2023/05/03

すべては束の間のものです

2023.4.30ミーティング 33:00から

カット:(携帯を見ながら)マンジュからです。「ハーイ、ボブ。私は依然として自分が人であるかのように感じています。どうやって完全にそれを無くして、本当の私を確立したらいいのでしょうか。依然として人のように感じています」。

マンジュ。誰が人のようだと感じているのですか? それは、人がいるという感覚で、それが意識の中に浮かんでいるのではないですか? それとも、誰かがそれを感じていて、人がいるというラベルを貼っているのですか? そこにあるものが何かをどうやって知ることができるでしょうか? (ボブを見て)何かコメントはありますか?

ボブ:ええ。思考、感覚、感情がやってきますが、それらはどれも同じものの三つの側面なのです。あたかも、自然の中に蒸気、水、氷があるようなものです。太陽が水を蒸発させ、雲となって太陽を覆います。すると、それが冷えて水となり、氷となります。それでもそれは依然として一つのものの三つの側面なのです。

最初は思考なのですが、それが感覚、感じとなり、その感覚に怒り、恐れ、憂鬱、罪悪感といったラベルが貼られます。そしてそれが長く留まると、感情となり、体の中へと入って神経などすべての要素をかき回します。怒りなどが体に入ると大きなダメージを与えることになります。でもそれをそのままにして、変更も修正も訂正もしないで触れないでおけば、それは変化していきます。

それはあたかも生における変化のようなものです。それが今昼間であるなら、何が起きるでしょうか。地球は太陽の周りをまわっています。もう少し回転すると、光は終わりとなって、こんどは暗闇がやってきます。地球は暗闇や光については何も知りません。冬、夏、その他のことも同じです。思考がやってきて、これは良いと言います。良いものを失いたくはありません。なぜなら、その反対は悪いだからです。

何かがやってきて、あなたがそれを好みます。すると、あなたはその良い事を手放したくありません。そして、すべてのものは束の間のものであり、自然に絶えず変化しているということを理解しません。私たちは、良い事を手放したくありません。なぜならそれが好きだからです。それでも、それは変化します。手放したくなくて、そこに留めたい時、何をするでしょうか。抵抗します。そこに留めようとします。

しがみついて、それが去っていくのを止めようとします。抵抗は葛藤であるということを理解しません。どんな抵抗も葛藤を生み、それを留めようと戦うことになります。良いと悪いが互いに葛藤しますが、それが一つの棒の両端だということを理解しません。そして、葛藤があなたに恐れ、心配、憂鬱、罪悪感をもたらし、やすらぐことができません。そうやって、抵抗、葛藤、病気が起こります。

2023/05/02

でも、海はそのように見え続けます

海は青いという認識があります。海は青く見えます。そうとしか見えません。でも、もし私があなたに、海からバケツ一杯の青い水を汲んできてくださいと言ったら、あなたは何と答えるでしょうか? 馬鹿なことを言わないで、水が青くないのはよく知っていますと言うでしょう。それは明らかです。あなたは何度も海を見たことがあります。何度も調べました。でも、海はそのように見え続けます。
                                    セイラーボブ

2023/05/01

変わらずにあるものは何ですか?

あなたはいつ始まりましたか? 生まれたのは何なのですか? 人々は私に、彼らの過去に何が起こったかを告げます。そして私が、「どうして知っているのですか?」と尋ねると、「そこにいました」と言います。そこにいたのは何なのですか? あなたは子供の頃と同じ体をしていますか? 自身に対して、同じ自己観念やイメージを抱いていますか? 変わらずにあるものは何ですか?
不変の意識の上に「私は在る」という思考が生まれ、そしてそれが死んでいくものです。それは二歳の頃、子供が自分自身を分離させるのに十分な言葉とラベルを覚えた時に起こります。
                                   セイラーボブ

2023/04/30

ナーマ、ルーパ

自分がパターン、姿形となって現れているということを理解している人はほとんどいません。
人々は、「ナーマ、ルーパ」、名前と形を現実のものと思っているため、不完全さ、不幸、苦悩が彼らに起こっていると感じるのです。
すべては、自身が完全あるいは全体ではないという信念によって起こるのです。
                                    セイラーボブ

2023/04/29

あなたが恵まれているものを数えなさい

あなたが恵まれているものを数えなさいと彼らは言います。善良さ、美しさ、愛に気づいてください。周りを見渡せば、いたるところでそれを目にするようになるでしょう。あなたが邪魔をしなければ、いたるところで偉大さと奇跡を目にすることができるでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/04/28

同じ命が

あらゆる疑念を超えて、同じ命が万物の中に流れていて、あなたもその命であると知れば、あなたは自然に自発的に万物を愛するだろう。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/27

それでも誰かがそこにいるように感じるのはどうしてなのでしょう?

2023.4.23ミーティング 1:22:56から

マンジュ:「私」はいないということをあれこれと聞いて、私はいないとわかったのですが、それでも誰かがそこにいるように感じるのはどうしてなのでしょう? それが私の質問です。

ボブ:何?

カット:どうして彼女は依然として誰かがそこにいる感じがするのかと。(マンジュ向かって)それは意識の中に現れた衝動、感覚ではないですか? そこに誰かがいるという感覚。それは感覚であり、それはとても強い時もあれば、ほとんど存在しない時もあります。ええ、それは感覚です。でもそれがあなたと、あなたのアイデンティティと何の関係があるのですか? あなたは意識なのですよ。

ボブ:あなたの感覚以外に誰かいますか? 他に誰かが感じていますか? それを主張している人は?

カット:あなたは意識です。そこに誰かがいるような感覚が起こり、私は十分ではないというような感覚や、私は偉大だという感覚が起こりますが、それは感覚であり、それだけです。どんな感覚がやってきても、それは空に現れた雲なのです。あなたは意識です。あなたは「私は在る」であり、純粋な存在です。その中に、いいえ、でも私は小さい、私はジュリアス・シーザーだ、私はブルータスだ、私はマンジュだと、どんな感覚もそこへやってきます。感覚、思考、イメージ、言葉。それらは常にそこにあるわけではありませんが、あなたは常にそこにいます。

マンジュ:ええ。たとえ私が今、私は幸運だと感じると言ったとしても、自分を人のように感じているのは誰なのかという問いがあるのですが、そこには誰も存在しない。

カット:ええ。すばらしいですね。

ピーター:それは単なるイメージなのです。

ギルバート:インポスター症候群という近代の専門用語があります。インポスター症候群の人たちは、仕事を手に入れても、自分はそれにふさわしくない、とかなんとか言いますが、それでもそれは意識なのです。それでもそれは意識が自らを表現しているのです。そこには分離した人や罪のある人はいないのです。それらはすべて驚くべきやり方で現れているのです。

ネルソン:(マンジュに向かって)どうしてその質問が続いているとわかったの?

参加者:(マンジュに向かって)彼は、あなたがその質問をどうやって知ったのかって聞いているよの。その質問はどうやって起こったの? 何がそれを知ったの?

