

確かにそこには何かがあります。
でも、概念のラベルがなかったら、そこには混沌とした世界が広がっているだけです。

もし、あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、それは物としての区別のない一つのものです。

「私」というラベルは、あなたが後天的に貼り付けたラベルにすぎず、「私」はいません。
あなたが概念のラベルを貼り付けなかったら、そこに広がっているのは、たった一つのものです。

ヴィクトリアマーケット・メルボルン

2019/09/12

本当のあなたでいてください。


Be What You are.

なぜあなたは自分ではないもののふりをして、本当の自分でいることを拒むのですか?

すべての人がこの人間の形をしたものでいようとします。それがこのショーを仕切っています。そのため、疑うこともなく、それを信じて、そのふりをしています。

でも、実際のあなたは、物ではありません。
でも、すべての人が物ではないものを受け入れません。
物ではないものの概念や考えを理解しません。
物ではないものは、真空でも空虚でもありません。

生命の本質が機能してパターンとなり、あらゆるものとなって現れています。
誰も、物ではないものであることを望みません。

人々は、物ではないものは真空、空虚、空(から)だという考えを抱いています。
そのため人々は、この想像上の存在に留まることを望み、その存在にはこのショーを仕切る力があると考えています。

人々はマスク、ペルソナをつけています。

2019/09/06

セイラーボブの教えを理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。

セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。まわりの状況や物事に対する理解の仕方が変わるだけです。

セイラーボブの教え(非二元)を理解しても、まわりの状況が変わるわけではありません。物事がすべてうまくいく、お金が自然に入ってくる、病気治る、人間関係で煩わされなくなる、というようなことは起きません。

覚醒が起きたり、覚醒体験や至福体験が起きたりするわけでもありません。何か特別なことが起きるということはありません。至福に包まれて毎日幸せに暮らせるというようなこともありません。

体が消える体験をしたり、時間や距離の感覚が無くなる体験をするわけではありません。意識のシフトが起こって、自分がいないという世界を体験するということもありません。

煩わしい事は以前と同じように起こってきます。うまくいかない事も起こってきます。お金に困ることもあります。病に倒れることもあります。人間関係で嫌なことも起こってきます。困難は以前と同じように起こってきます。

何が変わるかというと、問題や困難が起こっても、それに巻き込まれることなく、対処するだけです。お金に困っても、それを深刻にとらえることなく、解決法を探すことに力を注ぐだけです。病気になったとしても、それは自然に起こってくるものであり、治療するだけだと理解するでしょう。

嫌な人がやってきても、そういう人もいるのだ、それが生きていくことなのだと理解して、避けるか受け入れるかするでしょう。
そうした問題や困難を深刻にとらえて巻き込まれることがなくなります。
なぜなら、すべての問題や困難はマインドの産物であると理解するからです。
そこに問題や困難に煩わされる人はいないと理解するからです。

死も避けられません。でも、自分はマインドでも体でもない、生まれることも死ぬこともない存在であると理解したなら、死に対する理解が生まれます。
死が怖くなくなるとまでは言いません。誰だって死にたくはないし、マインドや体の死だって嫌です。
でも、死に対する理解を持っていれば、死はまったく別のものとなります。

非二元を理解しても、周りの状況が変わるわけではありません。唯一変わるのは、物事に対する理解だけです。そしてその理解こそが、心理的な解放をもたらすものです。
私は実在ではないという理解こそがあなたに解放をもたらすものです。

あなたが解放されても、状況は何も変わりません。金持ちになるわけでも、至福につつまれるわけでもありません。以前と同じように、木を伐り、薪を割り、同じ生活が続いていきます。

メルボルン 植物園

2019/09/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。ブログを楽しく読ませていただいております
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送ってみます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

それについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 


もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 


2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか? そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

以上、よろしくお願いいたします。

波平


波平さん、おたよりありがとうございます。

私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。

セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。

書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。

表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。

最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。

私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。

質問に具体的に答えていきます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? 

そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。れまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。

そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。

れについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?

私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。

信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 

れが、私を含めて多くの人がはまる罠だと思います。セイラーボブの教えを理解しても、何も変わらないし、何かが起きるわけではありません。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。

もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 

本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。

私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。

理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。

「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。

私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?

人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。

いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。

理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。

2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。

どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。

「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか?

そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。

そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。

同じつもりで書いています。

もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。

でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。

私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。

理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。

マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。

理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。

私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。

言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。

セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。

そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。

波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。

「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。