2020/05/23

U.G.クリシュナムルティの言葉

「悟りなどというものはありません。完全なる命が、一人ひとり、そしてあまねくすべてのものとして出現している。ただそれだけです」
(U.G. クリシュナムルティ)
“There is no such thing as enlightenment, only the perfection of life arising as each person and every thing.”
ーU.G. Krishnamurti

引用元はこちら

***

U.G.に起こった「爆発」「災難」とは一体どんなものだったのでしょうか。

セイラーボブや周りの人たちが、U.G.と同じような体験をしたと言うのを聞いたことはありません。また、彼らがこの「爆発」を話題にするのを聞いたこともありません。

U.G.の「爆発」は他の聖人たちが語る覚醒体験とは全く異なるように思えます。ただ、J.クリシュナムルティやラマナ・マハリシも U.G.と同じように背中の痛みを訴えていたと記憶しています。(本が今は手元にないので確認していませんが)

U.G.はエンライトメントは無いと言っています。エンライトメントは私たちの意識に刷り込まれた概念だと言うのです。私たちはエンライトメントがあると思い込んでいて、それが起こって欲しいと思って、様々なことをします。

その結果、マインドがその状態を創り出します。U.G.もそうでした。でもU.G.は自問しました。「どうしてそれがエンライトメントだとわかる?」と。

私がセイラーボブのミーティングで、どうしてエンライトメントがないのか聞いた時、ギルバートは言いました。「ヴィクトリアマーケットでエンライトメントが売っていたら、あなたはそれがエンライトメントだとわかるのか?」

私は、エンライトメントがあることを大前提として探求をしてきました。でもそんなものは無いと知った時、大きな解放が起きました。そして今も解放された状態にあって、それを知る前と今では比べものにならないほど気持ちが楽です。

U.G.は、エンライトメントなど無いと知り、実現する自己などいないと理解すると、ある人には「爆発」が起きると言っています。

でも、私には今のところ「爆発」は起こっていません。
私のマインドのクラッチは、U.G.のように外れてはおらず、時々悩み事を運んできます。私の気持が楽なのは、考え方、理解が変わったのであって、U.G.のように体の機能の仕方が変化したからではありません。

もちろんセイラーボブも彼の周りの人たちも、マインドのクラッチは外れてないと思います。彼らは普通の人と何も変わりません。

私はU.G.の本を読んで、ちょっとした衝撃を受けたのですが、セイラーボブから学んだことがぐらつくことはありませんでした。

U.G.が言うことは本当かもしれない。本当の意味での「エンライトメント」は、至福や永遠に続く恍惚感などではなく、体の機能的変化であり、それが仏陀やイエスに起こったことなのかもしれません。

でも私は、その「爆発」が自分に起こって欲しいとは思いません。それがどういう状態なのか知らないし、自分でそれを起こすことができないうえ、十億人に一人の割りでしか起きないというなら、どうすることもできません。

私のクラッチは繋がったままでかまいません。思考や感情に左右されながら、「そこに私はいない」という理解を持ち、泣き、笑い、安心して、また時にはイライラして、生きていきたい。

U.G.の真価は、「爆発」にあるのではなく、彼の言葉にあります。
エンライトメントなど無いと言い、インチキグルやイカサマ教師を叩きのめし、「神聖ビジネス」をこき下ろしています。

エンライトメントというありもしない概念を探して、どれほど多くの人が人生を浪費していることか。どれほど多くの人がカルトに巻き込まれ、神聖ビジネスの餌食になっていることか。

どれほど多くの人が丸善の精神世界コーナーでゴミあさりをして人生を浪費していることか。あ、これは私のことでした。

U.G.は自らを非二元という枠組みでは語っていませんが、U.G.の言っていることは非二元そのものです。だからこそギルバートもカリヤニも彼らのホームページで彼について触れているのだ思います。

このブログはあくまでセイラーボブのことを書いているブログですが、セイラーボブはちょっとお休みして、しばらくはU.G.の言葉を載せていきます。

2020/05/16

U.G.クリシュナムルティThinking Allowed w/ J. Mishlove


U. G. Krishnamurti: Complete Part 1 - Mystique of Enlightenment - Thinking Allowed w/ J. Mishlove

みなさんこんにちは。ジェフェリー・ミシュラブです。今日はエンライトメントという概念について調べてみたいと思います。
なぜ世界中の人たちは、ほとんどの宗教や文化的な伝統において、エンライトメントという概念を追い求めているのでしょうか?

エンライトメントとは何でしょうか? そんなものがあるのでしょうか? それを達成することが可能なのでしょうか?
今日は、世界を旅する旅人であり、「Mind is a myth」「The mystique of enlightenment」の著者であるU.G.クリシュナムルティをお招きしています。

ようこそU.G。

サンキュー。

人々はしばしばあなたのことを、「エンライトした存在」と呼びます。そしてあなたはそれをとても不快に思っていることを私は知っています。実際あなたは以前私に語ったことによれば、「存在」という概念がまったく気に入らない。

そうです。いいですか。問題は、何かになるというということから生まれます。エンライトメントもまた、何かになるということです。
話をもう一歩進めると、いわゆる人間のマインドという言葉を使うなら、それは官能的な行為だけに関心があります。

生体、人間の体、それを何と呼んでもいいのですが、それは刺激にだけ反応します。体は快楽には全く関心がありません。それゆえ、あなたが快楽に関する何かを経験するために思考を持ち込んだ瞬間、それは体にとっては苦痛となります。

私たちは官能を求めて、それでも苦痛だけを得る?

私たちは苦痛が大好きです。別の言葉で言うなら、私たちは苦痛を楽しみます。そしてそれを快楽と呼びます。人間の体はどんな種類の快楽にも興味がありません。体が興味あるのは神経組織の感受性と体の機能の感受性を維持することだけです。

それゆえ、あなたがある種の感覚を楽しい感覚だと思った瞬間に、その感覚を長引かせようという要求が起きます。そしてその楽しい感覚を長引かせようとすると、私たちが快楽と呼んでいる感覚を苦痛に変えてしまいます。

それが、体にとっては苦痛という感覚になります。体は快楽という感覚を取り除こうとします。そうやって私たちは苦痛から抜け出せなくなります。

それはまるで、快楽が大きければ大きいほど苦痛も大きくならざるをえないようです。

人々はいわゆる快楽に度合いを持ち込みます。思考は常に、何かに対してもっともっと多く、もしくはもっともっと少なくと求めます。私は決して快楽に反対している訳ではありません。

あなたが思考を快楽を得るための道具として使った瞬間に、問題を作り出すことになります。なぜなら、人は理解した・・・。私は人という言葉や人間という言葉を使うのは好きではありませんが、一般的な意味での人のことで、その人というのは、例えばあなたと私、ここに座っている人のことです。

永遠の幸福という欲求は、どんなことをしても、どんな思考でも達成できないものです。
人は思考を投影し、いわゆるエンライトメント、神、自己実現、何と呼んでもよいのですが、を創り出しました。それが究極の快楽です。

あなたもたぶんお聞きになったことがあると思いますが、インドには、偉大な聖人たちがいて、彼らは永遠に続く性的オルガスムスの状態にあると考えられています。

(笑い)それがグルたちが今日市場で売っているものです。いいですか。セックスでさえ体にとってはどうでもよいことです。なぜならそれは体にとっては苦痛であり、それは再生という唯一の目的のためにのみ必要なものです。

生物はたった二つのことにしか興味がありません。生存と再生です。
それゆえ、いったん思考が介入してセックスを快楽に変えると問題を創り出すことになります。思考によって、快楽をもっと長引かせることができるのではないかと考えます。ある状態から、もっともっと長い時間へと。
そうやってあなたが長引かせると、体にとってはそれが苦痛となります。

あなたのアプローチはとてもヴィクトリアン(堅い、上品ぶった)に思えますが。

私はヴィクトリアンではありませんが、セックスはエンライトメントとは全く関係がありません。今日、市場の人々の間でセックスをエンライトメントへの手段、もしくは踏み台にするのが流行っています。しかし、現実としても事実としても、セックスは全く、いわゆるエンライトメントとは関係ありません。

あなたがセックスを否定していようが、溺れていようが、あなたが探しているものにとってはまったく重要ではありません。でも、セックスを否定している文化の中では、それは軽蔑すべきものとして扱われていたり、精神的なゴールの本質的なものとして扱われていたります。

不幸にも、エンライトメントを売り物にしている市場のグルたちはタントラの技法というものを発明して、それを霊的なゴールを達成する方法として使っています。

ええ、タントラ、禁欲についてあなたがおっしゃっているのは・・・。

それは全くエンライトメントとは関係がありません。もしあなたが、エンライトメントに対する疑問やエンライトメントに対する欲求を完全にセックスから切り離したら、それを別の見方で見ることができます。

