2024/01/30

意識を我々は無視している

学校で教師が黒板に「私」と書き、何が見えるかと生徒に尋ねたとしたら、生徒の大半は「私」という文字が見えますと答えるだろう。「私」という文字が書かれた黒板が見えますと答える生徒はまずいない。一つの文字が注目され、それよりも巨大な黒板が無視されるのとちょうど同じように、あらゆる現象の永遠の背景である<意識>を我々は無視している。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見駅 駅ピアノ

2024/01/26

悟りからは何も得られない

悟りからは何も得られない。なぜなら悟りとは、悟ることのできる自分が存在しておらず、分離の感覚も個人として存在している感覚も幻だったとわかることだから。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見 永保寺 止掛塔(しかとう)とは、掛搭する(修行者の入門を受け入れる)ことが出来ません!ということ。シカトの語源だそうです(ネタ元)。

2024/01/23

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではありません。ましてや覚醒でも目覚めでもありません。彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。この本はそのことを全く平易な言葉でわかりやすく教えてくれています。悟りとはなにか、本当のあなたとは何かを、これほどわかりやすく説明している本はないのではないでしょうか。

本を紹介するために、一部を引用させていただきます。

p24
 あなたはもうすでに向こうにいる。悟り、あるいは自己認識は、少数の選ばれた人のためにあるようなものではない。それはあなたの本質であり、たった今まさにここにあると本書は断言する。最初から読み進めるのがいいとは思うが、本書は悟りを開く方法を段階を追って教えるマニュアルではないし、そのようなものではありえない。それから、これは自己改善や知識の獲得についての本でもない。これは、実際一度も忘れられていなかったことを思い出すという逆説に関する本だ。自分とは本当は誰か、何なのかということがテーマであり、どうあらねばならないか、どうなるべきかを説く本ではない。

p37
悟りは、少数の選ばれた者にしか成就できないような、起こる可能性が低い至難の業ではない。それどころか、悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個人的存在がいるという幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする。それは<純粋意識>として今ここに完全にある。どこか別の場所で、あるいは達成される日が来るまで未来のどこかで待っているわけではない。悟りは時空内の出来事ではない。逆に、時空が<純粋意識>のなかの出来事であって、<純粋意識>はあなた、私、そして存在するすべてとしてそれ自体を絶えず現わしている。それはここに並んでいる言葉であり、これらの言葉を読むことであり、言葉が現れている背景だ。それは入っては出ていくあなたの息であり、心臓の鼓動であり、淹れたての朝のコーヒーの香りであり、歩道に落ちている犬の糞であり、星々であり、惑星であり、そしてすべてが起こっている広大な空間だ。それはこのすべてであり、それと同時にこのすべてを超えている。それはすべてを包含し、知覚し、創造し、破壊する者だ。

p97
 あなたは本当にこの意識なのだ! 本書を通じてここまでずっとそうだったように、これも文字通りに受け取ることを勧めたい。もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない---それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法に惑わされてはならない。あるのはそれでひとつの<自己>であり、それが多として現れているだけだ。それはこの現象を観照し、映し出し、生成し、破壊し、包含し、維持しながら、この現象である何もなさだ。

p191
 悟りとはどのようなものかと質問した人たちが、その返答を聞いてから、「それは単なる言葉、概念です。以前も聞きましたがそれでは足りません。私が知りたいのはそれが実際どんなものなのかということです」と言って答えを退けるのを見たことがある。そのような探求者が待ち望んでいるのは、特別な出来事を通じた確認か、あるいはもしかしたら至高体験んなのかしれないが、そう望むことによって、探している<目覚め>がすでに完全に今あるという認識を先延ばしにしている。彼らが見落としているのは、見るということをしているそれ---すべてに共通しているもの---あらゆる現象を維持しているひとつの普遍のキャンバスが今ここにあるという事実だ。それは見かけ上のあらゆる多様性の土台にある基層だ。

p203 翻訳者(古閑博丈さん)のあとがきより
 英米のネット書店では本書に対する絶賛のレビューが多く投稿され、またセイラー・ボブからは「共鳴と認識の大きな歓び。見事だ!」という賛辞が寄せられている。

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本のタイトルは「夢へと目覚める」というすばらしいタイトルなのですが、目覚めること自体がまた夢なのです。目覚める「私」は実在ではないのですから。

この本には、「純粋意識」という言葉が何回も出てきます。原語は何なのかは確認していませんが、文脈から判断すると、この「純粋意識」というのは、他の非二元の教師たちが、awareness(アウエアネス)、気づき、意識と呼んでいるもののことです。間違えてはいけないのは、それを手に入れなくてはいけないとか、それを体験しなくてはいけないと考えないことです。

