2025/03/28

そこに到達するためには、どれほど激しい努力が必要ですか?

ボブ: それは目覚めている状態、あるいは意識のことです。フルストップ!  それに何を付け加えることができますか?  そこから何を引き出すことができますか?  そこに到達するためには、どれほど激しい努力が必要ですか?

質問者: 何も。激しい努力は何も。

ボブ: そこに到達するには、何を失う必要がありますか?

質問者: 私のアイデンティティです。

ボブ: いつあなたのアイデンティティがそこに現れたのですか?

質問者: それは… 一度も。

ボブ: 今そのことについて考えたにすぎません。何も失うものはないのです。

質問者: ええ。

2025/03/25

すべてはそこにあります

ボブ: 円があり、その中に中心があります。中心が基準点だとすると、中心の小さな点から測られるものはすべてそこから測ることができます。しかし、点が拡大して円全体になったらどうなるでしょうか? どこから測るのでしょうか?  すべてはそこにあります。そうではありませんか?  そこに時間はなく、すべてはそこにあります。

質問者: つまり、すべてがそれです。だから「2000年前はまさに今ここにある」と言うのですね。

ボブ: そうです。                               

2025/03/21

今、あなたは目が覚めていますか?

ボブ:今、あなたは目が覚めていますか? 

質問者:ええ。

ボブ:「目が覚めています」

質問者:目が覚めています。

ボブ:その目覚めた状態になるために、何かをする必要がありますか? それを探す必要がありますか? 眠っていないと気付くだけです。 あなたは今、確かに眠っていません。 眠っていないのであれば、目覚めているに違いありません。言い換えると、「目覚めている」とは何ですか? 「目覚めている(awake)」とは、アウエアネス(意識)のことですよね?

質問者:ええ。

2025/03/18

思考や概念のかたまりです!

質問者: あなたのメッセージは衝撃的です。

ボブ: それはマインドのためのものですが、マインドとは結局何なのでしょうか?

質問者: あの「私は在る」がそこに現れているだけです。

ボブ: それは思考や概念のかたまりです!  ええ。そして私たちはそれを概念で理解しようとしますが、できません。失敗します。ニサルガルダッタが言ったのは、「概念で理解しようとしても失敗する」ということです。「概念で理解することは決してできないので、必ず失敗する」と言っています。

質問者: ええ。しかし、それはまさに今ここにあり、それほど複雑ではありません。

ボブ: ええ。複雑でもなく、問題もありません。

2025/03/17

備忘録

Awareness Explorers Episode 182: Kat Adamson, Guest Explorer - VIDEO VERSION

最近カットは、とあるサイトのインタビューを受けたそうです。そこでボブの旅の軌跡や教えを語っています。このサイトのことはよく知りませんが、有名な非二元の教師も何人か出ています。一応備忘録として残しておきます。

2025/03/14

それは私たちがどこからそれを見ているかという基準点によって決まります

それは私たちには理解できないことです。2000年前や1000年前が理解できないのと同じです。

しかし、朝生まれ、飛び回り、夜には死ぬ小さなブヨにとってはどうでしょうか。
彼らには80年、90年は理解できないでしょう。つまり、それは私たちがどこからそれを見ているかという基準点によって決まります。

10億光年離れた先に基準点がないとしたら、それはただ存在するだけです。そうではありませんか? そこに含まれていたものすべては、今も常にそこにあります。
                                    セイラーボブ

2025/03/12

「私」は大いなる錯覚

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その93」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

2025/03/11

「仏教は、いかにして多様化したか」佐々木閑 著

世界史のリテラシー 仏教は、いかにして多様化したか: 部派仏教の成立 (教養・文化シリーズ)

ギルバートから、仏教の中に非二元があると教えてもらってから、仏教の本をあれこれと読んで学びました。確かにそこには非二元がありましたが、今一つ鮮明ではありませんでした。学んでいく途中で思ったのは、仏教の根本的な教えは諸行無常・諸法無我なのに、諸法無我、つまり、「私」は実在しないということをはっきりと全面に押し出して説く人が、どうして日本の仏教界にはいないのだろうということでした。