エンライトメントと呼ばれるようなものが果たして存在するのかどうかということです。私たちは、エンライトメントがあるということを当然のこととして受け入れています。
私たちはそれを疑問に思ったことがありません。もしそれに疑問を持つと、エンライトメントという概念全体やエンライトメントを説く教師に疑問を抱くことになり、自分が信じてきた信念に疑問を抱くことになります。

そういった感情が背景にあるために、エンライトメントは当然あるものとして受け入れています。

ええ、私たちはそういった概念を抱いています。それは昔の聖人たちが様々な文化の中にいて、意識の高次の状態やエンライトメントについて書いたり、語ったりしているからです。

それはそうなのですが、私はその意識そのものについて尋ねます。はたして意識(consciousness)などというものがあるのかというのが私の問いです。
私たちは自分自身とそれを取り巻く世界を意識するようになりましたが、それは聖人や人類の救済者と呼ばれる人たちによって与えられた知識の助けを借りたからです。

では、そういった知識の助けなしで何かを意識することは可能ですか?そうすると、私たちが当たり前に受け入れていることに対して疑問も持つことになります。私たちはとても世間知らずで、それを受け入れ、全生涯を通じて、それをあなたが何と呼んでもいいのですが、エンライトメント、神の実現、自己実現、を追求しています。

別の言い方をすると、あなたにパラドックスがあるように思えます。というのも、一方で私たちの意識は、私たちをいわゆる真理として伝えられた伝承に対して疑問に導きますが、あなたは、その伝承なしでは私たちには意識はないと言います。

いいですか。それが私たちの思考の構造の一部なのです。不幸にも思考はそれ自体が二つに分裂していて、二元性、神経症的な状況を創り出しています。

あらゆる文化が私たちに、競争すべきではない、競争はよくないことだと教えています。また、野心は持つべきではないと教えています。

霊的な教えではそう教えることが多いですね。

霊的な教えもそう教えます。霊的な教えではあなたに、野心、欲望、あれやこれやから自由であることを求めます。しかしその一方で野心は、今日の社会を生き抜くためには絶対に必要です。そのために神経症的な状況が生み出されました。私たちは快楽を求め、その一方で、快楽が痛みをもたらすということを知っています。

そのため、永続性に対する欲求が思考が基本的に求めている欲求です。思考は永続性に興味があります。この生物としての永続性ではなく、思考の継続という永続性を求めています。

体はある意味で、それが永続だということを知っています。それは、私たちが知っているような、これが永続、あれが永続ではない、というような意味ではありません。その知識は特別なもので、体が永続であると知っています。そのため、ある日終りがやってくるという考えには興味がありません。

この楽しいひと時にかかわっている者にとって、この生物が死んだ時に何が起きるのかというようなことを聞く人がいるでしょうか?体にとっては死などというものは存在しません。なぜなら、体には、体が今この瞬間は生きていて、60年後、70年後、80年後、100年後に死ぬということを経験する方法がないからです。

あなたは体は死なないとおっしゃるのですか? 魂はどうですか?

(笑い)それは信じられているものです。自己、魂、精神、あなたが何と呼んでもよいのですが、それは思考によって創造されたものです。その思考が原因で、私たちが自己、精神、魂、なんと呼んでもいいのですが、を経験します。

言葉の語源をもてあそぶような軽薄なことはしたくないのですが、spirit(精神)はラテン語です。

それは一般的には呼吸と関連がありますね。

ええ、呼吸という意味です。そしてあなたが人を観察して、呼吸が止まった時、あなたはそれを死と表現します。そして呼吸が止まったという事実を見た時、死の後に何か継続していくものがあるのかをあなたは知りたくなります。あなたの体が死という状態になった後、何が永続していくでしょうか。

私の体は生き残らないで朽ちていきますが、あるレベルでの私の経験する能力はおそらく生き残るのではないかという風に私は考えてきました。

では、あなたはそれを自分の体が生きている今経験することができますか? もし人が死について何かを知りたいと思うなら、死が起きるのを待たないで、それが何なのかを今知る必要があります。

あなたが、今日生きているという事実を経験する方法はありますか? 私は、無いと断言します。医者がやってきてあなたを診察して、これがあなたの血圧、これが体温、あなたの心臓は脈動している、などと告げます。それであなたは生きていると思う。

あなたはそういった知識を活用して、いわゆる生きている存在というものを経験しようとします。でも、そういった医師の観察という過去から受け継がれた知識によってあなたは生きている存在だと言われること無しに、自分が生きている存在だと自分に言ってみてください。

もしひとたびあなたが知識を無くすと、あなたは今日生きているという経験をする方法がありません。そうなると、あなたが死んだ時という質問は起きません。

デカルト、偉大な西洋哲学者は「我思う、ゆえに我あり」と言いました。でもあなたは、思考は生の対極にあると暗示している気がします。

私も西洋哲学でデカルトを学びましたが、彼は間違った問いをして、とてもおかしな回答をしています。我思う、ゆえに我あり。でも、彼は本来問うべき質問を問うていません。

インド哲学者はこういう風に問います。あなたがもし考えなかったら、あなたは存在しますか? 私たちが問うべき基本的な問いは、思考とは何なのか?そして、なぜ考えるのか?です。もしあなたが考えなかったら、それでも問いはあります。

その問いは、そこに何者かがいるという仮定から起こっています。だから、こう問うべきなのです。我思うゆえに我あり、でももし私が考えなかったら、その私はどこにいるのか?

エンライトメントについて話をすると、インドの偉大な聖人たちは、人が思考を止めると、人は広大な至福の海に入ることができる、それがエンライトメントだと言っていますが、それは本当ですか?

(笑い)至福、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが、それは私たちがふける肉体感覚の快楽です。彼らは並外れた瞬間を経験して、それを至福と表現しています。そしてそれを人とシェアしようとします。そのため、人々は同じ経験をしょうとして多くの問題を起こします。

その知識が世代から世代へと受け継がれてきました。あなたも同じやり方で物事を経験します。もしあなたに知識がなかったら、あなたは何一つ経験することはできません。そしてもし一瞬でもそれを経験すると、それは知識を超えて、さらに強化されます。

この悪循環が繰り返し繰り返し起こります。この構図にはこの悪循環を打ち破る方法がありません。私たちは物事を経験するためには知識を受け入れざるをえません。そして、経験が知識を強化するのです。
私たちは本当にそれから抜け出る方法を見つけたいのでしょうか?

出口はあるのですか?

出口はありません。なぜなら、質問は思考から起きています。思考がこの問いを問いかける時、思考は答えがないということを知っています。思考ができる唯一の道は、それを続けていくことだけです。

思考は時間を創り出しました。思考は空間を創り出しました。知識の助けなくしては、私たちは空間を経験できません。知識の助けなくしては、時間を経験できません。そこには空間も時間もありません。

科学者たちは好きなようにあれこれ言うでしょう。でもまた彼らは、時間というようなものはないとも言っています。空間というようなものはない、物質というようなものもない、時空連続体があるだけだと。

私は尋ねます。空間というものがありますか? 時間というものがありますか? 思考が生まれた瞬間に時間がそこにあります。そして思考によって、時間のない状態が創造され、その状態を追い求めるのですが、思考が時間のない状態になることはありません。

なぜなら、時間のない状態になるためには思考が不在でなければならないからです。それ(時間のない状態)は思考によって、それ自体を時間の中で永続させるために発明されました。

私達は抜け出せない罠にはまっているように思えますね。

私たちははまっていて、そこから出るという欲求が現実的な問題です。その問いに対する答えは全くありません。

人間の歴史の中で、エンライトメントした人などいないとおっしゃるのですか?

いいえ。私はエンライトメントした存在がいないとは言いません。人間はたくさんいるのですから。でも私はエンライトメントしたいという欲求について尋ねます。最初に言ったように、私としては、エンライトメントなどというもの全くありません。

エンライトメントは未来にあります。今さっき言ったように、時間が未来の物事を創造しました。未来がエンライトメントをいつも、かなたにあるものにします。エンライトメントは、自称エンライトメントしたという偉大な教師たちから受け継いだ知識の一部なのです。

過去があなたの未来、つまりエンライトメント呼ばれるものを投影するもとになっています。まず第一に、現在というものが存在しますか? 現在などというものはありません。今などというものはありません。

今この瞬間などというものはありません。というのも、もしあなたが、これがその瞬間だ、これが現在だ、これが今だ、と言うと、その瞬間にあなたは過去を描写しています。過去に私はエンライトメントしていなかった。私は明日エンライトメントをするつもりだ。では、今はどうなのですか?

今私はエンライトメントをしているのか、それともしていないのか。何をもって、私はエンライトメントしているとか、エンライトメントしていないとか、 私は解放されているとか、解放されていないとか言うことができるのですか?

