『悟りの神秘(THE MYSTIQUE OF ENLIGHTENMENT)』
第一部
U.G.
(1973年から1976年にかけて、インドおよびスイスで行われた対話より編纂)
人々は私のことを「悟った男」と呼ぶ――私はその言葉が大嫌いだ――彼らは私が機能しているそのあり様を説明するのに、他に言葉を見つけられないのだ。同時に、私は「悟り」などというものは一切存在しないのだと指摘している。私がそう言うのは、自分自身が生涯をかけて悟った男になろうと探し求め、渇望した結果、悟りなどというものは存在しないと発見したからだ。したがって、特定の人物が悟っているか否かという問い自体が発生しない。紀元前6世紀のブッダなど知ったことではないし、ましてや私たちの只中に溢れている他のあらゆる「悟りを主張する者たち」など尚更だ。奴らは人々の騙されやすさにつけ込んで肥え太る搾取者の群れに過ぎない。人間の外部に力など存在しない。人間は恐怖から神を創造したのだ。だから問題は恐怖であって、神ではないのだ。
私は自分自身で、そしてただ一人で、悟るべき「自己(セルフ)」など存在しないということを発見した――私が言っているのはその「覚悟(悟り)」のことだ。それは打ちのメスを与えるかのようにやってくる。雷に打たれたかのようにあなたを直撃する。あなたは自己実現というたった一つの籠にすべてを投資してきたのに、最後に突然、発見すべき自己も、悟るべき自己も存在しないことに気づくのだ――そして心の中で「俺は一体全体、今まで人生で何をやっていたんだ?!」と叫ぶ。それがあなたを打ち砕くのだ。
あらゆる種類のことが私に起こった――私はそれを通過したのだ、お分かりだろう。その肉体的な痛みは耐え難いものだった――だからこそ、あなた方は本当はこんなものを望んではいないのだと私は言っているのだ。もし私があなた方にその一瞥でも、その感触のほんの一部でも与えられるなら――あなた方はこんなものに一切触れたいとは思わなくなるだろう。あなた方が追い求めているものは存在しない。それは神話なのだ。あなた方はこれと関わりたいとは全く思わなくなるはずだ。
UG:いいかね、私はこう主張する――何と呼べばいいのか分からないが、「悟り」「自由」「モークシャ(解脱)」「解放」といった言葉を私は使いたくない。これらの言葉はすべてドグマ的な意味合いを帯びており、独自のニュアンスを持っている――これはあなた方のいかなる努力によってももたらされるものではない。それはただ生じるのだ。そしてなぜそれが一人の個人に生じ、他の者には生じないのか、私には分からない。
質問者:では、それはあなたに生じたのですね?
UG:私に生じたのだ。
質問者:いつのことですか?
UG:49歳の時だ。
しかし、あなた方が追及しているもの――真理や現実の探求や追求――に向かって行うあらゆる営みは、あなた方が常に存在している、まさにあなた方自身の「自然な状態」からあなた方を遠ざけてしまうのだ。それはあなた方の努力の結果として獲得したり、到達したり、成就したりできるものではない――だからこそ私は「無因(acausal)」という言葉を使うのだ。それには原因はないが、どういうわけか探求は終わりを迎える。
質問者:あなたとしては、それは探求の結果ではないとお考えですか? あなたが哲学を学び、宗教的な人々に関わっていたとお聞きしたものですから……
UG:いいかね、探求はあなたをあなた自身から遠ざける――それは正反対の方向に向かっているのだ――それには絶対的に何の関連性もない。
質問者:それにもかかわらず、それが生じたのであって、それがあったから生じたのではない、と?
UG:それにもかかわらず――そうだ、まさにその言葉通りだ。あなたが行うあらゆることは、すでにそこにあるものがそれ自体を表現することを不可能にしてしまう。だからこそ私はこれを「あなたの自然な状態」と呼ぶのだ。あなたは常にその状態にある。そこにあるものがそれ自身のやり方で表現されるのを妨げているものこそが、探求なのだ。探求は常に間違った方向を向いている。だから、あなたが非常に深遠だとみなすあらゆるもの、神聖だとみなすあらゆるものは、その意識における汚染なのだ。あなたは(笑う)「汚染」という言葉が気に入らないかもしれないが、あなたが神聖で、聖なるもので、深遠だとみなすあらゆるものは汚染なのだ。
だから、あなたにできることなど何もない。それはあなたの手には負えないのだ。私は「恩寵」という言葉を使いたくない。なぜなら「恩寵」という言葉を使えば、「誰の恩寵か?」ということになるからだ。あなたは特別に選ばれた個人などではない。なぜあなたがこれに値するのか、私には分からない。
もし可能なら、私は誰かを助けることができるだろう。しかしこれは私が与えることのできないものだ。なぜなら、あなたはすでにそれを持っているからだ。なぜ私がそれをあなたに与えなければならないのか? すでに持っているものを求めるなど愚かなことだ。
質問者:しかし、私にはそれを感じられませんが、あなたには感じられています。
UG:いや、それを感じる感じないの問題ではないし、それを知る知らないの問題でもない。あなたは決して知ることはない。あなた自身がそれを知る術など全くないのだ。それはそれ自体を表現し始めるのだ。意識的な……いいかね、どう表現すればいいのか分からない。自分が他の誰かと異なっているという考えが、私の意識にのぼることは一度もないのだ。
質問者:ご自身を意識されるようになって以来、最初からそうだったのですか?