この「純粋意識」とは、もともと私たちがそうであるもののことです。もっとわかりやすく言うと、思考(マインド)の背景にある意識のことです。日常の普通の意識のことです。意識に純粋でない意識なんてありません。おそらくレオ・ハートンは思考と明確に区別するために「純粋意識」という表現を使ったのだと思います。

「私はまだそれを体験していない」「私はそれを手入れていない」と言うのは的外れであり、非二元を理解していないということになります。これだけはっきりとレオ・ハートンが書いていても、深読みして、(いや私はまだその状態にはない)(彼らには何か特別なことが起こったはずだ)という人がいるかもしれません。それを手に入れるための覚醒も目覚めも起こりません。もともとそうなのですから。

私たちは、この意識を「私」の意識だと思っています。でも、逆なのです。意識の中に「私」が現れているのです。「私」の意識ではないのです。じゃあ、それは何なのかと聞かれる方は、ぜひこの本を読んでください。

 レオ・ハートンは21歳の時にある種の神秘体験、超越体験、至高体験と呼ばれる状態を経験します。そしてそれを悟りだと思ったそうです。でも、あとになって、それは単なる体験であり、意識の上を流れていく雲のようなものだとわかったそうです(p145)。このあたりのくだりはとても参考になるところです。

この本の中には多くの賢人の言葉が引用されていて、その言葉もすばらしいものばかりです。信心銘、ルーミー、ニサルガダッタなどなど。セイラーボブのミーティングで出てくる話もいくつかありました。また、ボブがミーティングの中でこの本について語ったこともありました。

この本で語られる説明は、私にはものすごく腑に落ちるわかりやすいものでした。読みやすいし、解釈に困るようなところはありません。すばらしい本です。絶賛おすすめします。ぜひ読んでみてください。

Amazonの著者紹介
著者について
レオ・ハートン(Leo Hartong)

1948年、オランダのアムステルダムで貧しい夫婦のもとに生まれる。
自宅で降霊術がおこなわれるなどスピリチュアルな環境で幼少期をすごす。
10代でハシシをおぼえ、問題児として行政の矯正施設に入れられるが、 脱走して路上生活を経験。
結婚し子どもをもうけ、陸路でインドまで旅をするなどの生活を送る。
読書や瞑想を重ね、ウェイン・リカーマンらのミーティングに通ううちに
現実と自己の本質に目覚める。
2018年に膵臓がんのため他界。(参考:古閑博丈さんのブログ

その他
レオ・ハートンでネット上を検索しても、ほとんど情報はありませんでした。YouTubeも一本も見当たりません。本人のサイトも抹消されているようです。古閑博丈さんのあとがきによると、基本的にはサットサンやトークをしていなかったということです。著作は、この本の他に「From Self To Self」があります。

写真(この一枚だけ

2024/01/19

解放とは

解放とは、最終的な正解にたどりつくことでも、素晴らしい解答を覚えることでもありません。解放とは、私たちの苦しみと混乱の根底にある想像上の問題(思い違い)を見抜くことです。どんな答えも、どんな解答も、どこからか拾ってきてそれに固執してしまえば、それがまた新たな問題になってしまいます。
                       ジョーン・トリフソン(つかめないもの

名古屋 ノリタケの森 イオンモール内

2024/01/16

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません。瞑想やサットサンやこのような本や先鋭的な非二元のミーティングに少しでも役に立つ点があるとしたら、それは、何かが欠けているという幻想、時間が存在していてその時間の中で何かを達成することができるという幻想、変容しなければいけない誰かが存在していうという幻想の正体を暴くところにあります。
                        ジョーン・トリフソン(つかめないもの

多治見駅 凧

2024/01/12

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

セイラーボブの教えを理解するために最適な本は、LIVING REALITY(未邦訳)だと思います。そのLIVING REALITYの裏表紙に、三人の非二元の教師が推薦文を書いています。レオ・ハートン、グレッグ・グッド、そしてジョーン・トリフソンです。そのため、この三人はセイラーボブの教えを支持しているか、あるいはまったく同じことを教えていると思われます。

ジョーン・トリフソンはセイラーボブと面識があります。古閑博丈さんのブログで、セイラーボブと会っているくだりがあります。LIVING REALITYの中でも、セイラーボブがアメリカに行ったら再会したいというくだりがあります。