それは知識によってです。知識によって、私は解放されていない、私はエンライトメントしていないということができます。もし、あなたがエンライトメントをしていなのなら、明日エンライトメントをする。うまく言えているのかどうかわかりません・・・。

これはちょっとしたパラドックスですね。私が考えるには、もし誰かが本当にエンライトメントをしているのなら、その人は空間や時間を超越していているはずですから、いつもそうだったはずですね。

もし仮に、エンライトメントをした存在がいると仮定すると、彼は自分のことをエンライトメントした存在であると表現する方法はありません。そのため、他の人をエンライトメントさせようという疑問は起きないはずです。

私はエンライトメントしたと言った瞬間、すでに元に戻ってしまう。

エンライトメントという知識が何世代にもわたって私達に伝承されました。その知識が、あなたはエンライトメントした存在だとあなたに教えます。その結果、あなたは他の人もエンライトさせたい。

それはこういった知識の助けを借りて、私にも可能な取るに足らないささいな経験です。私が経験したエンライトメントと呼ばれるものは、思考がもたらしたものであって、真のエンライトメントでは全くありません。

どんなエンライトメントの描写も本質的には妄想だとおっしゃるのですか?

(笑い)どうしてあなたはエンライトメントにこだわるのですか?

えっと・・・。

出口です。

ええ、他に何をすることが?(笑い)

出口です。いいですか。あなたは問題を未来の日へと先延ばしにします。私が言いたいのは、問題など何もないということです。私達がはまってしまっているのは、教えられた解決法によってです。

それは、あなたや私が、その問題に対して正しい解決法を知っていると思っている人々によってもたらされたものです。でもその解決法は私たちの問題を解決する助けにはなりません。

しかし、どういうわけか私たちは時間という領域の中で縛られています。そして時間は希望です。同じことを何度も何度も繰り返すことによって、あなたはこの問題を解決することができます。

そうした解決法が役にたたないために、私たちはあちこちと捜しまわり、別の解決法を提供してくれる人を捜そうとします。でも、この問題を解決することに興味ある人は、聖なる聖人や人類の救済者と呼ばれる人たち、過去、現在、そしてまだ生まれていない聖人も含めて、そういった人たちによって提供された解決法を脇に置いて始めなければなりません。

別の言い方をすると、真に自由であること、真にエンライトした存在とはエンライトメントに関するすべての概念、すべての伝統的な概念を放棄するということですね。

あなたはあたかも概念について話していて、二つの違ったことを話しているように思います。エンライトメントの欲求についてと二つの違ったことについてです。あなた自身を概念と分離する方法はありません。

でもあなたは、そうすることが不可欠だと今さっきおっしゃいましたが。

そうすることが不可欠だと言ったのは、ものごとを説明するためには、話すということが不可欠だからです。

不可欠であるが同時に不可能だということですね。

あなたはまだ、問題など何もないということを受け入れる用意ができていません。そしてあなたは人々が完全に信じ信頼している人たちから提供された解決策に行き詰っています。そしてそれは役にたちません。

私たちが使っている道具は、希望から生まれたものです。あなたの今現在の状態は、あなたの思考、フィーリング、経験の総和です。そういった道具は私たちが持っている唯一の道具です。それはとても強力な道具です。

その道具は、今日まで私たちが何かを成し遂げるために大いに助けになりました。そのため、私たちはこの道具を捨てる用意ができていません。それと同時に私たちは、この道具の助けを借りて理解することが、私達の問題を解決する助けにはならないということを知っています。

それでも私達はその道具を使って解決しょうとすることをやめず、それができると信じて、自信を持っています。それが問題の根源です。いったんあなたに理解が起きると、そうした道具が理解や解決の助けにはならないとわかり、その瞬間に、そういった問題を解決してくれる道具に対する欲求が消えます。

ですから、理解などというものはまったくありません。どうして私がこうなったかということを知る方法はないのです。どういうわけか、私はわかったのです。知性を鍛え、使い、育てても、何かを理解することには役に立ちません。

同時に、そうした道具を深く信頼することは(23:12あたり。ここ聞き取りできません)
それが唯一の道具です。私は他の道具を知りません。それが私が持っている唯一の道具です。

それは、何かを解決したり、理解したりする助けにはなりませんでした。どういうわけか、わかったのです。それが唯一の道具であり、他の道具はないということが。それは、理解しようとするための他の方法を根底から捨てさること。直感によるすべての考えを下水に流して捨ててしまうこと。

なぜ? なぜ直感を捨てるのですか?

あえて言うなら、直感は思考がさらに敏感になったものにすぎません。思考で問題を解決しようということが問題なのです。

でも、少なくとも、洗練された敏感な思考を持つ方が、洗練されてない鈍感な思考を持つよりいいのではありませんか?

その違いは何ですか?洗練されてない思考と敏感な思考の違いは何ですか?

18世紀の西洋の伝統の中に啓蒙運動という概念があります。迷信から自由になれば、ありのままを見ることができるというものです。

私達は迷信から自由ですか?どうして私達は科学者が毎日のように提供することを鵜呑みにしているのですか?それは科学的だと人は言いますが、それほど科学的ではなく、過去の宗教関係者と同じぐらい独断的です。科学がテクノロジーをもたらすので、人々は科学を深く信頼しているのですが、4年ごとに理論は変化しています。

先日も言ったのですが、科学者は最も根本となる微粒子を発見することに懸命になっていて、それをどこまでもどこまでもやり続けて決してあきらめません。

自然界の謎を解き明かそうとする知的な努力は無駄だとおっしゃるのですか?

ええ、無駄です。なぜなら、科学者は自身を宇宙と切り離して考えているからです。それは一つのもの(single unit)です。自然と人間は二つの別々のものではありません。以前言ったように、どうしたわけか、進化の過程で人間という種に自意識が生まれました。でも、・・・。

どうして私たちは切り離されていないとわかるのですか?どうして自意識は役にたたないということがわかるのですか?

思考が空間を創り出しているのです。思考が空間です。例を出してみましょう。

あと一分しかありません。

(椅子に触れながら)今ここに触れています。これが固いということはどうしてわかるのですか? これが固いという知識は思考です。そしてその思考が二つの間の空間を生んでいて、これが固いとわかります。

そうでなければ、二つのものの間には空間はなく、触感によって、これが固いとか柔らかいとかわかることはありません。

触感のような基本的で当たり前に思っていることでさえ、それは一つの思考のプロセスであるということですか?

そうです。つまり、思考が空間であり、思考が空間を生み出し、その空間の中で私たちは機能しています。空間は思考では決して決して経験することがでかない何かです。

私たちは自らの思考の罠にはまっているのですね。そして思考は自身でそれを知ることはできない。

思考には自らを知る方法がありません。本質的な問いは、思考などというものがあるのか? 思考とは何かを知りたいという欲求は思考によって生まれたものです。そしてあなたがそこで見るものは思考を超えたものであり、思考そのものではありません。

U.G.クリシュナムルティ、どうもありがとうございました。

サンキュー。

みなさんどうもありがとうございました。

2020/05/09

U.G.クリシュナムルティ(The Mystique of Enlightenmentより抜粋)④

The Mystique of Enlightenment p,56より抜粋

What makes one person come into his natural state, and not another person, I don't know. Perhaps it's written in the cells. It is acausal. It is not an act of volition on your part; you can't bring it about. There is absolutely nothing you can do. You can distrust any man who tells you how he got into this state. One thing you can be sure of is that he cannot possibly know himself, and cannot possibly communicate it to you. There is a built-in triggering mechanism in the body. If the experiencing structure of thought happens to let go, the other thing will take over in its own way. The functioning of the body will be a totally different functioning, without the interference of thought except when it is necessary to communicate with somebody. To put it in the boxing-ring phrase, you have to "throw in the towel," be totally helpless. No one can help you, and you cannot help yourself.

なぜある人にはこの自然な状態が起こり、別の人には起きないのか、私にはわからない。おそらくそれは細胞の中に記録されているのだろう。それには原因はない。それはあなたの意志によるものではない。あなたにはそれが起こせない。あなたにできることは何もない。どうしてその状態になったかを教えるという男たちを信用しないことだ。あなたの側で言える確かなことは、その男はおそらく自身のことを分かっておらず、あなたにそれを伝えることができないということだ。体には引き金となるメカニズムが備わっている。もし、思考の機能が解放されると、その他のことは自然に起こってくる。体の機能は全く違ったものとなり、思考に干渉されることはなくなり、思考は人と会話する時にだけ働く。ボクシングのリング用語で言えば、「タオルを投げる」であり、あなたはどうすることもできない。誰も助けてはくれないし、自分で助けることもできない。
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This state is not in your interest. You are only interested in continuity. You want to continue, probably on a different level, and to function in a different dimension, but you want to continue somehow. You wouldn't touch this with a barge pole. This is going to liquidate what you call "you," all of you — higher self, lower self, soul, Atman, conscious, subconscious — all of that. You come to a point, and then you say "I need time." So sadhana (inquiry and religious endeavor) comes into the picture, and you say to yourself "Tomorrow I will understand." This structure is born of time and functions in time, but does not come to an end through time. If you don't understand now, you are not going to understand tomorrow. What is there to understand? Why do you want to understand what I am saying? You can't understand what I am saying. It is an exercise in futility on your part to try to relate the description of how I am functioning to the way you are functioning. This is a thing which I cannot communicate. Nor is any communication necessary. No dialogue is possible. When the 'you' is not there, when the question is not there, what is is understanding. You are finished. You'll walk out. You will never listen to anybody describing his state or ask any questions about understanding at all.

