昨年10月にカリヤニと話をしてから、セイラーボブ以外の非二元の教師の本も読んでみようと思い、何冊かの本をまとめ買いしました。途中、さらに読みたくなって二冊追加。全部の本の感想をブログに書き終えたので、そのまとめを書きます。
取り上げた本(バイロン・ケイティは非二元の教師ではないのでここでは載せません)
「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーン
「プレゼンス 1・プレゼンス2」 ルパート・スパイラ
「生まれながらの自由」 ジャック・オキーフ
「今、永遠であること」 フランシス・ルシール
「気づきの扉」 ティモシー・フリーク
「つかめないもの」 ジョーン・トリフソン
「夢へと目覚める」 レオ・ハートン
「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド
「すでに目覚めている」 ネイサン・ギル
「何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて」 トニー・パーソンズ
「もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める」 ジェフ・フォスター
「どの本が良かったの?」という質問が届きそうなので、書いておきます。選定基準は、読みやすく・わかりやすく・読んで楽しかったもので選びました。
この四冊がとても良かったです。
私が非二元を学んだのはセイラーボブからです。その影響で私は、細かく説明するのではなく、断定的に、「あなたは思考でも身体でもない。あなたは意識だ。以上終わり」というタイプの教師が好きです。この四冊は語り口がボブに似ていて、とてもわかりやすかった。
ここに掲載した非二元の教師たちは何を言っているのか、その共通点は何なのか。まず第一に、ここに掲載した教師たちのうち誰一人として、「私はエンライトメントした」あるいは、「私は覚醒した」と言っている人はいません。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって至福に包まれたとか、光に包まれる体験が起こって意識に変容が起こり、もう悩みが起きない、といったたぐいの体験のことです。
つまり、彼らの教えていることは、エンライトメントや覚醒ではないということです。本の中では、「覚醒」、「目覚め」という言葉が出てくるものもありますが、それはあくまでも「理解した」「気づいた」「実感した」という意味であり、原語としては awake もしくは awakening のはずです。多くの人が、非二元の教師たちは覚醒した人たちであり、私たちとは違う意識の状態にあると思っています。でも、そうではないのです。彼らも私たちと何も変わらない普通の意識の人たちです。
非二元の教えを理解したら、意識の変容が起こるとか、特別な体験をするということはありません。なぜなら、彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。もし彼らが私たちとは違う覚醒した人たちだという先入観を抱いて彼らの本を読むと、彼らの言う事がさっぱり理解できなくなります。なぜなら、本の中には探しているようなエンライトメントや覚醒はないからです。
また、一瞥体験について語っている教師もほとんどいません。例外的にネイサン・ギルは一瞥体験について語っていますが、あとになって、それは非二元とは関係ないと否定しています。時々、一瞥体験について語っている人を本やブログで見かけますが、私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。「私はそこにいなかった」というのが一瞥体験の常套句ですが、ではどうしてそこに私はいなかったことを覚えているのですか? もし私がいなかったのなら、私がいないのを覚えているのは誰なのですか?
彼らが教えているのは何なのか。それは本質としての「私」のこと。彼らはそれを様々な言葉で形容します。意識、純粋意識、アウエアネス、空間、生、気づき、真我、それ。教師によってまちまちですが、みんな同じもののことを指しています。そして、本質としての「私」は思考でも身体でもないというのが非二元の教えの核です。
何人かの教師は、意識と純粋意識を分けています。思考や五感などを意識と言い、その背後にあるものを純粋意識と言っています。純粋意識とは、夢さえ見ないような深い眠りの状態にあるような意識のことだという人もいます。深い眠りの意識の状態を、眠りから覚めて思い出すことができないように、私たちはその純粋意識を認識することはできないと言います。
でも、私はこの純粋意識と意識という区分けが好きではありません。セイラーボブのように、そんな区分けをせずに、意識とだけ言う教師もいます。私にはそっちの方がわかりやすい。単純に思考の背後にある意識でいいと思います。でも、その意識とは何なのかと聞かれても説明できる人はいないのではないでしょうか。
それぞれの教師は、それが何なのかを本の中で説明しようとします。あなたはもともとそれであるというのがほとんどの教師の語るところですが、それを理解する方法については、教師によってまちまちです。エクササイズ・実験を使う人、問いかけをする人、対話形式の人。説明だけの人。
そして、その理解の起こり方の説明は教師によってまちまちです。あなたはもともとそれだ、以上終わり、という教師もいれば、それは簡単なことではない、時間はかかる、という教師もいます。私は前者のタイプの教師が好きです。でも、それは個人の好みの問題だと思います。私の場合、「言っていることはわかるけど、確信がない」という状態が長く続いて、ある時絶対的な確信が起こったので、どちらかといえば後者のような理解の仕方だったかもしれません。
そして、非二元の教えを理解すると、どんな良いことがあるのか。彼らがアウエアネス・意識・気づき・空間と呼ぶものを至福と表現する人もいれば、愛と言う人もいます。気楽になるという人もいます。それはそれぞれ個人が自分で体験して感じるものだと思います。そして非二元の教師たちが最終的に目指すところは、人々を精神的な苦悩から解放することです。苦しみや悩みは思考の産物にすぎず、実体のないものであるということを心底理解することこそが、彼らが教えていることではないでしょうか。
私は「エンライトメントある派」の教師を支持しません。もともと私が取り上げた教師たちはギルバートのサイト(
The Urban Guru Cafe)からリストアップした人を、
古閑博丈さんのブログ、
高木悠鼓さんのブログを参考にして、日本語で読める本を選んで買ったものです。ギルバートは非二元をよく理解しているし、非二元の教師たちの良し悪しにも精通しています。その多くには実際にインタビューをしています。私が取り上げた非二元の教師たちは、みな信頼に足る教師たちです。非二元関連の本は、残念ながらその多くがすぐに絶版になってしまいます。なるべく上質な教師の本に触れておきたいものです。