マンジュ:それは知性エネルギーにちがいありません。そうでなければどうやってそれがやって来ることができるでしょうか。そこには何もないというのに。それでわかったのです。誰が聞いているのか? 誰もいないのに。誰が聞いているのかと問うのは意味がないことですね。(笑う)

参加者:それが私たちの条件付けですね。

マンジュ:うまく表現するなら、やってくることもまたすべてそれなのですね。

ギルバート:何年か前のことを思い出したのですが、誰かが私に過去生のことを話しました。私はフォラオの女中だったとかなんとか。誰も自分が便所掃除係だっとは言わない。

カット:(携帯を見ながら)ヴィベックから。「さあ、マトリックス・ゲームが明らかになった。もう誰もマトリックスには入らない」。入っていくことが起きても、それはただスクリーンに起こっていること。ジオティから。「カット、どうか私をクレオパトラにして」(一同笑う)シーザーのファンではなかったの? グッドニュースは、あなたは何でも好きなものになれるということ。そしたあなたはもともとすべて、全体性なのです。どんな衣装もどんな役もまとうことができます。

そしていつでも何にでも変更できます。そしてそのどれもがあなた専用のアイデンティティではありません。それは単なる衣装です。あなたは全体性であり、その衣装の後ろにいて、衣装を着ているふりをして、特定な役となって表現、体験して現れています。なんと素晴らしいことでしょうか。誰もが役割を演じているのです。妻、母、娘、友人、あれやこれや、すべての役がうわべ上では異なるアイデンティティがあるように見えます。そのどれが実在なのでしょうか?

そして誰もが、これが「私」「自分」だと言います。ポーランド人、オーストラリア人、女性、男性。そしてそのゲームの全体を見抜くことは簡単です。ああ、私が黒幕だ。私がコントールする人だ。私が真実を探している人だ。私は真実を見つけたい。私はスピリチュアルだ。驚くべきことです。ええ、クレオパトラに、王に、女王に、あなたの好きなもの何にでもなってください。

でも、真実は、それらは仮の衣装にすぎません。ええ、それは、何と言いましたか? 喜びのダンサー? 喜びの遊び人です。オンラインのコメントは以上です。みなさんありがとう。

ボブ:ありがとう。みなさん、愛していますよ。(Love you all.)

2023/04/26

それを貼りつける「私」がいないのなら、どうやって心理的な苦悩が起こりえるでしょうか?

2023.4.23ミーティング 32:47から

ギルバート:意識の内容物は、意識とは分離していません。でも、その内容物は意識から独立して存在はしてはいません。「私」も同様で、その「私」を見つけることはできません。なぜなら、「私」は独立した存在ではないからです。でも、あなたが調べてみると、それはうわべの上ではとても重要なものです。というのも、そうでないと、夢があなたを巻き込んでしまうからです。

でもあなたが、そこには「私」はいないということを絶対的に確信するまで調べて、そこには私はいないと知ったなら、どうやってそれをふたたび信じることができるでしょうか? そして、もしそこに、それを貼りつける「私」がいないのなら、どうやって心理的な苦悩が起こりえるでしょうか? それで終わり。それはシンプルなことです。でも、この知らせはどこでも歓迎されてはいないようです。(笑い)

2023/04/25

我はそれなり

2023.4.23ミーティング 0:14から

みんなが名前を言い終わるが、ボブは補聴器を付けていないので聞こえない。

ボブ:一言も聞こえません(一同笑う)

ギルバート:言葉は物ではありません。

ボブ:でも、それが皆さんの受け取るすべてです。本当はパドックにいて草を食んでいなくてはいけないのですが、彼女がまた馬具を付けてパドックから連れ出したので、短めに話します。私はあなたに何も教えることはできないし、何かを伝えることもできません。私ができるのは、方向を示して、そこを自分で調べるようにと促すことだけです。

というのも、私が指していることを理解すると、そこには何かを教える誰かも、何かを伝える誰かもいないということがわかるからです。一つの本質がパターンとなり、あらゆる姿形となって現れています。私はいかなる体に話しかけてもいません。私はどんなマインドにも話しかけてはいません。あなたが自身だと信じている体・マインドの存在に話しかけてはいません。

私は、存在の感覚となって現れている「私は在る」に話しかけていて、それが本当の私です。それがマインドを通して思考の「私は在る」となって現れています。ただそれだけ。他には何もありません。それが私が指摘していることです。一つの本質、知性エネルギー、生、神、どんな観念やラベルを貼ってもかまいませんが、それがそこにあるすべてです。

その一つの本質のことを私は知性エネルギーと呼び、神と言う言葉は使いません。その言葉を使うと混乱するからです。というのも、あらゆる人が神とは何かということに対して、異なる宗教、異なる観念を持っているからです。でも、聖書の中では、最初に言葉だけがあったと述べています。言葉が始まりなのです。

言葉が神とともにあり、言葉が神でした。神とは言葉だったのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって造られました。言葉がなければ、何も創造されなかったのではないでしょうか。あらゆる物事のために言葉を手に入れました。椅子、テーブル、空間、冬、夏、高い、低い、それは言葉です。言葉が無かったら、それは何でしょうか?

言葉無しでは何も分割することも分けることもできません。でも、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことは常に起こっています。でも、私たちは「私」という言葉を学びました。私は見る、私は聞く、私は味わう、私は触れる、私は嗅ぐ、私は考える、私は体験する。私たちは偉大な聖典の中ではやってはいけないということをしています。あらゆる物事をそのままにしておくかわりに、分離できないものを分離し、描写できないものを描写しています。ただ一つの本質が現れてあらゆる姿形になっているにすぎません。

あなたはいくつの言葉を持って生まれましたか? あなたは生きていて、存在しています。でも、自分の誕生を覚えている人はいますか? 人々は自分の誕生を覚えていると言います。でも、生まれた時にどんな言葉も持っていなかったのに、どうして覚えていることができますか? そんなことはできるはずがありません。

そして、二歳か二歳半に推論する力が発達するまではどんな言葉も学んでいません。その推論する能力はとても役立つもので、今この体・マインドの中で続いています。あなたは両親から言葉を学びました。両親はあなたのまわりで、かわいいジョニー、かわいいジェーン、かわいいビリーとはやし立てます。あなたは「私」「自分」という言葉を学び、私はかわいいビリー、私はジェーンだとなります。それが人々が自身を表現するやり方です。

「私は在る」は単なるもう一つの観念、ラベルだということを理解してください。ニサルガダッタやその他の人たちが、「私は在る」に留まりなさいと教えます。「私は在る・私は在る・私は在る」というマントラを繰り返さなくてはいけないと思う人もいるのですが、そういう意味ではないということを理解してください。それは、存在の感覚である「私は在る」に留まりなさいという意味です。

自身のことを表現するために、「私は在る」と言わざるえないのです。そしてそれは、今ここに存在しているという意識であり、存在意識のことです。それが「私は在る」であり、彼が指し示したものです。その存在の感覚に留まってください。それは、あなたが存在しているということを知ることであり、あなたが存在していると考えることではありません。

