2024/02/27

自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない

探求のどの段階においても、根本的な視点が見落とされている。それは、<意識>である<あなた>によって演じられている個人こそが、まさにずっと探し求めているものだということだ。探求者が何をしたところで、自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない。
                    ネイサン・ギル(すでに目覚めている

名古屋ゲートタワー 巡回警備ロボット

2024/02/23

すでにはっきりと目覚めている

生という劇は、<あなた>が指揮しながら<あなた>が見ている<あなた>とは別の創作物ではない。<あなた>──<意識>──は、この瞬間に劇として現れていて、すでにはっきりと目覚めている。だから目覚めることなどできない。<あなた>は<あなた>自身にはいつでも明白だ。隠されていることはない。
                        ネイサン・ギル(すでに目覚めている)

名古屋マリオット(大治町のつるし雛

2024/02/21

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その3」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

 

いきなり興味深い話から始まりました。
話が非二元そのもの。この先が楽しみです。
全部を転載するわけにはいかないので、今後はあまり転載しないようにするつもりです。
もしよかったらフォローしてみてください。

2024/02/20

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い」

佐々木閑先生のYouTubeチャンネルで新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その1」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その2」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
 

 ミリンダ王の問いについては、このブログでは中村元先生のYouTubeを掲載したことがあります「2021.10.30 初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」。そのYouTubeで見るかぎり、ミリンダ王の問いは非二元の教えの意味あいの強いものでした。

初期仏教には五蘊(ごうん)という基本概念があり、人間は五蘊という五種の要素(色・受・想・行・識)でできていて、そのどこにも個人としての「私」は存在しないというものです。

そのミリンダ王の問いを、佐々木先生がシリーズで解説してくださいます。どんな話になるのか楽しみです。すでに、その2ではその片鱗が語られています。もしよかったらフォローしてください。

2024/02/16

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

この本は今まで読んだ非二元の本の中でも、とりわけ素晴らしい内容でした。最初から最後まで、いわゆる「行為者の不在」について説かれています。私たちは、「私」という存在が実在であるという催眠にかかっていて、それが人生というものを生きているように思っているが、実際には「私」はおらず、起こっていることは単なる劇のようなものだと言うのです。

最初の29ページが書下ろしになっていて、残りのページはミーティングの参加者との対話となっています。最初の29ページにネイサンのメッセージが凝縮されていて、あとの対話がその補足説明のような体裁になっています。本全体を通して、「私」は催眠によるものであり、実在しないということだけを説いています。あれもこれも説明するのではなく、「私」は実在ではないということだけを説いて、これだけ的を得た非二元の本となっている点は素晴らしいと思います。内容もよくてわかりやすい。

ネイサンは探求の途中で、いわゆる一瞥体験、自分がいないという体験をしますが、すぐに「私」が戻って来て混乱します。やがて、自分の本質は意識であるという理解に至り、どんな出来事も必要ではないという思いにたどり着きます。

本の紹介のために抜粋させていただきます。

p11から
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいるような。
「自分がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が<意識>だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしょうとしている分離した個人という視点──つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事──それはまさにその「僕」の不在だったのだが──は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感──「僕」がいない状態で生じた至福の感覚──に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。
 翌朝、目を覚ました。まだあるかな? ある! そしてそれから何日かすると、解放感が少しずつ消えつつあることに気づいたが、数日たつとその感覚は再び完全に戻ってきた。その感覚が戻ってきては消え、それから「僕」がまた現れて自分の不在という状態にしがみつこうとしたりするのが何週間か続いたあと、僕はトニーのミーティングに行った。そこにいると、至福の感覚がまた溢れてくる感じがした。けれども数日後にはすっかり消え去って、そこでまた「僕」としての催眠状態が起こった。トニーには何も言わなかったし、しばらくはミーティングにも行かず、僕は困惑していた。
 それから、「私」の不在が何年も続いた経験についてある女性が書いた本を読んだ。その経験のしばらくあと、その女性は「先生たち」から、それは悟りだと言われたという。やがて彼女は病気になって亡くなったが、彼女の友人が本に寄せたあとがきを読むと、亡くなる前にその出来事が終わってしまい、「私」が戻ってきたせいで、彼女は混乱して苛立っていたということだった。
「私がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終わったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ──単なるひとつの思考だということ──を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。知だけが存在しているが「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。<意識>としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。
 もうひとつわかったのは、「私」を見抜くということは必ずしも突然の出来事として起こるとはかぎらず、生という劇の一部としてゆるやかに起こる場合もあるということだった。そうしたケースでは、溢れる至福という形ではなく、存在することの自然な気楽さが徐々にゆるやかにあきらかになる。
 混乱は消えた。自分の本質が<意識>だということを証明するためのどんな出来事も要らなくなり、「僕」が突然脱落する必要もなくなった。自分の人生も「スピリチュアル」な探求のすべても、<意識>の中の劇として生じているということは明白だった。そして、こうしたことすべてをめぐる混乱の意味、「霊性」や「悟り」が単純な明晰さとなぜ取り違えられてしまっているのかを理解した。自分の本質をそうやって認識することは、どんな出来事とも関係なかった。明晰さ──「私」や思考のストーリーの本質を見抜くこと──がなければ、どんな出来事もたちまち混乱のもとになってしまうこともわかった。
 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。
 この短いストーリーの締めくくりに。スピリチュアルな探求をしているあいだに僕は離婚し、結婚してまた離婚し、二人の娘が学校に通っていたころはほとんどひとり親だった。ケント州の小さな村に落ち着いて、健康状態は万全とはいえないが、最近まで地元で庭師として働いていた。いまは穏やかに簡素に暮らしている。