さて、この本の感想ですが、この本はとても読みやすかったです。非二元の本を読んでいると、時々翻訳された日本語の意味がはっきりとわからない時があります。でも、この本にはまったくそれがない。古閑博丈さんのブログや本を読んでいつも思うのは、翻訳からくるストレスがまったくないということ。これは高木悠鼓さんにも言えることで、この二人の翻訳は安心して内容に集中できるのでありがたいと思っています。

本の内容もすばらしいものでした。本の構成は27の表題からなる書下ろしになっていて、それぞれの最初にいろいろな賢人の短い言葉が引用されています。最初の項目「」の頭には、セイラーボブの言葉(生はつねに生を糧にして生きています。生はあらゆるかたち、あらゆる姿をとって現れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。)があって、嬉しく思いました。セイラーボブの言葉はその一回だけで、あとはブッダやラマナ・マハリシなど様々な人の言葉が掲載されています。賢人たちの言葉もすばらしいのですが、書下ろしの内容もすばらしいものです。

本の紹介のために何か所か抜粋させていただきます。

P50から
 いわゆるスピリチュアルな覚醒の旅は、どこか別の場所にたどり着くこととも、新しい何かを手に入れることとも関係ありません。それはもっとも明白はことを認識するということであり、また、自分のまさに目の前にあってもっとも親密で呼吸よりも近く本当の意味では避けることも見落とすこともできない何かを見かけの上で覆い隠している誤った観念や蜃気楼のような空想の正体を見抜く(またはそこから目覚める)ということです。
 覚醒や悟りという言葉を耳にすると、私たちはよく、砂の上に引かれた魔法の線を「私」が未来のいつかに飛び越えて「覚者」となり、ある種の完璧な(そしてもし可能であれば永久に心地良い)境地に永遠に定着できるのではないかといった想像をします。それはおとぎ話であり、幻想です。そういう考えかたから目を覚ますことこそが、覚醒です。

P55から
 「自己がない」というのは、「あなた」がこれまで経験したことがないような魅惑的で神秘的な経験のことではありません。
 成長の過程で、今ここにいて気づいているという否定しようがない感覚が、一つの心身の内側にいる分離した個別の人間だという観念と混ざってしまいます。私たちが毎瞬、実際に経験していることーー境界なしにあるということーーが、主体と客体、自己と他者とに概念の上で分割されます。蜃気楼のような分離した「自分」、空想上の客体が、<究極の主体>(あらゆるものとしてありながらあらゆるものを見守り、位置を持たず、気づきながら今にあるということ)と取り違えられてしまうのです。目が覚めているときの生という映画は、ひとりひとりが別々のものを観ているように感じられます。そのため、私たちのそれぞれが意識の分離して独立した単位(心)であって、他とは切り離された体の内側に閉じ込められているその個人が、「外側」にある客観的な物質世界、人によってさまざまに違って見える世界を見ているのだと考えます。
 けれども、世界は「外側」にあるでしょうか? そして「内側」に意識の分離した単位(心)があるのでしょうか? あなたが私の映画に現れていて、私があなたの映画に現れているとしたら、この見かけ上では別々の映画は、ひとつひとつの宝石が他のすべての宝石の姿を映している<インドラの綱>の宝石のようなもの、もしくはどんな小さな部分も全体を包含しているホログラムのようなものだということはありえないでしょうか?

p214から
 瞑想などのスピリチュアルな実践をはじめたばかりだったり、先鋭的な非二元のミーティングや本に接しはじめたばかりだったりする人たちは、これは自己を向上させてどこかにたどり着くという話なのだとたいていは思い込みます。道なき道(直接の道)とは、じつはそうした考えの本質を見抜くことにほかなりません。それは究極的には、宇宙の他の部分から切り離された「自己」はここにはいないという発見です。明晰さと混乱のあいだ、「わかる」と「わからなくなる」のあいだ、境界のない気づきとの一体化と一人の個人との同一化のあいだ、そうした両極のあいだを行ったり来たりしている「私」はいません。「スピリチュアリティ」と「それ以外の生」のあいだの境界は、実際には存在しません。あるのは、今あるとおりの<ここ・今>という境界のない直接性だけです。
 どんな境地も経験も、やって来ては消えていきます。非二元の絶対は経験ではありませんし、永久にせよ一時的にせよ「人」が至る境地でもありません。「人」というのは、非二元的な無境界性の内側で現れて消えていく一時的な見かけです。

非二元の本というのはどれも、一種のパラドックスになっていると思います。たいていの人は、非二元の教師たちは、私たちとは違う意識の状態にあると思っていて、自分もそうなりたいと思って本を読みます。