あるいは、自分は存在していると信じることで、観念や思考、イメージ、言葉の中に自身を閉じ込めることではありません。あなたはもう十分長い間それをやってきました。それがあらゆる心理的な苦悩の原因であり、それが私たちに続いています。そして、偉大なマントラは「我はそれなり」です。あなたはそれを聞き、知っています。そしてその意味を理解します。

というのも、生まれつきそのことを知っているからです。これが椅子で私が座っているもの、あれが部屋で私がそこにいる、あれが空間で、あれが木、あれが花、あれがあなた、これが私。あらゆるものがもともとそれであるということを、あなたはもともと知っています。それを言葉によって区別しているのです。私たちはラベルを学び、それを言葉のラベルで分割しているのです。でも、それがそこにあるすべてです。ただそれだけ。

そしてそれをアドヴァイタでは、サット・チット・アナンダ、ナーマ・ルーパと言います。サット・チッタは存在、意識であり、アナンダは存在する喜び、ナーマ・ルーパは体とマインド、名前と形です。ナーマ・ルーパ、体とマインドはマーヤーであると言います。マーヤーは幻想です。では存在について。今この瞬間に存在してない人はいますか?

あなたは、いいえ、もちろん存在していますと言います。意識のない人、目が覚めていない人はいますか? いいえ、私には意識がありますと言うでしょう。そしてあなたたちみんなは、存在していることが幸せであり、今この瞬間死んでいたいと言う人はいないはずです。

*******
もう少し続くのですが、この日のスピールはいつもより短く、15分ほどで終わりました。ボブは元気です。

2023/04/24

関係性とは二元性のことです

関係性とは二元性のことです。「私」と「他者」。
「私」が現れるやいなや、他者がいるに違いありません。
二元性、それは「私」と「私以外」です。マインドを見つめて、それがどのように機能するのか見てください。すると、それは絶えず二元的に機能しているのがわかるはずです。
良い悪い、快不快、喜び悲しみ、反対の極が一対となっています。
                                    セイラーボブ

2023/04/23

究極の状態

真実を求める欲求は最高の欲求だが、それでもそれは欲求である。
実在として在るためには、すべての欲求を放棄しなくてはならない。
すべての探求が終わるとき、それが究極の状態である。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/22

あなた自身があなたの最高の師である

あなた自身があなたの最高の師である。
外側の師は単に目印にすぎない。
内側の師だけがあなたと共にゴールまで歩いてくれる。
なぜなら、彼こそがゴールだからだ。
                           ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/21

私という実体がどこにもない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その63」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私たちが見ている世界は何なのか? そしてそこに「私」はいるのか? 死とは何なのか?
仏教の持つ深さに驚かされます。

2023/04/20

それを記憶の中に蓄えることはできません

2023.4.16ミーティング 1:20:18から

ギルバート:何年か前、この部屋でボブは短い物語を話しました。登山者の一行が山を登っていました。彼らはある程度の水を持参したのですが、十分ではありませんでした。少し登ったところで水がなくなり、中の一人が谷底の小川を見つけました。そして彼は岩をよじ登り、傷だらけになり、体を打ちつけて骨を、いいえ、骨は折りませんでしたが、苦労して容器を持って降りていき、水を一杯入れて他の人のもとへ運びました。

そしてボブの指摘は、他の誰も、俺が自分で行って汲んでくるとは言わなかったということです。彼らは水を分け合いました。そしてあなたがボブの最初の本を読んだなら、そこには何百というポインターがあって、中でも私が書き起こしている時に心を打たれたのは、「知る働きは自然に起こっていて、それは知られたことではなく、それは過去であり、これから起こってくることでもなく、この瞬間に起こっている知る働きのこと」です。ing は今この瞬間に起こっているという意味です。

では、この知る働きとは何なのか? この意識とは何なのか? その答えを見つけることはできませんが、その存在を否定することもできません。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。意識がそこにあるすべてです。意識、認識、なんであれ、それについて議論をすることはできますが、その知る働きは、あなたが経験することすべての根底に実際にあるものです。その知る働きの外側に何かを仮定することはできません。

そしてそのことは永遠に新鮮で新しいものです。そのため、それを記憶の中に蓄えることはできません。この直接性を記憶の中に蓄えることはできませんが、ポインターを蓄えることはできます。そしてそれが起こっていることのすべてです。その男は降りていって水を汲んで他の人のために運んでシェアしました。そのためにポインターがあるのです。言葉やジェスチャーで、知る働きの本質を指し示すためにポインターがあるのです。

そしてそれは見ること、聞くこと、触れることと同じように自然に起こっているのです。それはすべて自然に起こっていることであり、エゴがやって来て「私がやった」という場所はありません。それはナンセンスです。「私」は意識の直接性の中には存在しません。「私」は心理的な構築物であり、時間の中にあります。マインドは時間です。そしてマインドは意識の上に現れますが、マインドと呼ばれる何かを見つけることはできません。

それは単なる活動なのです。自己を見つけることはできません。自己を見つけた人はいますか? それはどんな風に見えますか? 色は? 形は? それは単なる観念、思考、ポインターです。

参加者:木はどう? 木を見つけた。

ギルバート:いや。何もない。それは単なる言葉です。その知る働きの活動は自然に起こるものです。もしそれを恩寵と呼びたければそう呼んでもかまいません。神の恵み。「私はこれらをあなたにあげよう。それが私の喜びだ。喜んでこれをあなたに与えよう」。そしてもしあなたがそれについて議論したいのなら、それはあなたの問題です。

2023/04/19

わたしたちは皆それなのです

2023.4.16ミーティング 40:18から

ギルバート:一つのポインターは、あたなは自分が何であるかを決して知ることはできないというものです。でも、自分が存在するということを否定することはできません。そのため私たちは自己にラベルを貼ることに囚われてしまいます。自己という言葉ですらラベルです。でも、突然の予期しない理解は、それはまったくの無、まったくの何ものでもないもの/無(no thing)だというものです。仏教徒はその経典の中で、あらゆる現象の本質的な性質、いつくかの現象ではなく、すべての現象の本質的な性格は空(くう)だと言っています。

太陽系を調べてみると、私たちは地球に住んでいて、私たちの体は地球やおそらく他の場所からの材質でできています。この太陽系で一番大切なのは太陽です。そして太陽は自ら輝いています。科学者は、太陽の中がどうなっているかを実際には知りません。というのも、誰も中へ行って調べることはできないからです。地球の中心についても同じことが言えます。ニッケルや溶解したものがあるという理論はありますが、中へ行った人は誰もいないのです。

ジュール・ベルヌは地球の中心へと入っていく小説を書きましたが、それは物語であり、私たちは物語が好きなのです。2001年宇宙の旅は物語です。その映画の終りの方にあるシーンがあります。宇宙飛行士がLと呼ばれるAIコンピューターによって宇宙船に戻れなくなります。Lは知性のある生物となって支配権を持つという思考を持ち、その男を戻れなくします。最後には男の生命維持装置を切断し、宇宙飛行士は宇宙空間を漂うことになります。

