2025/11/28

スピリチュアルの教師:最後の失望  ルパート・スパイラ

Spiritual Teacher: The Final Disappointment  Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説(Google翻訳)

人生において、あらゆることが私たちを失望させ、裏切った時、私たちはしばしば、スピリチュアルの教師が最後には私たちの望むものを与えてくれると期待しますが、結局また失望させられるのです。では、私たちは誰を本当に信頼し、頼ることができるのでしょうか?

ルパートは言います。「良い教師は、私たちにとって最後の失望となるべきです。ですから、教師や教えに失望したとしても、それは良い兆候です。理解が深まった証拠です。自分が心を捧げてきたものに失望させられ、以前頼っていた教えの力がもう失われていると感じるのは、辛いことです。

「でも、それは良いことです。なぜなら、あなたは自分自身をより深く掘り下げなければならないからです。教師や教えに頼るべきではありません。結局のところ、あなたは自分自身、自分自身の存在だけに頼るべきです。でも、私はいつもあなたの友人としてここにいます。それは奪われることはありません。愛は奪われることはありません。」

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セイラーボブも、覚醒(エンライトメント)などないと言って私を失望させました。おまけにミーティングの最初にボブは必ず、私は何も教えないし、教えるものは何もないと言って、ミーティングを始めました。

師を求めて訪ねて行っても、師は覚醒した人ではなく、何も教えることはできません。自分で調べるしかないのです。本当の道は教師に失望したところから始まります。教師を信奉して、私も覚醒したいと迷走(瞑想ではなく)していた昔がなつかしいです。ルパートは偉ぶるわけでもカリスマ性をまとうわけでもなく、普通の人として語りかけてくれます。こういう態度こそが本物の教師ですね。

2025/11/26

あなたは純粋な意識、純粋な知性エネルギー、他には何もない一つのものなのです

ボブ:あなたは自分が存在していることを知っていますね。

質問者:自分が存在していることを理解することと、非二元性を理解することは、同じことなのでしょうか?

ボブ:はい。理解こそがすべてです。ニサルガダッタは「理解こそがすべてだ」と言いました。パタンジャリは聖典の中で「正しい理解こそがすべてだ」と言っています。

質問者:そこで、「何を理解すべきか?」ということになります。

ボブ:あなたは肉体でもマインドでもありません。あなたは純粋な意識、純粋な知性エネルギー、他には何もない一つのものなのです。

2025/11/24

教えられない教え ルパート・スパイラ

The Teaching That Cannot Be Taught   Rupert Spira
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YouTubeの解説(Google翻訳)

逆説的な精神的教え、すなわちアジャーティヴァーダ(何も存在しない、あるいは存在しているように見えることさえないという主張)とヴィヴァルタヴァーダ(少なくとも世界は存在しているように見えることを認めている)を、私たちはどのように理解できるでしょうか?

ルパートはこう言います。「アジャーティヴァーダは絶対的に真実ですが、それに基づいた教えはあり得ません。あなたはどうお考えですか?たとえこの分野においてさえ、世界も心も苦しみもないと言うのは失礼でしょう。ですから、すべての教えはアジャーティヴァーダから一歩下がり、ヴィヴァルタヴァーダの観点、つまり現象の観点に立って語るのです。そして、それは当然のことです。」

「しかし同時に、私たちは特異な集団です。私たちは真実を知りたいと願い、山の頂上まで行くことを恐れません。ですから、たとえ自分の経験と合致させられなくても、現実の観点から見れば、世界も心も苦しみもないことを理解しているのです。」しかし、それは虚無主義的な哲学ではありません。私たちの日常生活や、私たちが感じている現実、苦しみ、悲しみ、喜びを否定するものではありません。」

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質問者は深いレベルで無限の意識(ここではボブのいうアウエアネスのことをそう表現している)とつながることができないが、どうしたらいいのかと尋ねます。それに対してスパイラは、例えばコップを見る場合、コップと距離を置いて私という主体がなければコップを見ることができない。物を見るには主体と客体の関係が必要だと説明します。

目は目を見ることができません。そこには主体と客体という関係が成り立たないからです。無限の意識は無限の意識を離れて無限の意識を見ることはできません。そこには客体となるいかなる点も場所もないからです。無限の意識は無限の意識のことしか知らず、それ以外のことは何も知りません。

私たちが無限の意識を知ろうとしても、無限の意識には客体になるような点がなく無限のものなので客体にはなりえない。そのためそれを客体として知ることはできない。私たちが唯一できることは、意識に気づいているという事実だけ。

この話はとっても難しい話でした。