この状態はあなたのためになるような状態ではない。あなたが興味あるのは継続性だけだ。あなたは継続性が欲しい。たぶん違ったレベルで、違った次元で機能して欲しいと思っているが、いずれにしても、継続して欲しい。あなたはこれを全く受け入れられないだろう。これは、いわゆる「あなた」を一掃してしまう。ハイヤーセルフ、ロウアーセルフ、ソウル、アートマン、意識、無意識、それらすべてを一掃する。あなたは立ち止まって「時間が必要だ」と言う。サダナ(探求と宗教的修行)を思い浮かべ、「明日は理解できるだろう」と言う。その構造は時間の中で生まれ、時間の中では機能するが、終わりがない。もしあなたが今理解できなければ、明日理解することはできない。何を理解する? なぜ私の言うことを理解したい? あなたには私の言うことは理解できない。私が機能するやり方の説明をあなたが機能するやり方と関連付けようとしても無駄だ。これは会話によって伝えることはできないものだ。どんな会話も不要だ。伝達は不可能だ。そこに「あなた」がいない時、そこに質問が無い時、そこにあるのは理解だ。あなたは終わる。あなたは立ち去るだろう。あなたは誰かが描写するその状態に耳を傾けることもないし、それを理解するために質問することもない。
What you are looking for does not exist. You would rather tread an enchanted ground with beatific visions of a radical transformation of that non-existent self of yours into a state of being which is conjured up by some bewitching phrases. That takes you away from your natural state — it is a movement away from yourself. To be yourself requires extraordinary intelligence. You are 'blessed' with that intelligence; nobody need give it to you, nobody can take it away from you. He who lets that express itself in its own way is a natural man.

あなたが探しているものは存在しない。あなたは、ありもしない自己が、うっとりするような言葉で描き出された存在へと劇的に変容するという至福に満ちたヴィジョンを抱いてもっと魅力的な場所を歩みたい。でもそれはあなたを、あなたの自然な状態から遠ざける。それは自分自身から遠ざける。自分自身でいるということは、途方もない知性を必要とする。あなたはその知性に "恵まれて" いる。誰もあなたにそれを与える必要はない。誰もあなたからそれを奪うことはできない。それをその人のやり方で自然に起きるに任せるのが自然な人間である。

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ギルバートからの返事

U.G.に起こった「爆発」「災難」をどう思うか、
declutched state(クラッチを切った状態)をどう思うか、
仏陀やその他の聖人たちに「爆発」が起こったと思うか、
という質問を、ギルバートにメールして聞いてみました。

ギルバートの答えはシンプルで明快なものでした。

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It is all concepts.
Who did the explosion happen to.
Recognition is sudden, instant dissolution of all attachments.
UG was radical.  The podcasts I published are the best of his expressions.  
The guru is only a sign post.

それは全部概念だよ。
その爆発は誰に起こったというの。
認識は突然起こり、付着物(概念)は即座に消える。
U.G.は過激だった。私のポッドキャストにあるのは、彼の言葉の中でもベストのもの。
グルは単なる道しるべにすぎないよ。
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U.G.に起こったことをギルバートに聞くこと自体がナンセンスですが、ギルバートは返事をくれました。

彼は私の質問に直接答えるのではなく、原則的なことを書いてくれましたが、これは一種のお叱りであると感じました。

U.G.に何が起きようと、それは体験にすぎず、概念だということ。そこに爆発が起きる人はいない。

U.G.に何が起きようと、仏陀が何を経験しようと、それは単なる経験であり、概念。そしてそれはどこで、誰に起こったのか。
そこにはそれを経験する人は誰もおらず、概念にすぎない。

もしそのことを理解(認識)したなら、概念は全部消える。
U.G.は過激なことを言うが、それが彼のスタイル。言葉じりにとらわれてはいけない。

U.G.や仏陀やラマナ・マハリシが特別な人ではなく、単なる道しるべにすぎない。
覚醒した人などいない。本当の意味でのエンライトメントもインチキグルの至福に満ちたエンライトメントも、どちらも単なる体験であり、概念にすぎない。

ギルバートからの返事は、座禅の警策(きょうさく)のごとくに、私をピシャリと打ちました。

セイラーボブだったら、おそらくこう言うと思います。

「それは単なる自慢話。どんな体験もそれではない」

私達は、誰かが何か特別なことを体験したと言うと、ついついそれが何なのか知りたくなり、自分も欲しいと思い、挙句その人を信奉し始めます。それは大きな落とし穴。

誰に何が起きようと、何を体験しようと、それは概念にすぎません。それを概念化する「私」がいなければ、そこには何もない。

本当はギルバートの本を連載するといいのですが、著作権の問題があるのでできません。ぜひ本を読んでください。
Self Aware
Self Illumination (English Edition)

また、ギルバートのFacebookを読むことも理解の助けになります。
ギルバートの Facebook

2020/05/02

U.G.クリシュナムルティ(The Mystique of Enlightenmentより抜粋)③

前回からの続き
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I didn't feel that I was a new-born baby — no question of enlightenment at all — but the things that had astonished me that week, the changes in taste, seeing and so on, had become permanent fixtures. I call all these events the 'calamity'. I call it the 'calamity' because from the point of view of one who thinks this is something fantastic, blissful, full of beatitude, love, ecstasy and all that kind of a thing, this is physical torture — this is a calamity from that point of view. Not a calamity to me, but a calamity to those who have an image that something marvelous is going to happen. It's something like: you imagine New York, you dream about it, you want to be there. When you are actually there, nothing of it is there; it is a godforsaken place, and even the devils have probably forsaken that place. It's not the thing that you had sought after and wanted so much, but totally different. What is there, you really don't know — you have no way of knowing anything about that — there is no image here. In that sense I can never tell myself or anybody "I'm an enlightened man, a liberated man, a free man; I'm going to liberate mankind." Free from what? How can I liberate somebody else. There's no question of liberating anybody. For that, I must have an image that I am a free man, you understand?

生まれたばかりの赤ん坊という感じではなかった。エンライトメントなんかでは全くない。しかし、その週に私が驚いた味覚や視覚の変化などは恒久的なものになった。私はこの一連の出来事を "災難" と呼んでいる。なぜ私がこれを "災難" と呼ぶのかというと、このことを何かすばらしい、幸福、至福に満ちたもの、愛、エクスタシーといった類のことだと思っている人の目から見れば、これは拷問だからだ。私にとっては災難ではないが、何かすばらしいことが起こると思っている人にとっては災難なのだ。それはあたかも、ニューヨークのことを考え、夢にみて、そこへ行きたいと思って実際に行ってみると、そこには思っていたようなものは何もない。そこは神に見捨てられた場所。おそらく悪魔ですら見捨てた場所。あなたが求め、どうしても行きたいと思った場所ではなく、全く違っている。それは何なのか、あなたにはわからない。あなたがそのことについて何かを知る方法はない。ここにはイメージはない。その意味において、「私はエンライトメントした人だ、解放された人だ、自由な人だ、人々を解放する」などと自身に言うことも、人に言うことも決してない。何から自由になるというのか? どうやって私が他の人を解放できるのか。誰かを解放することなどできない。その点においては、私は自身が自由な人だというイメージを持つ必要がある。わかるかな?
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Then, on the eighth day I was sitting on the sofa and suddenly there was an outburst of tremendous energy — tremendous energy shaking the whole body, and along with the body, the sofa, the chalet and the whole universe, as it were — shaking, vibrating. You can't create that movement at all. It was sudden. Whether it was coming from outside or inside, from below or above, I don't know — I couldn't locate the spot; it was all over. It lasted for hours and hours. I couldn't bear it but there was nothing I could do to stop it; there was a total helplessness. This went on and on, day after day, day after day. Whenever I sat it started — this vibration like an epileptic fit or something. Not even an epileptic fit; it went on for days and days.