自分も悟りを手に入れたい。エンライトメントしたい。一瞥体験をしたい。彼らのように理解を手に入れたい。特別な理解が起こるはずだ。でも、最後まで読んでも何も起こりません。何も起こらないばかりか、彼らが何のことを言っているのかよくわからないまま終わってしまいます。すると、(ああ、やっぱり私はまだエンライトメントしていないから理解できないのだ)となって、また別の本を読むことになります。

非二元の本を正しく理解するためには、彼らは私たちと何も違わない普通の人だということを前提に読むことです。彼らに何かが起こって、特別な意識の状態になったに違いないという誤った思い込みをなくして読むことです。もし、彼らが私たちと同じ普通の意識の状態にあるのなら、一体何のことを話しているんだろうという視点に立つと、彼らの話している内容に注意が向かい、自分にも理解できることだという目で読むことになります。そうすると、彼らの話していることは何も特別難しいことではなくなります。

私はセイラーボブに会う前に「ただそれだけ」を7回読みましたが、何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも、教えを理解した後では、これほどわかりやすい本はないと思っています。他の非二元の教師の本も同じです。彼らが特別な意識の人だという思い込みを捨ててしまえば、やがては「わかっちゃった人たち」の仲間入りです。

何がわかるかというと、それは説明できません。それは「つかめないもの」だからです。ジョーン・トリフソンはこの本の中で、最初から最後まで繰り返し「つかめない」ものを説明してくれていますが、私たちがそれをつかむことはできません。

非二元の教えを理解していない人がこの本を読むと、繰り返し繰り返し「つかめないもの」のことが書いてあって、あ~、わからんとイライラするかもしれません。でも、私にとってはこの繰り返しがとても心地よくて、(そうそう、そうそう)と最後まで楽しく読むことができました。ジョーン・トリフソンはセイラーボブと同じ香りがします。偉ぶったところや気取ったところがなく、普通の人感満載です。また一人好きな教師が増えました。

ジョーン・トリフソンについて
1948年 米生まれ 女性 75歳。

Amazonの著者紹介より
ジョーン・トリフソン Joan Tollifson
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。

本の最後の訳者のあとがきにジョーン・トリフソンの詳しい経歴などが書いてありますが、それを勝手に要約して書いてもしかられるので、掲載を控えさせていただきます。古閑さんのブログに短い略歴が掲載されていますので、そちらを参考にしてください。英語版のWikipediaには名前がありませんでした。ジョーン・トリフソンのサイトに自己紹介がありますので、リンクしておきます。

ジョーン・トリフソンのYouTubeチャンネルは見当たりませんでしたが、YouTubeでJoan Tollifsonを検索するとたくさんの動画が出てきます。どんな人か。比較的再生回数の多いものを一つ掲載しておきます。




2024/01/09

直接の体験をよく見てみること

つまり、人生を本当に理解するただひとつの道は、自分が生きている直接の体験をよく見てみることだけなのです。
                         ティモシー・フリーク(気づきの扉

我が家のさざんか

2024/01/05

「気づきの扉」ティモシー・フリーク

気づきの扉

とてもわかりやすい本です。理解できないような言葉は出てきません。易しい言葉で書かれていて、100ページに満たない本なので、一時間もあれば読めてしまいます。
七つの洞察を提示していき、それが本当なのかどうかを自分で考えていく体裁の本になっています。内容は、非二元のことを学んできた人なら全部知っていることです。それでいて陳腐な感じがしません。あらためて気づかせてくれることがたくさんあります。

p45
この、身体でも心でもない、謎めいた「私」とはいったい何なのでしょうか?
それは、身体や心を見つめている意識です。

「意識」という言葉がシンプルに使ってあるのをとてもうれしく思いました。わかりやすい本です。

Amazonのサイトから
著者について
ティモシー・フリーク 哲学者、思想家。キリスト教のグノーシス思想を研究した『THE JESUS MYSTERIES』(原題)が英国、米国でベストセラーになったほか、世界の宗教、神秘思想を幅広く研究した著書多数。またBBCやヒストリー・チャンネルなどのドキュメンタリー番組にもしばしば登場し、『ミステリー・エクスペリエンス』と題したワークショップも人気がある。旅をしながら人々の意識を変えていく「スピリチュアル・エンタテイナー」だった古代の哲学者にならい、自らを「スタンドアップ哲学者」と呼ぶ。英国南部グラストンベリー在住。

the urban guru cafeでティモシー・フリークを取り上げているので、この本を買いました。

ティモシー・フリークには日本語版の公式オフィシャルサイトがあります。詳しい情報はそちらで読んでください。




2024/01/02

悟りとは

悟りとは、自分は個人ではないという絶対的な理解です。
                     フランシス・ルシール(今、永遠であること

多治見市 永保寺