宇宙飛行士に感情移入して見ているなら、それは最も恐ろしいシーンとなります。宇宙服の中の男は宇宙を漂い、死んでしまうだろう。彼は生命維持装置もなく、そこに残される。もしこれをリアルに受け取ると、彼はどこかを漂っていることになる。これはある種のポインターなのです。あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)であり、もし仏陀に注目すると、仏陀は有名なキャラクターですが、基本的に彼が理解したのは、無、空(くう)です。

そして彼は言っています。どこにも自己というものはないと。そして私たちは物語の中で、体に囚われ、体、マインド、私の物語に自己同化し、うわべ上では囚われ続けます。でも、あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)なのです。そのため、現象や物語に囚われている人は誰もいないのです。それが理解すべきことなのです。そしてそれは、物語やグルを通しては起こりません。誰もあなたのためにそれをやることはできません。

あなたは自分で確かめなくてはいけません。そして実際にはあなたにもできません。それを「恩寵(grace)」と言う人もいます。神の愛による恩寵により、あなたは束縛から解放される。でも、あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)なのです。ですからそれはポインターなのです。ポインターの持つ唯一の価値は、そのポインターが指し示すことに従うことです。

もしポインターについて議論すると、行き詰ってしまいます。ポインターは贈り物なのです。誰からの? わかりません。意識。ラベルを貼ってはいけません。ポインターは贈り物です。全部のポインターがみんなに効くわけではありません。私たちはみなユニークでそれぞれ違います。ある人はあるポインターから何かを聞き、ある人は何も聞きません。

根本的に思考を追いかけるのをやめて、マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見ることです。すると、思考が意識の上に現れて、うわべ上ではあらすじや物語を創造し、それが心理上の苦悩や喜びなど今ここから外れるように導いているのがわかるはずです。

マインドがどのように機能するかを見つめることです。誰もあなたのためにやってはくれません。そしてそれは努力を必要としません。それはあたかも、母親が洗濯物を干しながら、地べたで遊ぶ子供を見ているようなものです。母親は子供を見ています。それには努力が要りません。母親は子供を愛しているのです。母親は子供の世話をします。

マインドが何なのか、それがどう機能するのかを見てください。それがあなたを本当のあなたである本質へと引き戻してくれます。あらゆることが「私は在る」という本質へと戻って行きます。でも、その「私は在る」に何かを付け足そうとすると、それが「私は在る」の解決の鍵なのですが、もしその「私は在る」に何かを付け足そうとすると、それが物語となります。そしてそれがそれと自己同化する人の苦悩へと導いていきます。

では、その人とは誰なのでしょうか? 私は誰か? その問いには答えはありません。私は誰なのか? その答えは沈黙です。言葉はありません。生の本質そのもの。知性そのもの。でも、それらはどれもラベルです。では、出口は何か? 出口は、あなたは一度もその中にはいなかったということです。あなたは決して何の中にもいたことがないのです。

すべてのものの究極の本質はたった一つです。わたしたちは皆それなのです。ですから、物語を楽しんでください。「ああ、今日ここへ来る時に信じられないことが起こったの!」とかなんとか言いながら。

2023/04/18

それをボブは知性エネルギーと呼びます

2023.4.16ミーティング 0:27から

カット:今日は何を話すつもりですか? ボブ? マイクに向かって話してください。

ボブ:ゾクチェンの本、ことわざの中に、老人が日光浴をしているものがあります。私はそれをするつもりです。すべてのエネルギーがあなたたちからやって来ます。ですから、少し開放的にしてください。

カット:ありがとう。では、今日は私たちが日光を供給することにしましょう。みなさんは話をシェアして、質問をして、どんなことでも共鳴したことを話すために招かれています。というのも、あなたたちはもともと存在意識であるというところから始めるからです。あなたはすでに存在していて、気づいていて、意識があります。手に入れなくてはいけないものも、何かになる必要も、見つけなくてはいけないものもありません。捨て去るべき知識や落とすべきものがあるのでもなく、それはすでに存在するというシンプルな認識にすぎません。

それは常に永遠に存在するという意味は、時間がなく存在するということです。それはこの瞬間に存在しています。もし、今以外の時間を想像したいのなら、それはマインドの中の観念にすぎません。たとえ想像している瞬間にもそれは存在しています。そして、ここには、存在意識についてあなたがすでに知っている以上に、あるいはより少なく知っている人は誰もいません。つまり、誰も他の人より優れても劣ってもいません。

誰もあなたよりもエンライトメントしていたり、明確であったり、よりその近くにいるわけではありません。それは根底にある存在意識、意識の存在がみなさんを通して輝いているのです。それを輝かせるためには、うわべ上でそれを見えにくくしている観念を脇に置くだけです。なぜなら、何もそれを不鮮明にすることはできないからです。どんなに多くの考えを生み出しても、その考えが生み出される前にあなたがいます。

それは単に、とてもシンプルで、とても明確な根底にある存在意識に立ち戻るということです。そしてそれにハートを注ぐ、それを優先させるということであり、あなたのハート全体や注意全部を、今起こってもいないつまらないささいな物語に向けないということです。例えば昨日起こった事、これから起こるかもしれないこと、起こりそうなこと。そうしたことは今この瞬間、今日は起こっていません。それが起こったときにはそれなりの注意が向かいますが、今はそうではありません。今はこの瞬間に注意を向けるべきです。

そしてそれは、この瞬間の存在意識にリラックスすることです。その意識の中でリラックスして、それが輝くに任せることです。そしてまた、それが表現するに任せることです。それが歌うに任せ、輝くのに任せ、それがあなたをどこへ導くか見るのです。なぜなら、認識の中身、意識の中身は絶えず変化するからです。それは、中身のことではありません。中身は愛されることも、認識されることもありますが、根底にあるスクリーンが主となるものです。(携帯を見ながら)オンラインの人も参加してもらうつもりです。

ええ、根底にあるスクリーンが主となる源であり、経験の唯一の源です。(携帯を見ながら)いくつかあいさつが届いていますが、質問はありません。どなたか、最初に何かをシェアしたい人、経験したことや、質問、今あまり明確ではないところを示したい人はいますか? もしかすると、基本的な分離の感覚が十分に明確ではない人もいるかもしれません。というのも、夢の中で、体は他の体や空間と分離しているように感じ、そう見えるからです。

でも実際にそうでしょうか? 感覚器官はそう言うかもしれません。でも、少し深く観察すると、感覚器官はそうは言ってはいないということがわかります。そう言っているのはマインドです。これは私、これは他の人という区別をして感覚器官の上に現れているのはマインドです。マインドのラベル貼り、名前づけがなければ、そこにあるのは一つの開かれた意識のフィールドです。

そしてそのフィールドの中に、絶えず変化するものが様々な形となって自然と現れています。それをボブは知性エネルギーと呼びます。それは多少フレッシュな言葉というだけでなく・・・(ボブを見ながら)でも、その言葉は確か100年前のクリシュナムルティから来ているのですね? でもそれは、同じものではなく、エンライトメントに目覚めるということではありません。生命エネルギー、生命の本質です。それは生きています。それは絶えず動いて自身を表現しています。