そして八日目、私がソファに座っていると、突然、ものすごいエネルギーの爆発が起きた。ものすごいエネルギーで体全体が揺れ動き、体と一緒にソファ、家、いわば宇宙全体が揺れた。揺れて、振動した。あんな動きを自分ですることはできない。それは突然だった。それが外からやって来ているのか、中からか、下からか上からか、わからない。場所を特定することはできなかった。そこらじゅうだった。それは何時間も続いた。耐えられなかったが、止めるすべはなく、まったくどうすることもできなかった。それが延々と続き、毎日毎日続いた。私が座るとそれが始まった。それはまるで癲癇(てんかん)の発作か何かのようだった。それは何日も何日も続いた。

(For three days UG lay on his bed, his body contorted with pain — it was, he says, as if he felt pain in every cell of his body, one after the other. Similar outbursts of energy occurred intermittently throughout the next six months, whenever he lay down or relaxed.)

(三日間、U.G.はベッドで横になっていた。痛みで体を曲げ、彼が言うには、まるで全身の細胞の痛みを次々と感じるようだった。同じようなエネルギーの爆発がその後六か月にわたり断続的に、横になったり、リラックスするたびに起きた)

The body was not able to.... The body feels the pain. That's a very painful process. Very painful. It is a physical pain because the body has limitations — it has a form, a shape of its own, so when there is an outburst of energy, which is not your energy or my energy or God's (or call it by any name you like), it is like a river in spate. The energy that is operating there does not feel the limitations of the body; it is not interested; it has its own momentum. It is a very painful thing. It is not that ecstatic, blissful beatitude and all that rubbish — stuff and nonsense! — it is really a painful thing. Oh, I suffered for months and months after that; before that too. Everybody has. Even Ramana Maharshi suffered after that.

体はできない・・・体は痛みを感じる。それは非常に痛みを伴うプロセスだ。ものすごく痛い。それは身体的な痛みだ。体には限界があり、形態があり、それ自体の形がある。エネルギーの爆発、それはあなたのエネルギーでも私のエネルギーでも神(何でもあなたの好きなように呼べばいい)のエネルギーでもない。それは氾濫する川のようなもの。そこで動いているエネルギーは体の限界を感じない。そんなことには関心はなく、独自の勢いで動いている。それは非常に痛いものだ。それは恍惚、至福の幸福といったたわごとではない!それはまったくの痛みだ。ああ、その後何か月も何か月も続いた。その前にもあった。それは皆が経験する。ラマナマハリシも、その後で悩まされた。

A great cascade — not one, but thousands of cascades — it went on and on and on for months and months. It's a very painful experience — painful in the sense that the energy has a peculiar operation of its own. H'm, you know, you have at the airport a Wills cigarette advertisement. There is an atom: lines going like that. (UG demonstrates.) It is clockwise, anticockwise, and then it is this way and then this way and then this way. Like an atom it moves inside — not in one part of your body; the whole body. it is as if a wet towel were being wrung to get rid of the water — it is like that, the whole of our body — it's such a painful thing. It goes on even now. You can't invite it; you can't ask it to come; you can't do anything. It gives you the feeling that it is enveloping you, that it is descending on you. Descending from where? Where is it coming from? How is it coming? Every time it is new — very strange — every time it comes in a different way, so you don't know what is happening. You lie down on your bed, and suddenly it begins — it begins to move slowly like ants. I'd think there were bugs in my bed, jump out, look — (Laughs) no bugs — then I'd go back — then again.... The hairs are electrified, so it slowly moves.

大きなほとばしり、一つではなく、何千というほとばしり、それが何か月にもわたって続いた。それは非常な痛みを伴う経験だ。エネルギーが独自の変わった動きをするために痛みを伴う。えーと、空港にあるウィルズの煙草の広告を思い出して。一個の原子があって、それがあんな風に動く。(U.G.がやってみせる)時計回り、反時計回り、そしてこちらに、そしてあちらに、そしてまたあちらに。まるで一個の原子が内側で動いているように。体の一か所ではなく、体全体だ。それはまるで濡れたタオルの水を絞り出すように。そんな感じで体全体。非常な痛みだ。それは今でも続いている。それを自分で起こすことはできない。起きて欲しいと頼むこともできない。どうすることもできない。それに包まれたような感じ、襲いかかってくるような感じだ。どこから襲ってくるのか? どうやってやって来るのか? それは毎回新しい。とても奇妙だが、それは毎回違ったやり方で起こるため、何が起こっているのかはわからない。ベッドの上で横になると、それが突然始まる。それはゆっくりとアリのように始まる。ベッドに虫がいるのかと思って飛び起きて見るが、虫はいない。そしてベッドに戻り、また始まる。髪の毛に電気が流れ、ゆっくりと動く。

There were pains all over the body. Thought has controlled this body to such an extent that when that loosens, the whole metabolism is agog. The whole thing was changing in its own way without my doing anything. And then the movement of the hands changed. Usually your hands turn this way. (UG demonstrates.) Here, this wrist joint had terrible pains for six months until it turned itself, and all the movements are now like this. That is why they say my movements are mudras (mystical gestures). The movements of the hands are quite different now than before. Then there were pains in the marrow of the bones. Every cell started changing, and it went on and on for six months.

体中に痛みがあった。それが弱まった時は思考が体をコントロールして、新陳代謝が活発になる。私が何もしないのに、すべてがひとりでに変わってしまった。手の動きが変わった。普通は手はこういう風に動く。(U.G.がやってみせる)。この腕関節にものすごい痛みが六か月続き、反り返り、すべての動きが今はこうだ。だから人はこの動きはマドラス(神秘的な動き)だと言う。腕の動きは以前とは全く違う。そして骨の髄まで痛みがある。すべての細胞が変化し始め、それが六か月続いた。

And then the sex hormones started changing. I didn't know whether I was a man or a woman — What is this business?" — suddenly there was a breast on the left-hand side. All kinds of things — I don't want to go into details — there is a complete record of all these things. It went on and on and on. It took three years for this body to fall into a new rhythm of its own.

そして性ホルモンが変化し始めた。自分が男なのか女のかわからなかった。どうなってしまったのか?突然左の胸が大きくなった。そういった類のことが起こった。詳しくは語りたくないが、完全な記録がある。それがずっと続いた。体が新しいリズムに落ち着くのに三年かかった。
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Q: Can we understand how it happened to you?
UG: No.
Q: Can we understand what happened?
UG: You can read a description of the events of my life, that's all. One day, around my forty- ninth birthday something stopped; another day another sense changed; the third day something else changed.... There is a record of the way the things happened tome. What value has that to you? It has no value at all. On the other hand it's very dangerous because you try to simulate the outward manifestations. People simulate these things and believe that something is happening — that's what these people do. I behaved normally. I didn't know what was happening. It was a strange situation. there is no point in leaving any record — people will only simulate these things. The state is something natural.

問い:それがどうして起こったのかわかりますか?

U.G.:わからない。

問い:何が起こったのかわかりますか?

U.G.: あなたは私の人生に起こったことの描写を読むことができる。それがすべてだ。四十九歳の誕生日の前後に何かが終わった。別の日、感覚が変化した。三日目にまた何かが変化した。それがどういう風に起こったかは記録してある。それがあなたにとって何の価値がある? 何の価値もない。それどころか、それはとても危険だ。というのも、あなたは表面的な出来事を真似しようとするからだ。人々はこうしたことを真似して、何かが起こっていると思い込んでしまう。それが人々のやっていることだ。私の振る舞いは自然だった。私は何が起こっているのかわからなかった。それは奇妙な状況だった。記録を残すことは重要ではない。人々はそれを真似してしまう。その状態はとても自然な状態だ。
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(Up and down his torso, neck and head, at those points which Indian holy men call chakras, his friends observed swellings of various shapes and colors, which came and went at intervals. On his lower abdomen the swellings were horizontal, cigar-shaped bands. Above the navel was a hard, almond-shaped swelling. A hard, blue swelling, like a large medallion, in the middle of his chest was surmounted by another smaller, brownish-red, medallion-shaped swelling at the base of his throat. These two 'medallions' were as though suspended from a varicolored, swollen ring — blue, brownish and light yellow — around his neck, as in pictures of the Hindu gods. There were also other similarities between the swellings and the depictions of Indian religious art: his throat was swollen to a shape that made his chin seem to rest on the head of a cobra, as in the traditional images of Siva; just above the bridge of the nose was a white lotus-shaped swelling; all over the head the small blood vessels expanded, forming patterns like the stylized lumps on the heads of Buddha statues. Like the horns of Moses and the Taoist mystics, two large, hard swellings periodically came and went. The arteries in his neck expanded and rose, blue and snake-like, into his head.)

