2019/12/28

生まれることも死ぬことも時間もない


Birthless Deathless Timeless

知る働きが続いています。
それが、そこここにあることは否定できません。
それは起こっています。
それは、今この瞬間に直接起こっています。

それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのヴァイブレーションです。
ヴァイブレーションに始まりはありますか?

今について話すと、今はいつ始まりましたか?
ピンポイントで始まりを指摘することができますか?
ピンポイントで終わりを指摘することができますか?

それは脈動する鼓動のようなもので、始まりが終わりであり、終りが始まりです。
自然な動きの中で、あなた、私、世界すべてがパターンとなって現れているように見えます。

私たちは、それと何の違いもありません。
それゆえに、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。

運命も自由意志もありません。
誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間でもなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。

2019/12/21

何も起こっていない

非二元の教えでは、「何も起こっていない」という表現をよく使います。
セイラーボブも、「実際には何も起こってないのだよ」と言う時があります。

言おうとしていることは理解できます。
起こっている物事を理由付けして概念化しているのは私たちのマインドであり、私たちが概念化しなかったら、そこでは何が起こっているのかを言うことはできません。

何かが起こっているとも、何も起こっていないとも言うことができません。
また、無から起こってくるものは無であり、何も起こっていないという意味もよくわかります。

でも私はこの「何も起こっていない」という表現が大嫌いです。
なぜなら、人として生まれた以上、人生の中で起こってくる様々な出来事の中にこそ、人として生まれた意味があると思うからです。

人生には様々な出来事が起こってきます。出会い、恋愛、友情、愛情、別れ、成功、挫折。そうしたものごとの中にこそ、生まれてきた意味があり、それこそが「神様がくれた魂の一番おいしいところ」だと思うからです。

非二元の教えは、そうした人生の出来事にあまりにもシリアスに巻き込まれてしまった人には助けになります。挫折、あやまち、後悔を経験した時、「何も起こっていない」という言葉は大いに助けになります。

その一方で、何かを成し遂げようとしたり、幸せを必死でつかもうと努力したりしている人に向かって、「何も起こっていない」と言えば、それは冷笑的で厭世的なものに響きます。実際に非二元のそうしたネガティブな側面を嫌って、非二元を離れる人もいます。

非二元の教えは、あまりにシリアスに問題に巻き込まれた人を開放するために、その対極にある教えだと思います。
私は非二元の教えは真理だと思っています。だからと言って、「何も起こっていない」と言って、現実から目を背けたり、努力をないがしろにしたりする姿勢は、人として生きる美しさを放棄していると思います。

人は悩み、挫折するから進歩があり、努力も成功もあると思います。
私は、この人生も夢なのだということを理解しました。
でも、夢だからと言って「何も起きていない」と、しらけて生きるのでは人として生きている意味がないと思います。

人として生まれた以上、「何も起こっていない」現実の中で、世のため人のために生きようと努め、人を愛し、笑い、スポーツを見て感動し、物語を読んで涙して生きていきたい。
「何も起こっていない」現実の中で、少しでも健康であるように努力し、旅をして人に会い、知らない町を歩きたい。

私は非二元の教えが大好きです。でもそれ以上に、人として「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を味わって生きていきたいと思っています。

ジーロン・メルボルン近郊

2019/12/14

誰に向かって調べるようにと言っているのでしょうか。


Who are we telling to investigate?

偏在、全能、全知と言う時、完全な存在、完全な力、完全な知性のことを言っています。
それは三つのものではなく、一つのものの三つの側面を意味していて、その完全性の他には何もありません。

もしあなたが、それを得ようとしたり、何かを得ようとしたりすると、あなたは、神と私という考えや概念を持つことになります。
そしてもし自分が何かをすれば、一つのものになれるだろうと考えます。

はっきりと明確に言われていることは、非二元の中には二元性はないということです。
それでも私たちは、周りに現れる二元性を見ています。
自然や世界の顕現、そしてあなたの内側、すべては常に二元的に現れています。

夜無くして昼はありません。静寂なくして音はありません。
二元的に現れなければ、何も顕現として現れることはありません。

それは何に現れているのでしょうか。
それは、分離した「私」に現れているのではないですか。
「私」であると信じている分離した存在に現れているのではないですか。
「私」はそれもまた顕現であるということを理解しません。

顕現は、そのように見えているにすぎません。
何がなされるべきでしょうか。
そしてそれができるのは誰でしょうか。

調べてみてください。
あなたは、もうすでにそれなのだというところから始めてください。
それ以外ではありえません。

その観点から調べるというのは、誰に対して調べるようにと言っているのでしょうか。
他の誰かにではありません。

調べることは、自然に努力なく、なされなければなりません。
あたかも太陽が輝くように、地球が太陽の周りを回るように、季節がやってきては去っていくように。すべての顕現が現れるように、それは現れ、起こっています。

それ自身が顕現であるということを再認識する必要があります。
すべてが顕現であり、それ以外のものではありません。
本質(エッセンス)がすべてとなって現れています。

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お知らせ
ミーティングの動画の配信は、ミーティングの参加者が8人以上いないと、配信しないことになったそうです。ミーティングに来ないで動画を見て終わらせる人が増えたのですが、セイラーボブは出来れば直接みんなに来てもらって直に話しかけたいからだそうです。

2019/12/07

セイラーボブの言葉

"We're always trying to become something-to become complete-not realising that we were never separate in the first place."

人はいつも何かになろう、完全なものになろう、とします。最初から完全なものから分離などしていないということを理解しません。