それは存在していて、同時に存在していません。なぜなら、潜在的可能性にはどんな実体もないからです。でも、実際には存在しているように見えます。ですから、形あるものは、固いものだと言うことはできず、存在しているように見えるだけなのです。でも、存在していないということもできません。なぜなら、それらは現れてくるからです。それは存在の形なのです。それはメンタルイメージと同じです。それもまた存在の形です。

顕現のすべては、あのスクリーンの上に現れますが、それは何ものでもないもの/無(no thing)です。そこに物事が現れる固いスクリーンがあると言うことはできません。でもそれは認識、意識の中に現れます。

2023/04/16

自然に起こってきます

私たちは、「なろう」とするために苦しむのです。その必要はありません。
調べることもせず、見ようとしなければ何も変わりません。
「誰が」調べるのかと、あなたは言うでしょう。
調べることは、他の物事と同じように、起こってきます。
不安や傷つきやすさで押しつぶされそうになった時、自然に起こってきます。
病気、疲労でうんざりした時に起こってきます。
すると、変化が起こるはずです。
                                    セイラーボブ

2023/04/15

「なる」ということは「在る」ことではありません

私たちは、自分は完全ではないと考え、何かになりたいと考えます。
「なる」という言葉を見てください。
「なる」ということは「在る」ことではありません。
それは、今この瞬間に在る純粋な存在ではなく、何か獲得するものがあることを暗示しています。全体性以外の何かを。
                                    セイラーボブ

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ボブが退院しました。自宅でネコに餌をやる動画が公開されています。

2023/04/14

あなたが認識する世界は意識でできている

あなたが認識する世界は意識でできている。
あなたが物質と呼ぶものは意識に他ならない。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/13

存在することそのものが幸せなのです

存在することが幸せでない人はいません。あなたは人生の展開に満足していないかもしれまんが、いわゆる悪い感じを取り除くために、生を取り除くことはできません。
それが過度になると、自殺してしまう人もいます。
でも、基本的には存在することそのものが幸せなのです。
                                    セイラーボブ
******
昨日の facebook によると、ボブは今週末に退院できそうだということです。結局何の手術だったのか、よく知りません。

2023/04/12

言葉は敵ではないと知ってください

私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。なぜなら、それは知る働きの活動だからです。そこには知性があります。そしてそれは、今この瞬間に振動しています。それは活動なのです。それはエネルギーの動きなのです。それにラベルを貼る必要はありません。あなたは、何が起こっているのか、何が実在なのかを知っています。

そうした信念から自由でいてください。そうしたものは利用することができます。言葉は利用することができます。言葉は敵ではないと知ってください。 
                                    セイラーボブ

2023/04/11

あなたは、その知る働きがそこにあることを知っています

ラベルを貼らなければ、そのことについては何も言うことができません。するとあなたは、どんな観念もなく取り残されます。それは知性エネルギーの自然な働きにすぎません。知性エネルギーというのも単なるラベルです。ラベルはそれではありません。

つまり、知性エネルギーとは、知る働きなのです。エネルギーの別名は活動であり、知る働きの活動です。そしてあなたは、その知る働きがそこにあることを知っています。それは知性です。
                                    セイラーボブ

2023/04/10

まずは自分を護ること

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その58」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私は長い間セイラーボブの非二元を学んでいて、ボブの教えは社会に対してどれだけ貢献できるのかということを考えてきました。
確かに、ボブの教えを理解すれば、個人の苦悩からは解放されます。多くの人が救われるでしょう。

でも、一方では、社会に起こっている様々な問題に対して、運動をしたり、ボランティアをしたりして、直接働きかけている人たちもいます。非二元を学ぶ人たちの中にもそういう人はいると思うのですが、たいていの人は自分のことで手いっぱいで、人のことまでは手がまわらない人が多いと思います。それでは、いくら非二元を学んで自分は楽になっても、社会に対しては何も貢献していなことになりはしないか。

そうしたことに対していつも漠然としたモヤモヤがあったのですが、今回の佐々木先生の話を聞いて、やっぱりまず自分の心の平安が先にあるべきであり、極論すれば、それさえ全うすれば、世界も良くなる気がします。

非二元的に言うなら、世界そのものが夢なのだから、あれこれと夢の中の事にかまうな、ということになるかもしれませんが、たとえそれが夢であっても、良い社会になって欲しいと思うのはあたりまえではないでしょうか。

2023/04/09

あなたが「私」に会ったことはありません

2023.4.2ミーティング 52:08から(facebookより )

ギルバート:マインドがどのように機能するかを見ることです。このマインドが、自己をイメージする時に絶えず何を参照としているのかを。時々マインドはむやみに切望します。神聖なもの、旅、などなど。そして、ある種の経験を集めて、良い経験を一つの籠に入れ、悪い経験をまた別の籠にいれます。ある人は良い籠が一杯になり、ある人は悪い籠が一杯になります。

そしてあなたが彼らに、おまえは何なのだと尋ねると、自分を低く見ている人は悪い籠から選んで、私は何々だと言います。そうやって絶えず参照している自己のイメージを認識することは可能ですが、それはフィクションなのです。「私」はフィクションなのです。「私」などというものはありません。あなたが「私」を見つけることはありません。それは参照する習慣にすぎないのです。

調べて、その「私」を見つけようとすることが不可欠なのです。ボブはよく言います。「あの愚か者が、「私」はいないと言うが、彼は正しいのか間違っているのか? 自分で調べてみるべきなのです」。それは基本的にどんな言語の中にあります。「私」が見つかるかどうか調べてみるのです。それはフィクションであり、あまりにも多くの心理的な苦悩を生み出しています。そしてそれは不要なものです。

そして、「私」が集めている経験すべてが私のアイデンティティとなっていますが、経験などというものがあるのでしょうか? それは単なる物語(ストーリー)ではありませんか? 現在進行形の経験そのもの(experiencing)は決して邪魔されることはありません。あなたは自身で、その経験そのものはどんな現象や何ものにも邪魔されず、それが生そのものだということを認識することができます。

それは自然に発生するもの、認識、ボブが言うところの、知る働きの活動です。そしてあなたが調べてみると、知る働きの活動がそこにあるすべてです。その知る働きの外に経験があることはありません。それは誰かが何かを知るということではありません。それは、昨日や明日の何かを知るということではありません。それは活動であり、活動とは、今現在起こっている何かなのです。

あなたが、その知る働きと分離して存在することはありえません。あなたが意識なのです。あなたはそれを違ったレベルに分けることもできますが、それはナンセンスです。この直接の知る働きは個人という存在には帰属していません。そこには個人という存在はいません。それは単に知る働きの活動なのです。その直接性に留まると、あらゆることがあるがままに明らかになります。

でもそこには、物語をあなたが参照するあれこれの籠に入れるということはありません。というのも、それは永遠に新鮮で新しいものだからです。あなたはこの知る働きの活動を記憶の中に保持することはできません。やってみてください。できません。なぜなら、そこにあるのは何ものにも邪魔されることのない経験そのもの(experiencing)があるだけだからです。