(体の上下、首と頭にある点をインドの聖人たちはチャクラと呼びます。彼の友人たちは、彼の体に時折現れては消える様々な形や色の膨らみを見ています。下腹部の膨らみは水平でタバコの形の縞でした。へその上のものは固く、アーモンドの形をした膨らみ。固く、青い膨らみの大きなメダルのような形のものが胸の中央にあり、その上にはまた別の小さな茶色がかった赤色のメダル形の膨らみが喉の下の方にありました。その二つのメダルは、まるでヒンズー教の神を描いた絵にあるように、首の周りに誇張された青、茶色がかった薄い黄色のリングにぶら下がっているようなものでした。彼の膨らみとインドの宗教画の描写にはまた別の類似がありました。彼の喉が膨らんで、彼のあごがコブラの頭の上に乗っているように見え、まるで伝統的なシバの像のようでした。鼻柱のすぐ上には白いスイレン形の膨らみ。頭全体に小さな血管が広がり、仏陀の像にあるような様式化されたこぶのパターンになっていました。モーゼや道教の神秘家の角のような、大きくて固い二つの塊が時折現れては消えました。首の動脈が太くなって浮き上がり、青い蛇のように頭に入っていました。)

I do not want to be an exhibitionist, but you are doctors. There is something to the symbolism they have in India — the cobra. Do you see the swellings here? — they take the shape of a cobra. Yesterday was the new moon. The body is affected by everything that is happening around you; it is not separate from what is happening around you. Whatever is happening there, is also happening here — there is only the physical response. This is affection. Your body is affected by everything that is happening around you; and you can't prevent this, for the simple reason that the armour that you have built around yourself is destroyed, so it is very vulnerable to everything that is happening there. With the phases of the moon — full moon, half moon, quarter moon — these swellings here take the shape of a cobra. Maybe that is the reason why some people have created all these images — Siva and all those kinds of things. But why should it take the shape of a cobra? I have asked many doctors why this swelling is here, but nobody could give me a satisfactory answer. I don't know if there are any glands or anything here.

私は自分のことを宣伝するつもりはないが、あなたたちは医者だ。インドのコブラの象徴には何かがある。ここの膨らみが見えるかな? それがコブラの形をしている。昨日は新月だった。体は周りで起こっていることすべての影響を受ける。体は周りで起こっていること無関係ではない。外側で起こっていることは内側でも起きる。それは身体的な反応だ。それは影響を受ける。体は周りで起こっていることすべてに影響される。それを止めることはできない。理由は明らかだ。自身の周りに築いた防護機能が破壊されると、周りで起こることすべてに影響されやすくなる。月の形、満月、半月、上弦の月によって、この膨らみはコブラの形になる。シバとかその類のものだ。だがどうしてコブラの形になるのか? 私は何人もの医者に、どうしてこの膨らみがここにあるのか聞いたが、誰も満足のいく説明をしてくれなかった。ここに何かの腺か何かがあるのかわからない。
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There are certain glands ... This I have discussed so many times with doctors who are doing research into the ductless glands. Those glands are what the Hindus call "chakras." These ductless glands are located in exactly the same spots where the Hindus speculated the chakras are. There is one gland here which is called the 'thymus gland'. That is very active when you are a child — very active — they have feelings, extraordinary feelings. When you reach the age of puberty it becomes dormant — that's what they say. When again this kind of a thing happens, when you are reborn again, that gland is automatically activated, so all the feelings are there. Feelings are not thoughts, not emotions; you feel for somebody. If somebody hurts himself there, that hurt is felt here—not as a pain, but there is a feeling, you see — you automatically say "Ah!"

いくつかの腺・・・そのことを医者たちと何度も話し合った。彼らは内分泌腺の専門医だ。内分泌腺のことをヒンズー教では "チャクラ” という。そうした腺はヒンズー教でチャクラがあると考えられている場所と正確に同じ場所にある。ここに一つの腺があって、それは "胸腺" と呼ばれる。それは子供の時に活発に働く、とても活発に。それは知覚能力、途方もない知覚能力だ。思春期になると、それは休止状態になると言われている。もし、こういったことが再び起きれば、もし、再誕生が起きれば、この腺は自然と活発化する。ここにすべての感覚がある。感覚は思考でも感情でもない。人のものまで感じてしまう。もし誰かが体のどこかを傷つけると、そこに同じように感じる。痛みではないが、感覚。自動的に「痛い」と言ってしまう。

This actually happened to me when I was staying in a coffee plantation: a mother started beating a child, a little child, you know. She was mad, hopping mad, and she hit the child so hard, the child almost turned blue. And somebody asked me "Why did you not interfere and stop her?" I was standing there — I was so puzzled, you see. "Who should I take pity on, the mother or the child?" — that was my answer — "Who is responsible?" Both were in a ridiculous situation: the mother could not control her anger, and the child was so helpless and innocent. This went on — it was moving from one to the other — and then I found all those things (marks) on my back. So I was also part of that. (I am not saying this just to claim something.) That is possible because consciousness cannot be divided. Anything that is happening there is affecting you — this is affection, you understand? There is no question of your sitting in judgement on anybody; the situation happens to be that, so you are affected by that. You are affected by everything that is happening there.

それが実際にコーヒー農園に行った時に起こった。母親が子供を叩き始めた。幼い子だ。彼女は怒っていた。ひどく怒っていて、子供を強く叩いたため、子供が青ざめるほどだった。誰かが私に「止めさせたらどうか?」と聞いた。私は立ちつくしていた。わけがわからなかった。「誰の肩を持てばいい?母親か子供か?」それが私の返事だった。「誰が悪いのか?」二人ともおかしな状況にいた。母親は怒りをコントロールできず、子供は途方にくれ、無力だった。私の感覚が二人の間を行き来した。そして私の背中に傷が現れた。私もその場面の一部だった。(何かを主張するためにこれを言っているわけではない)そうしたことは起こりうる。なぜなら、意識は分割できないからだ。外側で起こっていることは何であれ内側で起きる。それは影響する。わかるだろうか? 誰かを裁くために座っていることはできない。ある状況が起きると、その影響を受ける。外側で起こったことは内側にも影響する。

Q: In the entire universe?
UG: That is too big, you see. Anything that is happening within your field of consciousness. Consciousness is, of course, not limited. If he is hurt there, you also are hurt here. If you are hurt, there is an immediate response there. I can't say about the universe, the whole universe, but in your field of consciousness, in the limited field in which you are operating at that particular moment, you are responding — not that you are responding.

問い:それは宇宙全体で起きるのですか?

U.G.:それは広すぎる。あなたの意識の範囲内で起きることだ。もちろん、意識には境界はない。もし誰かが痛みを感じれば、あなたも痛い。あなたが痛みを感じれば、すぐに他でも反応する。宇宙全体とは言わないが、あなたの意識の範囲内、あなたが何かをしているときに関わっている範囲の中で、あなたは影響を受ける。(あなた)が影響させているわけではないが。

And all the other glands also here.... There are so many glands here; for example, the pituitary — 'third eye', ajña chakra, they call it. When once the interference of thought is finished, it is taken over by this gland: it is this gland that gives the instructions or orders to the body; not thought any more; thought cannot interfere. (That is why they call it that*, probably. I'm not interpreting or any such thing; perhaps this gives you an idea.) But you have built an armor, created an armor with this thought, and you don't allow yourself to be affected by things.
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  • The literal meaning "ajña" is "command."

他にも腺がある・・たくさんの腺がある。例えば、脳下垂体は第三の目、アジュナチャクラと呼ばれている。思考の干渉がなくなると、この腺が働きだす。この腺が体に指示や命令を出す。そこに、もはや思考なく、思考が干渉することはない。(そういうわけで、おそらくこれはアジャナと呼ばれているのだろう。私は勝手に解釈しているわけではない。これはあなたの理解を助けるだろう)。だが、人は防護機能を築いている。思考による防護機能だ。そのために、こうしたことに影響されることはない。

"アジャナ" の文字通りの意味は "命令”である。
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Since there is nobody who uses this thought as a self-protective mechanism, it burns itself up. Thought undergoes combustion, ionization (if I may use your scientific term). Thought is, after all, vibration. So, when this kind of ionization of thought takes place, it throws out, sometimes it covers the whole body with, an ash-like substance. Your body is covered with that when there is no need for thought at all. When you don't use it, what happens to that thought? It burns itself out — that is the energy — it's a combustion. The body gets heated, you know. There is tremendous heat in the body as a result of this, and so the skin is covered — your face, your feet, everything — with this ash-like substance.

この思考を自己防衛の手段として使わないなら、思考は自然に燃え尽きる。思考は燃焼、イオン化(化学的な言葉を使うなら)する。思考はつまるところ、ヴァイブレーションだ。このイオン化が起きると、それは体の外に排出され、時々体全体を灰のような物質で覆う。思考がまったく必要ないなら、体全体がその物質で覆われる。もし思考を使わないなら、思考に何が起きるだろうか? 思考は燃え尽きる。それはエネルギーだ。それは燃焼だ。体は熱を帯びる。その結果、体はとても熱くなり、皮膚、顔、足、すべては灰のような物質で覆われる。

That's one of the reasons why I express it in pure and simple physical and physiological terms. It has no psychological content at all, it has no mystical content, it has no religious overtones at all, as I see it. I am bound to say that, and I don't care whether you accept it or not, it is of no importance to me.