UG:いや、そうとは言えない。私は何かを追い求めていた――宗教的な雰囲気の中で育った他の誰とも同じように――何かを探求し、何かを追求していた。だから、その質問に答えるのは容易ではない。私のバックグラウンド全体に踏み込まなければならないからだ。たぶんそれは訪れる、分からないがね。(笑う)
質問者:単なる好奇心からですが、ナチケータのように、私個人としてこれらのことがあなたにどのように生じたのか、あなたが認識されている範囲でとても興味があります。
UG:いいかね、それは長い話だ。そう単純なものではない。
質問者:ぜひお聞きしたいです。
UG:いや、いいかね、私の人生全体について話さなければならなくなる――かなり時間がかかるよ。私の人生の物語はある時点まで続いて、そこで止まるのだ――それ以降の伝記は存在しない。
私の伝記を書くことに興味を持っている二人の伝記作家は、それぞれ異なるアプローチをとっている。一人は、私が行ったこと――サードナ(精神的修練)、教育、あらゆるバックグラウンド――が私をそこに導いたと言う。私はそれらすべて「にもかかわらず」そうなのだと言うのだがね。(笑い) もう一人の伝記作家は、私の「にもかかわらず」という発言にはあまり興味がない。分厚い本を一冊書くほどの材料にならないからだ。(笑い) 彼らはもっとそちら(原因と結果)に興味があるのだ。出版社もそういった種類のことに興味がある。それは極めて自然なことだ。なぜならあなた方は因果関係が常に作用する領域で機能しているからであり、だからこそ原因を、いかにしてこのようなことが生じたのかを突き止めようとする。だから私たちは振り出しに戻るわけだ、一歩も進んでいない。私たちは相変わらず「いかにして」に関心を持っている。
私のバックグラウンドなど無価値だ。誰のモデルにもなり得ない。なぜならあなたのバックグラウンドは唯一無二だからだ。あなたの人生のすべての出来事は、それ自体でユニークなものだ。あなたの条件、あなたの環境、あなたのバックグラウンド――すべてが異なる。あなたの人生のすべての出来事が異なるのだ。
質問者:私は世界に残すためのモデルを求めているわけではありません――そういう観点から聞いているのではないのです。私たちは星を見、太陽を見、月を見ます――それと同じようなことです。あなたを模倣したいわけではありません。関連があるかもしれないでしょう、誰に分かりますか? だからこそ私はここでナチケータだと言ったのです。あなたから真実を知らずに去りたくはありません。
UG:あなたの質問に答えるにはヤマ・ダルマラージャ(閻魔大王)が必要だな。
質問者:差し支えなければ、あなたがヤマ・ダルマラージャになってください。
UG:構わないよ。手伝ってくれ。いいかね、私は無力で、どこから始めればいいのか分からないのだ。どこで終わるかは知っているがね。(笑い) 私の人生の物語全体を話さなければならないようだな。
質問者:喜んで伺います。
UG:浮かんえこないのだ。
質問者:インスピレーションが必要ですね。
UG:私にはインスピレーションなどないし、誰かを触発するような人間からは程遠い。あなたの好奇心を満足させるために、私の人生のもう一面、くだらない一面を話さなければならないだろうな。
(彼は1918年7月9日、南インドの上流中産階級のバラモン家系に生まれた。家名がウッパルーリであったため、ウッパルーリ・ゴーパーラ・クリシュナムルティと名付けられた。母は彼の生後間もなく亡くなり、彼はマスリパタム近くのグディヴァダという小さな町で母方の祖父母によって育てられた。)
私は非常に宗教的な雰囲気の中で育った。祖父はとても教養のある人物だった。彼はブラヴァツキー(神智学協会の設立者)やオルコットを知っており、その後、第二、第三世代の神智学派の人々とも交流があった。彼らは皆、私たちの家を訪れたものだ。祖父は偉大な弁護士で、非常に裕福で、極めて教養があり、そして非常に奇妙なことに、極めて厳格な正統派の信者だった。彼はある種のごちゃ混ぜの子供のようなものだった。一方では正統派の伝統があり、もう一方ではその対極にある神智学やそういったもの全体があった。彼はバランスを取ることができなかったのだ。それが私の問題の始まりだった。
(UGは生前、母親が亡くなる直前に「この子は計り知れないほど高い運命のもとに生まれた」と言っていたとよく聞かされていた。祖父はこの言葉を非常に重く受け止め、弁護士業を辞めてUGの養育と教育に献身した。祖父母とその友人たちは、彼が前世で悟りの寸前まで達した「ヨーガ・ブラシュタ(挫折した修道者)」であると確信していた。)