それには何ものも付着していません。そこには苦悩はありません。意識そのものは、完全にまったく独立したものです。あなたはそれです。私たちは物語を付け加え、意識をレベルに分け、精神世界の旅、訓練やメソードを付け加えようとしますが、それは実際役に立ちません。訓練やメソードは、実際には「私は在る」というものに付け加えた心理的な苦悩なのです。あなたが「私」に会ったことはありません。

2023/04/08

ボブは大丈夫です

2023.4.2ミーティング 0:28から

カット:オンラインで見ているみなさん、ボブは大丈夫です。良くなるでしょう。彼は、2~3週間休みます。緊急手術のあと、療養中ですが、大丈夫です。そのため、残念ながらいつものようなスピール(長話)はありません。真似をしても彼のように上手にやることはできません。

エネルギーがどのように流れるかを見てみましょう。非二元への入り口はとてもシンプルです。あなたはもともと「それ」であるということです。それに対して異議があるなら、その意義を調べることができます。そして、想像を打消して、何もない空(くう)の状態にとどまりましょう。

そこには何もありません。何もない時、どんな観念もなく、分離した存在という観念もありません。そこにはいかなる存在の観念もまったくありません。

*****
残念ながら、YouTubeはここで終了になっています。Facebookではフルバージョンが公開されていますが、facebookは、登録していない人は見ることができないし、画像の貼り付けもできないので、どうしたものかと。

2023/04/07

セイラー・ボブ・アダムソンの近況⑦

セイラーボブは、3月末に手術を受け、現在入院・リハビリ中です。病状や何の手術なのかという詳しい事は今のところ耳にしていませんが、一昨日の時点ではナースに付き添われて病院の中を歩く映像が流れていました(プライベート・コミュニティ・グループのサイト)。予定としては2~3週間はミーティングを休むそうです。その間、ボブの意向でカットがミーティングを続けるそうです。

プライベート・コミュニティ・グループのサイト:ボブのホームページから入る(簡単な質問に答えると入れてもらえます)

セイラーボブのホームページ

セイラーボブの YouTube

セイラーボブの Facebook

プライベート・コミュニティ・グループサイト

2023/04/06

マインドは小さなトリップへとあなた誘い、白日夢に閉じ込めます

2023.3.26ミーティング 49:24

参加者:こんにちは。今朝、ここへ来る前、歩いていて、何年も会っていないかっての隣人たちに出会いました。すると、マインドがあれこれと言い訳を言い始めるのがわかったのです。でもすぐに、誰がそれを考えているのかと言い、それを手放しました。それはこの上ない喜びでした。

そして、「こんにちは、お元気ですか?」と言うことができたのです。そこには物語はなく、喜びだけがありました。それが今朝の私に起こったことです。この話はみんなが理解できるシンプルなことだと思います。

カット:素晴らしい例ですね。思考がやってきて、どうやってショーを乗っ取って、リアリティの瞬間の神秘を覆い隠していくのかがわかります。

参加者:ええ、それはマインドです。マインドは、私がどこに住んでいるのか、私に何が起こったのか、なぜ私がそこに住んでいないかったのか、と言い訳しようとしたのです。そして私はそうした物語すべてを手放したのです。それが良かった。

カット:それはすばらしい。それは実際、「奇跡のコース」の中で奇跡と呼ばれるものです。信じられない神秘のシンプルな瞬間を、世界という構築物が覆い隠してしまうのですが、それが落ちてしまうと、それは視点が変わるということではなく、パラダイムの変化なのです。実在ではなく、「私」が言い訳して、それを解決しようと言い訳を探して・・・。あ~とそれが解放されて、ワオーとなります。そうした小さな奇跡はとて素晴らしものです。それを話してくれてありがとう。

それはみんなにもいつも起こっていることです。毎日、気づかないかもしれませんが、マインドは小さなトリップへとあなた誘い、白日夢に閉じ込めます。そしてその招待が無視されると、あ~、と解放されます。その話はすばらいですね。そしてまたシンプルです。

2023/04/05

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見なさい

2013.3.26ミーティング 45:18から

ギルバート:何年か前にボブが言ったことですが、「どの方向もマインドの中のもの。どの次元もマインドの中のもの」。この私という物語は物語であり、物語には筋書きがあります。そして、物語の筋書きを追いかけると、良いとか不快とかいう目にあうことになりますが、それは物語なのです。

そして、感銘を受けたまた別のことは、ボブの最初の本の中にあるのですが、「マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見なさい」というものでした。それはとてもシンプルかつダイレクトで、指示や招待ではなく、単なるポインターでした。マインドとは何か? 誰がマインドを見つめているのか? それでマインドがやって来るのですが。(笑い)

私がマインドを見つめているのです。意識(consciousness)が根本的なものなのですが、意識は独立したものであり、その「独立した」という意味は、その外側のどんな影響も受けないという意味です。つまり、私が意識であり、あなたが意識であり、すべてが意識なのです。それは、その外側のいかなる影響も受けません。なぜなら、意識がそこにあるすべてだからです。

意識の内容物が、どんなものであろうと、意識とは分離してはいないのです。あらゆるドラマ、幾何学的なパターン、神聖な外形、起こっているすべては、意識にすぎません。では、自身のアイデンティティとは何なのでしょう? 誰がマインドを見つめているのか? 

するとボブは、「認識が起こっていて、その認識する空が自然に起こっている。見ることが自然に起こっている。聞くこと、認識することが自然に起こっている」と言いました。では、この「私」はどこからやって来て、「私がそれをやっている」と言うのでしょうか?

ステララメッシュワー(?)は言いました。腕が動き、その動きを横取りした「私」が、「私がそれをやった」と言います。これは本当にダイレクトなポインターです。そして、私がそれを意図したのか? 意図したとか意図しないとかいう私は誰なのか? それを調べてみてください。マインドを見つめ、それがどのように機能するのかを見てください。

意識(consciousness)は独立したものです。それは変化しません。これは、人が認識することができるとても重要なことです。キャラクターには浮き沈みがあり、気分や起こっていることなどすべてに左右されます。それは外側の状況に左右されますが、実在ではありません。私は意識であるという事実に立ち返って、それに留まるようにしましょう。誰がそれをやろうとしていうのか? 物語には終わりがありません。もしあなたがマインドを見つめ、思考や筋書きを追いかけることをやめると、何かが突然明らかになります。

それが何なのかを言うこともできないし、釘付けにしておくこともできません。それは、はかないものであり、時間の無いものです。アウエアネス(意識)には時間はありません。それは不変です。私たちは絶えず、変化や渇望に振り回されていますが、ただ静かにして、マインドを見つめる。そして何が起きるかを見ることです。

2023/04/04

無明を消したあとはどうするでしょうか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その55」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

無明とは、「世の中の正しいあり方を間違って見せてしまう心の働き。そしてその間違いの原因、無明の大元は自我です。自我というものを中心に、ありもしない自我を中心に、ありもしない世界観を組み立てて、ありもしない事柄に対して間違った判断を下す。これが無明の本質なんですね」と佐々木先生はこのYouTube(5:14から)の中で語ってみえます。

仏教でいう無明(痴)はセイラーボブの言う無知(ignorance)と同じだと思います。無知ゆえに、ありもしない世界を想像してしまいます。

そして、佐々木先生はこのYouTubeの中で、無明を消したAIは、そのあと何をするだろうかということを語ってみえます。
その答えが、セイラーボブの言葉と重なります。まったくすばらしい。

2023/04/03

存在の感覚が思考の「私は在る」へと翻訳されました

存在の感覚が思考の「私は在る」へと翻訳されました。でも、私たちはそれをそんなふうには考えません。
私たちは、「私はこの体である。私はこの存在である。私はこの人である」と思うのです。
そうやって、私たちは自らの本質を見失います。
そうやって、心理的な問題が起きるのです。
私たちは、分離した存在、人、個人、何か分離したものであるという信念を身に着けています。
                                    セイラーボブ

2023/04/02

もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるというのか?