私はこれを、わかりやすく簡単な物理学や生理学の言葉で説明しなければならない。これには心理的な要素はない。これには神秘主義的な要素はない。これには宗教的な意味合いもない。私の観察する限りにおいて。私はこのことを話さなければいけない。あなたがこれをどう解釈するかはどうでもいい。それは私には重要ではない。
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This kind of a thing must have happened to so many people. I say this happens to one in a billion, and you are that one in a billion. It is not something that one is specially prepared for. There are no purificatory methods necessary, there is no sadhana necessary for this kind of a thing to happen — no preparation of any kind. The consciousness is so pure that whatever you are doing in the direction of purifying that consciousness is adding impurity to it.

こういったことが、多くの人に起こったにちがいない。おそらく十億人に一人、そしてあなたも十億人のうちの一人だ。それは何も特別に準備ができた人のものではない。浄化の技法は不要だ。このことが起こるために修行は不要だ。どんな準備も要らない。意識はとても純粋なので、あなたが浄化のために何をしようと、それは意識に不純物を加えることになる。

Consciousness has to flush itself out: it has to purge itself of every trace of holiness, every trace of unholiness, everything. Even what you consider 'sacred and holy' is a contamination in that consciousness. It is not through any volition of yours; when once the frontiers are broken — not through any effort of yours, not through any volition of yours — then the floodgates are open and everything goes out. In that process of flushing out, you have all these visions. It's not a vision outside there or inside of you; suddenly you yourself, the whole consciousness, takes the shape of Buddha, Jesus, Mahavira, Mohammed, Socrates — only those people who have come into this state; not great men, not the leaders of mankind — it is very strange — but only those people to whom this kind of a thing happened.

意識はひとりでにそれを洗い流す。意識は神聖、神聖でないもの、それらすべてを自然に浄化する。あなたが、"神聖で高徳" と思っているものでさえ、意識にとっては不純物なのだ。それはあなたの意思で起こるのではない。一旦境界が壊れると、あなたの努力によってではなく、あなたの意思によってでもなく、水門が開き、すべてが流れ出る。その流れ出る過程の中で、こうしたヴィジヨンを見ることになる。そのヴィジヨンはあなたの外側のものでも内側のものでもない。あなたは突然自分自身、意識全体となり、仏陀、イエス、マハーヴィーラ、ムハンマド、ソクラテスとなる。こうした人たちだけがこの状態になった。彼らは偉大な人たちではなかったし、人類のリーダーたちでもなかった。とても不思議なことだが、こうした人たちにだけこれが起こった。

One of them was a colored man (not exactly a colored man), and during that time I could tell people how he looked. Then some woman with breasts, flowing hair — naked. I was told that there were two saints here in India — Akkamahadevi and Lalleswari — they were women, naked women. Suddenly you have these two breasts, the flowing hair — even the organs change into female organs.

そのうちの一人は黒人だった。(厳密にいうと黒人ではない)。それが起こった時、人々の目に彼がどう見えたのかを言うことができる。ある女性は大きな胸をして髪をなびかせ、裸だった。インドには二人の女性の聖人がいたと聞いている。アッカ・マハデヴィとラーレシュワリであり、彼らは裸の女性だ。突然胸が大きくなり、髪をなびかせる。性器さえ女性の性器に変わる。

But still there is a division there — you, and the form the consciousness has assumed, the form of Buddha, say, or Jesus Christ or God knows what — the same situation: "How do I know I am in that state?" But that division cannot stay long; it disappears and something else comes. Hundreds of people — probably something happened to so many hundreds of people. This is part of history — so many rishis, some Westerners, monks, so many women, and sometimes very strange things. You see, all that people have experienced before you is part of your consciousness. I use the expression "the saints go marching out"; in Christianity they have a hymn "When the Saints Go Marching In." They run out of your consciousness because they cannot stay there any more, because all that is impurity, a contamination there.

しかしそこにはまだ隔たりがある。あなたと、例えば仏陀、イエス、などなどの意識との間に。それは私の場合と同じ状況だ。"どうして私がその状態にいるとわかるのか?" しかし、その隔たりは長くは続かない。それはすぐに消えて無くなり、別の状態がやって来る。何百という人々に。おそらく数百という多くの人々に起こった。それは歴史の一部だ。たくさんのリシ、何人かの西洋人、僧、多くの女性、時々はめずらしい人たち。こうした人々が経験したことがあなたの意識の中にある。私は「聖者が町にやってくる」という表現を使う。キリスト教の讃美歌では「聖者が町にやって来る時」と歌う。すると彼らは自分の意識から出て行く。なぜなら、そこにはもういられないからだ。それは不純物であり、汚染だからだ。

You can say (I can't make any definite statement) probably it is because of the impact on the human consciousness of the 'explosions' of all those saints, sages and saviours of mankind that there is this dissatisfaction in you, that whatever is there is all the time trying to burst out, as it were. Maybe that is so — I can't say anything about it. You can say that they are there because they are pushing you to this point, and once the purpose is achieved they have finished their job and they go way — that is only speculation on my part. But this flushing out of everything good and bad, holy and unholy, sacred and profane has got to happen, otherwise your consciousness is still contaminated, still impure. During that time it goes on and on and on — there are hundreds and thousands of them — then, you see, you are put back into that primeval, primordial state of consciousness. Once it has become pure, of and by itself, then nothing can touch it, nothing can contaminate that any more. All the past up to that point is there, but it cannot influence your actions any more.

(私は明確に言うことはできないが)あなたはたぶんこう言うだろう。それはそうしたすべての聖人、聖者、人類の救済者たちの "爆発” によって人間の意識にもたらされた衝撃が不満となってあなたの中にあって、いわばそれが、いつも爆発しようとしているのだと。おそらくそうなのだろう。それについては何とも言えない。それは、ある地点まで後押しするためにあって、それが達成されれば、その役目は終わり、消える。それは私の推測にすぎないのだが。しかし、善悪、神聖不神聖、聖なるもの不浄なるものすべてを洗い流す出来事は必ず起きる。そうでなければ、意識は汚染されたままで不純のままだからだ。その期間は長い間続く。それはとても長い。そして、意識の原始の根源の状態へと戻される。いったん、意識が純粋で本来のものになると、何者も触れることができなくなり、何者にも汚染されなくなる。それまでの過去はそこにはあるが、それが行動に影響を与えることはもはやない。

All these visions and everything were happening for three years after the "calamity." Now the whole thing is finished. The divided state of consciousness cannot function at all any more; it is always in the undivided state of consciousness — nothing can touch that. Anything can happen — the thought can be a good thought, a bad thought, the telephone number of a London prostitute.... During my wanderings in London, I used to look at those telephone numbers fixed to the trees. I was not interested in going to the prostitute, but those things, the numbers, interested me. I had nothing else to do, no books to read, nothing to do but look at those numbers. One number gets fixed in there, it comes there, it repeats itself. It doesn't matter what comes there — good, bad, holy, unholy. Who is there to say "This is good; that is bad?" — the whole thing is finished. That is why I have to use the phrase 'religious experience' (not in the sense in which you use the word 'religion'): it puts you back to the source. You are back in that primeval, primordial, pure state of consciousness —call it 'awareness' or whatever you like. In that state things are happening, and there is nobody who is interested, nobody who is looking at them. They come and go in their own way, like the Ganges water flowing: the sewerage water comes in, half-burnt corpses, both good things and bad things — everything — but that water is always pure.