祖父は学者たちにお金を払って雇っており、ある理由から――その話全体には深入りしたくないが――私に深遠な雰囲気を作り出し、神智学派やその一味に影響を受けて私を正しい方法で教育することに没頭していた。そのため、毎朝それらの連中がやってきて、ウパニシャッド、パンチャダシー、ナイシュカルミヤ・シッディ、その注釈書、注釈書の注釈書、そういったもの全体を朝の4時から6時まで読み上げ、5歳か6歳か7歳かのこの幼い少年――私だが――はそのようなデタラメをすべて聴かされなければならなかったのだ。あまりにもひどかったので、7歳になる頃にはパンチャダシーやナイシュカルミヤ・シッディ、あれこれの一節など、そういったもののほとんどを暗誦できるようになっていた。非常に多くの聖者が我が家を訪れた――ラーマクリシュナ修道会やその他の人々だ。名を挙げれば、そうした連中はなんとかしてあの家を訪れていたものだ――あらゆる聖者に開かれた家だったのだ。だから、私がごく若い頃に発見したことの一つは、彼らが皆ヒポクリット(偽善者)だということだった。彼らは口では何かを言い、何かを信じていたが、彼らの生活は浅薄で、無内容だった。それが私の探求の始まりだった。
祖父はよく瞑想をしていた。(彼はもう亡くなっているし、彼の悪口は言いたくないのだが。) 彼は専用の瞑想室で1時間か2時間瞑想していたものだ。ある日、1歳半か2歳くらいの幼い赤ん坊が、何かの理由で泣き出した。すると例の男が降りてきて、その子を殴り始めたのだ。子供の顔色は青ざめるほどだった――毎日2時間瞑想しているこの男が、だ。「見ろ! 一体全体この男は何をしたんだ?」 それはある種の(心理学用語は使いたくないが、避けようがない)トラウマ的な体験を突きつけた――「瞑想という営み全体には、何かおかしいところがあるに違いない。彼らの生活は浅薄で、空虚だ。彼らは素晴らしく語り、実に美しい方法で物事を表現するが、彼らの生活はどうなのだ? 彼らの生活にはこの神経症的な恐怖がある。何かを口にしながら、それが生活の中で機能していない。彼らのどこがおかしいのだろう?」――私がそうした人々を裁判官のように裁いたというわけではない。
物事は延々と続き、私はこれらのことに深く巻き込まれていった――「彼らが掲げているもの――ブッダ、イエス、偉大な師たち――に何か価値があるのだろうか? みんながモークシャ、解脱、自由について語っている。それは一体何なのだ? 自分自身で確かめたい。こいつらは皆役に立たない連中だが、それでもこの世界には、そうしたすべての体現者であり使徒であるような人物が一人くらいはいるはずだ。もし一人でもいるなら、自分自身で突き止めたい。」
それから非常に多くのことが起こった。当時はシヴァーナンダ・サラスワティという男がいた――彼はヒンドゥー教の伝道者だった。14歳から21歳の間(無駄な出来事は大幅に省くが)、私はよくそこへ行って彼に何度も会い、あらゆること、あらゆる苦行を行った。私はとても若かったが、モークシャなどというものが存在するかどうかを絶対に突き止めてやると決意していたし、そのモークシャを自分自身のために欲していた。そのような人々に偽善などあり得ないのだと、自分自身にもあらゆる人にも証明したかった――「こいつらはみんな偽善者だ」――だから私はヨーガを実践し、瞑想を実践し、あらゆるものを学んだ。私は本に書かれているあらゆる種類の体験――サマーディ、スーパー・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ、すべてを体験した。そして私は自分に言ったのだ。「思考は望むあらゆる体験を作り出すことができる――至福、聖福、エクスタシー、無への融解――それらすべての体験をだ。だから、これは本物であるはずがない。なぜなら機械的にこれらのことをやっている私は同じ人間のままだからだ。瞑想など私には何の価値もない。これは私をどこへも導いてくれない。」
それから、いいかね、若い人間の少年だった私にとって、性が途方もない問題になった――「これは自然なことであり、生物学的なことであり、人間の身体における衝動だ。なぜこの人々は皆、何か別のものを得るために、この性を否定し、ごく自然なもの、全体の一部であるものを抑圧しようとするのか? これは私にとってモークシャや解脱やそういったすべてのものよりもリアルで、重要だ。これは現実なのだ――私は神々や女神たちのことを思い浮かべ、夢精をする――私にはそういうことがある。なぜ罪悪感を抱かなければならないのか? それは自然なことだ。このようなことが起こるのを私にはコントロールできない。瞑想も役に立たなかった、勉強も役に立たなかった、私の規律も役に立たなかった。私は塩一つ口にせず、唐辛子もスパイスも一切口にしなかった。」 するとある日、私はこのシヴァーナンダという男が密室でマンゴーのピクルスを食べているのを見つけたのだ――「ここに、何かを得られるという希望のために自分からすべてを拒んできた男がいるが、その奴自身が自分をコントロールできていない。彼は偽善者だ」――彼の悪口を言いたいわけではないが――「こんな生き方は私のものではない。」