2023.3.19ミーティング 1:14:06から

ギルバート:数年前、ある人がとてもひどい状態でした。彼らは自殺について話していて、私は彼らがそうするだろうと確信しました。彼らは危険なほどシリアスで、これからどうするか決めていたのですが、まず私とコーヒーを飲みたがったので、私は出かけていって、彼らとコーヒーを飲みました。

その人の顔には、おそらく数か月も笑みがなく、まったくみじめな状態に見えました。数分後に私が彼女にした質問の一つは、ボブがミーティングで尋ねたものです。「もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるのか?」。彼女は間違いなく、わかったのです。というのも、彼女の顔にかすかな笑みが浮かんだからです。

彼女が、もしそのことを考えなかったら、条件付けはないということを理解したことがわかりました。その瞬間から、自殺しようという考えはいくぶん消えていきました。それがその状況の重要なところでした。私たちは、私というくだらない物語に直面する必要があります。それは真実なのか? そのどこかに真実があるのか? 

その質問は素晴らしい質問です。もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるというのか? マインドをほんの一瞬止めて、物語に入っていかなければ、そこには条件付けはなく、すべてを粉々にします。でも、あなたがそれをやらなかったら、よくない。もしあなたがやってみなければ。

参加者A:それが効果的であるためには、そのことを思い出さなくてはいけません。それはトラウマに関する興味深い話です。なぜなら、トラウマという言葉はドイツ語の夢に由来するからです。フロイドが最初にこの言葉を使ったと思うのですが、私たちは過去のことを何度も何度も思い出して、その夢の中の出来事の犠牲者なのです。

ギルバート:ええ。私たちは今あるこの世界に住んでいます。そして私たちには主人公がいて、それがトラウマの犠牲者です。彼らは主人公に仕立てられたのです。でもこれは馬鹿げています。なぜなら、それは作られた物語だからです。もしそのことを考えなかったら、どんなトラウマがあるというのですか? 誰もそれを見ようとしません。なぜなら、「こんなことが私に起こった」などなど。私は実在ですか?

参加者B:それは夢だ、それは現実ではない、それを外から見なさいということは簡単だと思います。でも、その中にいたら、それが現実だと感じます。そのため、それは現実ではないというのは役にたちません。それはとても難しいことです。映画がとても強烈だと、その外を見ることはとても難しくなります。それが強烈であってもかまいません。

それに対処する方法は、それをそのままにして、できることなら物語から離れて、何であれ起こってくることを感じることだと思います。というのも、体にとってもそれは現実に感じらるからです。それは実際の肉体の出来事が起こってくるようなものです。

もし、物語から離れていることができて、何であれ起こってくることを起こるに任せることができるなら、それはそれですごいことですが、もしそれができなければ、それもOKです。ボブが言うように、愛あるアウエアネスとして、その事実に寛容でいて、それは起こってくることであり、起こってもそれはそれでOKであり、トラウマとして囚われる必要はなく、夢であるということを知る必要もありません。

2023/04/01

あなたは存在していないのですか?

2023.3.19ミーティング 48:11

参加者:今日はすばらしい話をありがとう、ボブ。ぜひ質問したいことがあります。どうやったら、何をやっていても常に「私は在る」という感覚、アウエアネスでいることが可能ですか? たとえば、働いているときや何かをやっている時は簡単にそれを忘れてしまって、仕事や何かやっていることに没頭してしまいます。でも、どうやったら、その「私は在る」という感覚を保つことができるのですか? 

ボブ:あなたが何か他のことを考えたりやったりしている時、あなたに意識はないのですか?

カット:(回答の声が小さかったのでカットが伝えた)ええ、彼は自分がやっていることに気づいていないことはないが、自身の存在には気づいていないそうです。

ボブ:まず最初に、あなたは何ですか? あなたは存在していないのですか? あなたは今存在していないと認識しているのですか?

参加者:今はそうではありません。

ボブ:他の時間というものがありますか?

カット:あなたは存在していないと感じるのですね?

ボブ:そこに命があるから思考や呼吸、動きなどすべてが起こるのではあありませんか?

カット:別の言い方をすると、あなたは「私は在る」「私は在る」といつも考えなくてもいいということです。

ボブ:あらゆるものが現れている場所には根本的に命があるのです。ニサルガダッタは言いました。「あなたが道である。あなたが真実である。あなたが命である」。

カット:それはイエス・キリストです。(一同笑う)

ボブ:人々は、彼が自分自身のことを話していると考えましたが、そうではありません。彼は、存在の感覚のことを「私は在る」と言ったのです。あなたは、その言葉を考えなくても、私は在るということを知っています。

参加者:それは真実かもしれませんが、最初の女性の質問にあったように、彼女のマインドはいつも落ち着かないのに、それでも彼女は自分が落ち着かないということに気づいていました。

ボブ:落ち着かないということに気づいていないことはなかった。

参加者:そうです。

ボブ:では、そこにはそれを認識するためにアウエアネスがあったに違いありません。あなたは、アウエアネスが何なのかを言うことはできませんが、私には意識がないということはできません。それは存在と同じものです。あなたは今存在していて、存在していなと言うことはできません。人々は自身を人間(human being)と言い、神のことを至高の存在(supreme being)と言います。そうした言葉を取り除いて、存在(being)をやめることはできますか? 存在、認識、存在することへの愛はサット-チット-アナンダです。それは常に起こっています。(一部省略)

参加者:サット-チット-アナンダについて話す時、意識に対していつも真実であろうとすることだと思いますが、人間として私たちはとてもたくさんの感情を経験します。悲しみや怒りなどのネガティブな感情など。

ボブ:その人間(human being)から、humanを取ってください。humanなしで存在(being)しています。being(存在)に何か別のラベルを貼り付けると、表面上で不鮮明になるのです。それなしでも、あなたは消えたりしません。アウエアネスがなければ、あなたは言うことも考えることも何もできません。でも、あなたはアウエアネスが何なのかを言うことはできません。

参加者:ありがとう。

ギルバート:誰も、この心配を維持するにはどうしたらいいでしょうとは尋ねません。なぜなら、私たちはどうやってそれを維持するかを知っているからです。それにさらに物語を付け足すだけです。そしてそれを人とシェアして、その物語を確かなものにしてもらうのです。