p29から
 ずっと探し続けていたものは、じつは探している主体そのものにほかならないということがわかった。究極の目標、究極の賞品は、じつはすでにあるものだったのだ。見つけるべきものも、見つける人も存在していない。気づきがあって、気づいている人はどこにもいない。はじめからずっと、<あなた>は<あなた>自身の壮大な冗談の標的だったのだ。どこを見てもどこを探してもそこにある壮大な現れ、単に<あなた>自身の劇か、もしくは存在しているという夢だ。何も存在していないし誰も存在していないが、気づきがあって、それによってすべてが現れている。この平凡は男性あるいは女性という現れもそのひとつだ。<あなた>は今、そしてこれまでもずっと、完全に目覚め、気づき、今を生きているが、<あなた>自身の壮大な劇の催眠にかかっているだけなのだ。
 ネイサンという登場人物は平凡な人生の中で、問題、試練、退屈と思えるものから逃れようとして悟りを求めた。平凡な人生は変わらず続いているが、今あるということから注意が逸れることはなくなった。非凡さの追求は終わった──生はただあるとおりにある。

質疑応答の中にも、引用したい箇所がたくさんあるのですが、引用するにはどれも長すぎます。これ以上引用すると、しかられてしまいそうです。素晴らしい内容なので、是非とも読んでください。

ネイサンは、この劇の全体に気づくと、生きることが気楽になると言っています。他の非二元の教師のように、「愛」や「至福」と言う言葉を使わずに「気楽になる」という表現がとてもしっくりきました。そしてそれは、たいていの人にとって、ゆっくりゆっくり起こることだと言います。もちろん、日常を生きていくために「私」という感覚はあるものの、「私」はいないと理解している状態だと言います。

非二元の教えを理解しても、悩みがたちどころに消えるということはありませんし、もう二度と問題が起こってこないということもありません。肉体がある以上、病気にかかることもあれば、日常生活での悩み事も相変わらず起こってきます。でも、非二元の教えを理解したなら、そうした問題にどっぷりと巻き込まれることはなくなり、「気楽になる」というのが適切な表現ではないかと思います。

ネイサン・ギルは衰弱性の病気にかかり、最後はみずから死を選んだそうです。まわりの人の話では、とても穏やかで静かな死だったそうです。思うに、それは非二元を生きたからこその穏やかな死ではなかったかと想像します。

タイトルの「すでに目覚めている」がネイサンの最も言いたいメッセージです。私たちはもともと目覚めています。なすべきことは何もありません。「私」という劇の催眠を見抜きさえすればいいだけです。それも「私」がすることではなく、起こってくることです。この本はすばらしい。ぜひ読んでください。

Amazonの著者紹介から
著者について
ネイサン・ギル Nathan Gill
1960年イングランド生まれ。建設、園芸に携わったあと、非二元についての
対話の集まりをロンドンおよびケントで展開し、
わかりやすく鋭いメッセージが人気を集める。2014年没。
他の著書に"Being : The Bottom Line"(2006年)がある。

古閑博丈さんのブログにネイサンの記事がいくつかあります(記事の末尾の「関連」からもいくつかのネイサン関連の記事にアクセスして読むことができます。

ネイサン・ギル関連YouTube(本人のチャンネルではないようです)

2024/02/13

気づきがあなたの自己です

経験に限らず、どこかの場所で起こることは何もありません。ものごとは気づきの中で起こりますが、その気づきがあなたの自己です。分離していない、あらゆるものの自己なんです。
         グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?)

1/31春日井市都市緑化植物園にて

2024/02/09

では、さとりとは何ですか?

気づきとしての自分の本質にはいちども分離が起こったことはないと揺るぎなく理解することです。悟っている、悟っていない、その違いが消えること、それが悟りなんです。
          グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?

紅梅(1/31 春日井市都市緑化植物園にて)

2024/02/06

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。

 ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
 ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia

本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。

p12
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。

以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。

p20
どのように気づきの視点に立つのか?
 まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。

そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。

今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。

私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。

そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。

グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。

そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。

これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。

p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?

(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。

この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。

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Amazonのサイトから
著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。


グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)

2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。