2025/12/02

私は教師ではなく、アーティスト ルパート・スパイラ

I’m an Artist, Not a Teacher  Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説(自動翻訳)

ダイレクトパスにおいて、「スピリチュアル・ティーチャー」の役割は依然として重要なのでしょうか?人は、真の自己を認識することで人生が改善されるかどうかを知りたがります。では、非二元的な理解によって影響を受けていないように見える人生の側面はどうでしょうか?

ルパートは言います。「はい、人生が改善されることは期待できます。通常はまず内面的な面で、平穏や充実感といった面で変化が現れ、やがて、私たちの世界に対する経験もこの新しい理解を反映します。しかし、これには通常、より長い時間がかかります。」

「私も同じです。私の経験のあらゆる側面がこの理解と100%一致しているとは言えません。私にも盲点があり、自分が完璧であるかのように装わないことが重要だと思います。」

「しかし、教師であることに伴う完璧さの投影に惑わされないことが重要だと感じているだけでなく、教師であることの投影さえも信じていません。」自分を先生だとか、あなたを生徒だとか思うのは傲慢でしょう。私はむしろ、真実への理解と愛を分かち合うアーティストです。ただそれだけです。先生と生徒の関係なんて、余計な負担です。ここで私たちがやっていることは、全く必要ありません。

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質問者は自己の本質を理解すると、自分の人生が変わると期待していいのか?と尋ねます。それに対してルパートは、まず内側が変わり、平安がやってきて、人の発言で傷ついたりすることが減っていくと言います。そして外側も変わっていき、対人関係や周りの状況が変わっていくが、それには時間がかかると答えます。

その変化は、ある日突然起きるのではなく、長い時間をかけて自分でも気づかないうちに少しづつ起こる。それはあとで振り返って気づくと変わっていたというように起こる。しかもそのプロセスは終わりがなく、ある意味一生続くと言います。

そしてすべてが完璧になるわけではなく、ルパート自身にも理解の及んでいかない領域(自動翻訳では盲点と訳されている)があると言います。(繰り返し繰り返し同じような問題や悩みが起こってくる領域があるという意味だと思います)。

そしてルパートは「私には何も教えるものがない」と言い、私とあなたたちの関係は教師と生徒でなく、友人であり、考えをシェアしているだけだと言います。あたかもアーティストが聴衆と音楽をシェアするように。

この話はとても意義深いものだと思います。多くの人は非二元を理解したら、ある日突然悩みから解放されてスッキリするだろうと思っていますが、そんなことは起きない。理解が浸透して少しづつ変わっていくが、その過程には終わりがなく、体とマインドがある以上は完璧にはなりえないと教えています。

インターネットの発達に伴い、多くの人が短絡的になっている気がします。非二元の本を数冊読んで非二元を理解したい、誰かのブログを読んで手っ取り早く非二元を理解したい、セミナー、リトリートに参加すればすぐに非二元が理解できて悩みも消えるだろう、と考えます。

でも、本当の理解はそんなに簡単に起きるものではなく、あれこれと自分で試してみてやっと起こる。運よく理解したとしても、それが浸透して内側と外側が変わっていくのはルパートが言うように長い時間のかかることだと思います。多くのマスターは完璧を演じようと努めますが、ルパートにはそんなところは微塵もなく、私も完璧じゃないよ、というルパートの正直な態度が好きです。

2025/11/30

意識(アウエアネス)は常にそこにあります

ボブ:意識(アウエアネス)は常にそこにあります。

質問者:深い眠りの中でもですか?

ボブ:意識が生のエッセンスとして働く時、生のエッセンスは確かにそこにあります。深い眠り、麻酔状態、あるいは無意識の状態でも、心臓は鼓動し、体は呼吸を続け、生は続いています。マインドは活動を停止している、それだけです。
そして、精子と卵子という二つの微小な粒子も知性エネルギー、つまり知る働きに満ちています。精子は卵子に向かって泳ぎ回り、本能的にどこへ行くべきかを知っていました。それも常に生のエッセンスだったのです。

2025/11/28

スピリチュアルの教師:最後の失望  ルパート・スパイラ

Spiritual Teacher: The Final Disappointment  Rupert Spira
歯車マーク→音声トラック→日本語、もしくは自動翻訳(字幕)で見ると、日本語で見ることができます。

YouTubeの解説(Google翻訳)

人生において、あらゆることが私たちを失望させ、裏切った時、私たちはしばしば、スピリチュアルの教師が最後には私たちの望むものを与えてくれると期待しますが、結局また失望させられるのです。では、私たちは誰を本当に信頼し、頼ることができるのでしょうか?

ルパートは言います。「良い教師は、私たちにとって最後の失望となるべきです。ですから、教師や教えに失望したとしても、それは良い兆候です。理解が深まった証拠です。自分が心を捧げてきたものに失望させられ、以前頼っていた教えの力がもう失われていると感じるのは、辛いことです。

「でも、それは良いことです。なぜなら、あなたは自分自身をより深く掘り下げなければならないからです。教師や教えに頼るべきではありません。結局のところ、あなたは自分自身、自分自身の存在だけに頼るべきです。でも、私はいつもあなたの友人としてここにいます。それは奪われることはありません。愛は奪われることはありません。」

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セイラーボブも、覚醒(エンライトメント)などないと言って私を失望させました。おまけにミーティングの最初にボブは必ず、私は何も教えないし、教えるものは何もないと言って、ミーティングを始めました。

師を求めて訪ねて行っても、師は覚醒した人ではなく、何も教えることはできません。自分で調べるしかないのです。本当の道は教師に失望したところから始まります。教師を信奉して、私も覚醒したいと迷走(瞑想ではなく)していた昔がなつかしいです。ルパートは偉ぶるわけでもカリスマ性をまとうわけでもなく、普通の人として語りかけてくれます。こういう態度こそが本物の教師ですね。