そして佐々木閑先生のYouTubeに出会い、やっと仏教の中にある非二元を鮮明に説いている人を見つけたと思いました。私のブログの中の、禅・Buddhism仏教その他の中にある佐々木先生のYouTubeを見ていただければ、仏教がいかに非二元の教えかということがわかると思います。

でも、佐々木先生以外の日本の仏教界の方で、「私」は実在しないということを前面に押し出して説いてみえる方を知りません。私の抱く仏教のイメージは、葬儀や法事を執り行う僧、よくわからない経典、禅宗の座禅、密教などの修行といったイメージで、非二元的なイメージは浮かんできません。まれには世親や唯識について説いてみえる方もみえるのですが、学問的であり、広く一般の人に説いているというわけではありません。

この本を読んで、その理由がおぼろげながらわかった気がしました。この本は、インドで仏教がどのようにして起こったのか、釈迦の死後教えがどのように広まっていったのかが詳しく書かかれています。釈迦の死後、教えの解釈の違いから、仏教徒は二十あまりの諸派にわかれ、やがてそれが大乗仏教に発展。このあたりまでの話は佐々木先生がYouTubeで詳しく語ってみえるところです。

ただ、その大乗仏教がどのようにして日本にもたらされたのか、そしてどのように日本で発展していったのかはYouTubeでは今のところ詳しくは語ってみえません。それが、この本には詳しく書いてあります。

日本に仏教が正式に伝来したのは聖徳太子の時代で、最初は天台宗(密教)をベースにしたものがもたらされたそうです。その頃の仏教は、あくまでも国を統治するための道具、道徳規範の道具としての宗教でした。一般の人たちが広く信仰して、自分も仏陀になれるという大乗仏教の教えが一般大衆に広まったのは、ずっと後の鎌倉時代に入ってからだそうです。

ここからは佐々木先生がおっしゃっているわけではなく私の想像ですが、一般大衆にわかってもらうためには、「私」は実在しないなんてことは説かない。悪行を積めば地獄、善行を積めば極楽に行けると説いた方が国を治めやすい。般若心経には諸法無我がちゃんと説かれているものの、人々はただそれを唱えるだけでよいと習うだけで、「私」は実在ではないなんてわけのわからないことは教えない。

江戸時代になると、盤珪が不生禅を説くのですが、その不生禅ですら、誰もが生まれながらに仏心を持っている、というところまでで、「私」は実在しないなどとは説きません。ところが、原始仏教から大乗仏教まで、どこを学んでも仏教の根本教説は諸法無我であり、「私」はどこにも実在しないと説いています。

その盤珪ですら、鈴木大拙が掘り起こさなければ、ずっとそれまで埋もれたままでした。そして今現在の日本の仏教では、盤珪の教えはまた廃れているように見えます。そうした歴史的背景が今日まで続いていて、それが今日の仏教のイメージとして定着しているのではないでしょうか。もし僧侶が、諸法無我、この世のどこにも永遠不変の「私」など存在しない、なんて説けば、それじゃ誰のための戒名や法事なんだ、なんてことになって、誰もお布施を払わないかもしれない。ちなみに、日本以外の国の仏教では戒名なんてものは無くて、葬式の際にお寺に高額のお布施をすることもないそうです。日本の現在の仏教は、釈迦が教えた当時の仏教(律を守る仏教)ではなく、日本独自の発展を遂げたものだそうです。

般若心経はありがたいお経なので、意味はとにかく、とりあえずお経として唱えれば功徳があります、という程度にしておいた方が都合がいいのではないでしょうか。仏教の中に非二元があるという話は、むしろ欧米の非二元論者たちが言っていることであり、日本ではそれほど言われていない気がします。

