2025/06/17

【日曜説教:令和7年5月】「仏心ひとつ」| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師


盤珪の話は何度聞いてもいいですね。
ああ、生まれたままでいいんだ。一体何を悩む必要があるのか。そう気づかされます。

2025/06/13

「私」が実在しないなら、何を言おうと構わないでしょう?

質問者: 人生の質について話せると思うのですが。あなたはどう思いますか?  こういうことについては、いつもあなたの意見を聞きたいんです。

ボブ: むしろあなたの意見を聞きたいです。

質問者: じゃあ、もし私が何かバカなことを言ったら、黙ってろって言ってくれると約束してください。

ボブ: バカなことを言うなんて思うのは誰ですか?「私」ですか?

質問者: たぶん「私」です。

ボブ: 「私」が実在しないなら、何を言おうと構わないでしょう? そのバカなことを聞​​かせてください。

2025/06/10

それは一つの本質です

ボブ:それは一つの本質です。私たちが話していることを表現するのに、他に適切な言葉は何でしょうか? それは生(life)ではないでしょうか?ニサルガダッタは「生だけが存在する。生を生きる者はいない」と言っています。それが肝心なのです。私たちは生を細分化し、様々な側面や性質があると考えがちですが、すべては生の本質なのです。

質問者:その生の本質なしには何も語れません。自分自身を生から切り離すことはできません。

ボブ:ええ。生からは何も切り離すことはできないでしょう?生は死を知りません。命(life)は常に命(life)によって生きています。命からさらに命が生まれます。

質問者:つまり、剣では切れない、水でも溺れない、ということですね。溺れるように見えるかもしれませんが、溺れないということですね。

ボブ:ええ、生にはそれらすべてが含まれています。あなたがそこに込めたいどんな概念、どんな考え、どんな外見も、すべてその生の本質に含まれています。したがって、それらのものはどれも、いかなる方法、形状、形態においても、それを包含したり、それに触れたりすることはできません。

2025/06/03

思考でさえ生命の本質なのです

存在の感覚は言葉によって「私は在る」という思考に翻訳されます。
それが「私は在る」という原初の思考です。
「私は在る」がなければ、他のものがあるとは言えません。
「私は在る」と言う代わりに、生命の本質がすべてとして表現されていると言いましょう。
その生命の本質なくしては何もありません。
思考でさえ生命の本質なのです。
                                    セイラーボブ