こうしたヴィジョンやその他すべては "災難" のあと三年続いた。今はすべて終わった。分離した意識の状態はもはやない。意識は分離されておらず、何者も触れることができない。どんなことでも起こりうる。良い思考、悪い思考、ロンドンの売春婦の電話番号・・・。ロンドンの町をさまよっていた頃、木に貼り付けられた電話番号をよく見ていた。売春婦には興味はなかったが、番号は興味を引いた。他に何もすることがなかった。読むような本は持っておらず、その番号を見る以外にやることがなかったのだ。ある番号が浮かんでくる。繰り返しやってくる。何がやって来ようが構いはしない。良い悪い、神聖不神聖。誰が「これは良い、あれは悪い」と言うのか。すべては終わった。そういう理由で私は、"宗教的な経験" という表現を使う。(あなたが使う意味での "宗教" ではない)。それはあなたを根源へと戻す。あなたは原始の根源の純粋な意識へと戻る。呼びたければ "アウエアネス" とでも何とでも好きなように呼べばいい。その状態の中で物事は起ってくるが、そこにはそれに興味を抱く人はいないし、それを見ている人もいない。それは自然にやって来て去っていく。あたかもガンジス川の流れのように、汚水がやって来る、生焼けの死体、良いこと悪いこと、すべて。しかし、その水は常に清らかだ。
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The most puzzling and bewildering part of the whole thing was when the sensory activities began their independent careers. There was no co-ordinator linking the senses, so we had terrible problems — Valentine had to go through the whole business. We'd go for a walk, and I'd look at a flower and ask "What is that?" She'd say "That is a flower." I'd take a few more steps, look at a cow and ask "What is that?" Like a baby, I had to relearn everything all over (not actually relearn, but all the knowledge was in the background and never came to the forefront, you see). It started — the whole business — "What is this crazy business?" I have to put it in words; not that I felt I was in a crazy state. I was a very sane man, acting sanely, everything going on, and yet this ridiculous business of asking about everything "What is this? What is that?" That's all; no other questions. Valentine also didn't know what to make out of the whole business. She even went to a leading psychiatrist in Geneva. She rushed to him — she wanted to understand, but at the same time she felt that there was nothing crazy about me. If I'd done one crazy thing she would have left me. Never; only strange things, you see. "What is that?" "That is a cow." "What is that?" "That is that." It went on and on and on, and it was too much for her and too much for me. When she met the psychiatrist, he said "Unless we see the person, we can't tell anything. Bring him." But I knew that something really fantastic had happened inside — what it was, I didn't know, but that didn't bother me. "Why ask if that's a cow? What's the difference whether it is a cow, a donkey or a horse?" — that bewildering situation continued for a long time — all the knowledge was in the background. It's the same situation even now, but I don't ask those questions any more. When I am looking at something, I really don't know what I'm looking at — that is why I say it is a state of not knowing. I really don't know. That is why I say that once you are there, through some luck, some strange chance, from then on everything happens in its own way. You are always in a state of samadhi; there is no question of going in and out of it; you are always there. I don't want to use that word, so I say it is a state of not knowing. You really don't know what you are looking at.

最も不可解で困惑したことは、知覚の活動がそれぞれ独立して、いつ働き始めたかということだ。知覚の調整機能が無くなったために、私たちはひどい経験をした。ヴァレンタインはその全部を経験しなければならなかった。私たちは散歩に出かけ、私が花を見て、「これは何?」と尋ねる。すると彼女は「それは花よ」と答える。また少し歩いて牛を見て、「あれは何?」と尋ねる。まるで子供みたいに私はすべてを学び直さなければならなかった。(実際には学び直すということではないが、すべての知識は背景にあって、前面に出てこなかった)。私はそれをやり始めた。「なんて気違いじみた事だ?」。私はそう言葉にして言わざるをえなかった。自分が気が狂っていると感じたわけではない。私は全く正気で普通に行動していたが、それでも「これは何?あれは何?」とすべての物について馬鹿げた事を尋ねた。それ以外の質問はしていない。ヴァレンタインもまた、このことをどう理解すればいいのかわからなかった。彼女はジュネーブの一流の精神科医にも尋ねた。急いで医者へ行き、このことを理解したいと思ったが、一方では私が少しも狂ってはいないと感じていた。もし私が少しでもおかしなことをしていたら、彼女は私のもとを去っていただろう。少しもそんなことはしなかった。ただ、「これは何?」「それは牛」「あれは何?」「あれは何々」それが延々と続き、彼女も私もうんざりだった。彼女が精神科医に会うと、「本人に会わなければ何とも言えません。彼を連れてきてください」と言われた。だが私は、何かとても素晴らしいことが内側で起こっていることを知っていた。それは何か、わからない。だが、構いはしなかった。「なぜ牛がいたら尋ねるのか? 牛、ロバ、馬の違いは何なのか?」。その当惑する状況は長く続いた。すべての知識は背景にあった。それは今も同じだが、今はもう質問することはない。私が何かを見る時、私は自分が何を見ているのか全く知らない。それゆえ私はこの状態を、知らない状態と言う。私は本当に知らないのだ。もしあなたがいったん、何かのめぐりあわせか奇妙なきっかけでこの状態になったら、その時からすべてが勝手に起こってくると私は断言する。あなたはいつもサマーディにいて、そこには質問の往来はない。あなたは常にその状態に留まる。私はその言葉を使いたくないので、知らない状態と呼んでいる。あなたは自分が見ている物が何なのか知らない。
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I can't do anything about it — there is no question of my going back or anything; it is all finished — it is operating and functioning in a different way. (I have to use the words 'different way' to give you a feel about it.)

私はこのことについてはどうすることもできない。後戻りするとかそういうことは全くできない。すべては終わった。今では違ったやり方で動き、機能している。(あなたにその感じをわかってもらうために"違ったやり方”という言葉を使わなければならない)。

There seems to be some difference. You see, my difficulty with the people who come to see me is this: they don't seem to be able to understand the way I am functioning, and I don't seem to be able to understand the way they are functioning. How can we carry on a dialogue? Both of us have to stop. How can there be a dialogue between us both? I am talking like a raving maniac. All my talking totally unrelated, just like a maniac's — the difference is only a hair's breadth — that is why I say you either flip or fly at that moment.

そこには何か違いがあるように思える。会いに来てくれた人々にこのことを説明するのが難しいのは、彼らが、私の機能するやり方を理解できないように思えることと、私が彼らの機能するやり方を理解できないと思えるからだ。それでどうやって対話できる? そこで止まってしまう。どうやってお互いに対話したらいいのか? 私はうわ言を言う狂人のように話す。私の話すことは取り留めがなく、狂人のようだ。狂人との差はほんのわずかだ。だから私は、あなたはその瞬間気が変になるか逃げだすかだと言う。

There is no difference, absolutely no difference. Somehow, you see, by some luck, by some strange chance, this kind of thing happens (I have to use the word 'happens' to give you a feel about that) and the whole thing is finished for you.

そこには違いはない、何の違いもない。どういうわけか、何かのめぐりあわせか何かのきっかけで、これは起こり(私はその感じをわかってもらうために、"起こる" という言葉を使わなけれなならない)、そしてあなたにまつわるすべては終わる。
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Q: Are even those who have realized (within quotation marks) different from one another?
UG: Yes, because the background is different. The background is the only thing that can express itself. What else is there? My expression of it is the background: how I struggled, my path, the path I followed, how I rejected the paths of others — up to that point I can say what I did or what I did not do — so, that did not help me in any way.

問い:そうした自己実現(引用符つきで言うなら)をした人たちは一人一人違いがあるのですか?

U.G.:そうだ。なぜなら、それまでたどったバックグランドが違うからだ。バックグランドがその違いの唯一の要因だ。他に何がある。私に起こったことは私のバックグランドにかかっている。どう奮闘したのか。私がたどった道、私が拒んだ他の人の道。その時までに私がしたこと、しなかったことにこのについて話すことはできるが、それは少しも役に立たなかった。

Q: But one like you (I'm sorry to use 'you') is different from us. We re getting involved in our thoughts.
UG: He's different, not only from you but from all the others who are supposed to be in this state, because of his background.
Q: Although everyone who is supposed to have undergone this 'explosion' is unique, in the sense that each one is expressing his own background, there do seem to be some common characteristics.
UG: That is not my concern; it seems to be yours. I never compare myself to somebody else.

問い:でも、あなた("あなた"という言葉を使わせてもらいます)のような人は私たちとは違います。私たちは思考に巻き込まれています。

U.G.:あなただけではない。この状態にあると思われる人たちはすべてあなたとは違う。それはバックグランドゆえだ。

問い:この "爆発" を経験したと思われる人たちはすべてユニークです。それはそれぞれのバックグランドが違うからなのですが、それでも共通の特徴があるように思えます。

U.G:それは私の知ったことではない。それはあなたの関心ごとだ。私は自分を誰かと比べたことなどない。
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And that is all there is to it. My biography is over. There is nothing more to write about, and never will be. If people come and ask me questions, I answer; if they don't, it makes no difference to me. I have not set myself up in the 'holy business' of liberating people. I have no particular message for mankind, except to say that all holy systems for obtaining enlightenment are bunk, and that all talk of arriving at a psychological mutation through awareness is poppycock. Psychological mutation is impossible. The natural state can happen only through biological mutation.

これが起こったことのすべてだ。私の伝記は終わった。もう何も書くことはないし、これからもない。もし人々がやって来て何か尋ねるなら私は答える。もしそうでなくても、私には何の違いもない。私は "神聖ビジネス" を始めて人々を解放しようとは思わない。人類に向けて特別なメッセージはない。ただ言いたいのは、エンライトメントを達成するための聖なる方法はどれもいんちきだということ、そして意識を通して精神の変容を成し遂げるという話はどれもたわ言だということだ。精神の変容は不可能だ。自然な状態は生体の変異によってのみ起こりうる。