私は、日本でどのように仏教が伝播・発展していったのかを知りたくて、こういう本を探していたのですが、なかなかそういう本に出会いませんでした。今回この本を読んで、そのあたりのことがよくわかってよかったです。また、華厳思想、法華経、阿弥陀信仰など、どうしてそうした信仰が起こったのかはよく理解していませんでしたが、そのあたりも詳しく書かれています。

ただ、この本で仏教に中にある非二元を学ぼうと思っても、そのあたりのことは詳しく書かれていません。諸行無常・諸法無我が仏教の根本的な教えであり、常住普遍の実体のある「私」はどこにもないということは、本の中に数行あるだけです。そのあたりのことは、佐々木先生のYouTubeの方が参考になると思います。

2025/03/10

Few more tributes to the memorial of Sailor Bob

いろんな人からセイラーボブへの追悼メッセージが寄せられています。
いろんな人にたくさんのものを残していったんですね。
本当にありがとう。

セイラーボブは亡くなりましたが、ミーティングは続いています。最初に毎回違う人が少し話をして、その後みんなで話し合う形式になっています。
このことだけをみても、非二元の教えは覚醒した特別な人だけしか語れないものではないという証だと思います。大切なのはメッセージ。そして、そのメッセージをどう生きるかだと思います。

2025/03/07

非二元を理解すると何が起きるのか

非二元を理解すると何が起きるのか。
つまり、「私は実在しない」「万物は一つのもの」といったことを理解して起きる事は何か。
ひとつの効果としては、自分と他の人、あるいは世界が一つのものだということが理解できれば、人を思いやる気持ち、愛情が増すのではないかと思います。

これはルパート・スパイラも言っていることで、彼は「愛」という言葉で表現しています。
「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

内側に愛が増していくと、競争や妬み、嫉妬というものが消えていき、人を思いやることができるようになると思います。

逆に言うなら、非二元を自分では理解したと思っていても、人を妬んだり恨んだり憎んだりする気持ちが消えないうちは非二元を理解しているとは言えないのではないかと思います。逆に、そういった気持ちがあるかないかを、自分が非二元をしっかりと理解しているかどうかの指標にするといいと思います。

仏教で言うなら執着です。自分が金、地位、名誉などに執着してないかを基準とするといいと思います。いくら非二元を理屈として理解していたとしても、人に対する愛情がなく、妬みや嫉妬、怒りや恨みでいっぱいなら、非二元を生きているとは言えないし、ちゃんと理解しているとは言えないと思います。

セイラーボブ、カリヤニ、ピーターに会った時、何とも言えない暖かいもの、心地よさを感じたのは、彼らはしっかりと非二元を生きているからだと思います。
実際にその人が非二元を生きているかどうかは、会って会話してみないとわからない。

過去の嫌な思い出がたびたびやってきて苦しめるなら、まだまだです。人を妬んだり恨んだり憎んだりするならまだまだです。些細なことでイライラしたり動揺したりするならまだまだです。ひるがえって、私はどうかというと、まだまだです。

こんなことを言うと、セイラーボブに叱られます。「あなたがそのことを考えなかったら何が問題ですか?」「あなたはもともとそれです」と一喝されそうです。でも、少しずつ変わってきたなという感じはあります。

非二元の教えそのものはそんなに難しいことではないので、知的に理解することは難しいことではないと思います。でも、それが身に染みて、非二元を生きているかどうかは別の話だと思います。それほど私たちの条件付けは根深いように思いますが、みなさんはどうでしょうか。

2025/03/04

幼い子どもが推論し始めるとすぐに、それはやってきます

私たちが分離の感覚を身につけるとすぐ、つまり、幼い子どもが推論し始めるとすぐに、それはやってきます。

その推論する能力によって不安感と脆弱性が始まります。私たちはもはや、自分が完全でトータルであるとは感じません。自分は「分離した存在」であるという考えを抱きます。

「私」や「自分」に関連付けられないものを見ると、「それは私ではない、それは自分ではない」と言います。そうやって、私たちは分離した傷つきやすい存在だと感じるのです。
                                    セイラーボブ