そして、存在(being)のシンプルさは、物語を必要としません。自然な状態には言葉がなく、静寂です。そして、マインドから何らかの答えがやってくると期待することは、まったく賢いことではありません。でも、マインドはいつでも何か提供するものを持っています。「おお! 結局のところ、私は何かを提供することができる・・・」。

でも、今もしそのことを考えなかったら、何が問題なのか? そしてボブが指摘するように、いったん思考を止めて見ると、それに対しては何も言うことができません。それが良いとか悪いとか言うことはできません。それは無限のものの中へ入っていく始まりのようなものです。現実性、実在の中へ。

でも、それではマインドにとっては十分ではない。マインドは何かを主張したがり、自分のものにしたがるのです。それが問題です。

2023/03/31

もはや何も悪いことはありません

2023.3.19ミーティング 42:27から

カット:(携帯を見ながら)ターニャから質問が届いています。「今週発見したことですが、探求や調査によって、思考のパターン、探し出そうとするパターンが現れるのを継続させています。もう探求したいとは思っていないのですが、たくさんのナレーションがやってきます。でも同時に平和や喜びもあって、何も欠けてはいません。このことについて何か言ってください」。

それはとても興味深いことです。あなたは探し求めるパターンに気づきました。自然界、動物界を見ると、体がまだ必要なことを満たしていないと、彼らは探します。すみか、パートナー、食べ物。何かが不足している、何かが間違っている、何かを改善する必要があるというような物語が背後にない場合、探し求めることは根本的には何も悪くはありません。なぜなら、彼らには私たちが知っているような脳の神経科学上の物語がないからです。

(携帯を見ながら)彼女は、たくさんのナレーションがやってくるが、平和や喜びもあって、何も欠けていないと言っています。もしナレーションがあっても、娯楽があっても、ハミングや音楽があっても、どんなコメントがあっても、それは習慣です。何も欠けておらず、完全さの中で何も欠けていなかったとしても、体はベストコンデションのために何であれそれが必要なものを探し求めるでしょう。(ボブが何か言いたいのかとボブの顔を見て)はい?

ボブ:(何も言うことはないという表情で)もはや何も悪いことはない。

カット:ええ、もはや何も悪いことはありません。(携帯を見ながら)ヴィヴェックは言っています。「ただ在ること。平安であること。無思考。無記憶。無苦悩」。それと、何回もボブが言ったことですが、愛情のこもった意識の存在。何が現れようと、温かく接すること。そして、苦悩と呼ばれるもののラベルを取ること。落ち着かないと呼ばれるもののラベルを取ること。

それは以前にあなたが受け取ったもので満載です。でも、それを体の中を動くエネルギーと見ること、体の中のエネルギーの流れに興味深くあること、体の中のエネルギーの流れに温かく接すること。そうすると、現れたものに対する体験がまったく違ったものとなります。そうすることで、より親切、よりやさしく、より幸せ、より平和的なやり方になります。

(携帯を見ながら)ジョンは言っています。「今この瞬間、私たちは必要なものすべてを持っている。さもなくば死んでいるはずだ」。なんと明解なんでしょう。その通りです。必要な何か無しでは私たちは機能することができませんが、私たちは機能しています。それは明らかです。
(マイクの無い人が話したの聞き取れず。一部省略)

違った物事が人々を助けます。それは素晴らしいことです。例えば、ボブが下肢静止不能症候群になった時、多くの人がマッサージやマグネシウムや何でもしっかりした仲介なしに試み、針が役立つときもあれば、食事を変えることが役に立つこともあります。生があなたを動かすでしょう。もし、それが過度の物語なしで行われるなら、それはあなたと他の人にとって、より親切なことです。

というのは、私はかつて食事の関係で、他の人より優れていると感じる必要がある、そして違った食事をしている人たちの考えを変える必要があると思っていたからです。それは親切な態度ではありません。いろんなことが現れますが、オープンにしていて、興味を持っていれば、ボブが言うように、あなたを必要な場所へと動かしてくれます。オンラインのコメントは以上です。

2023/03/30

そのままにしておいてください

2023.3.19ミーティング 33:30から

カット:20人あまりの人がオンラインで参加しています。遅れてやってきた人も含めて、あらためてようこそ。オンラインで参加している何人かから挨拶が届いていて、マヤからとても良い質問が届いています。それを読むことから始めたいと思います。

「私は絶えず落ち着かない感じがして、気がつくと、いつも自分のマインドを変える方法へと手を伸ばしています。呼吸のエクササイズ、コーヒー、ティー、機能性飲料、運動など。手元に何か満足できるものやリラックスさせてくれるものがないと、ただその瞬間に座っていることができないと気づきました。その瞬間を認識できるようにマインドの状態を変えたいという思いがいつもあります。それは、私のマインドが私にトリックを仕掛けているのです。そうでないとしたら、私をけしかけているエネルギーは一体何なのでしょう?」

ありがとう。すばらしい描写、すばらしい質問です。この瞬間が十分ではない、意識の中にもっと喜びが欲しいと思わない人がいるでしょうか。今日、トラムの中で若い人たちが絶えずソーシャルメディアをチェックしてそわそわしているのを見ました。あたかも今日のゴミ情報の象徴のような光景でした。

それをはっきりと言ってくれてありがとう。そこから始めたいと思います。ボブ、何か言いたいことがあるでしょう? 初めにどうやってそれにアプローチしますか? それはもう始まっていて、あなた(投稿者)は実際には意識であり、落ちつきのないマインドに気づいていて、さらなる喜び、さらなる興奮、さらなるリラックス、今よりももっと完璧に今にいたいという欲求に気づいているのはすばらしいことです。そこから始めます。(ボブを見て)何か話したいですか?

ボブ:いいえ。誰か他の人に。

カット:(誰か)お願いします。

参加者A:特に何か意見があるわけではなく、気づいただけですが、あらゆる物事には絶えず、非二元性と二元性があります。たとえば、喉が渇いていれば水を必要とするでしょうし、お腹が空けば食べ物を必要とします。私たちにはそうした神経のシステムがあり、生活状態のせいでへとへとになったら、それを休ませ、リラックスさせなくてはいけません。

機能性ドリンクはすばらしい。そして、たぶん、それから逃げるようとすることや、拒絶したり、それが悪いことだと思ったりするより、受け入れることが必要です。何というか、非二元の意識の中にいなくていけません。私はそういう状態ではないですけど(笑い)。実際あなたはそのことに気づいていて、自己管理していることは素晴らしいことであり、必要なことです。

私たちは人間であり、そうした基本的なことが必要だということを受け入れて、そうしたことを自分に許すことだと思います。そうした要求を満たすことは愛を育てるようなものです。そして、アウエアネス(意識)とともに留まることです。

ボブ:あなたの言うとおりです。問題は、私と私以外という思考です。でも、そうした言葉は何も分割してはいません。400年前にシェイクスピアはこう言っています。「何も良いも悪いもない。思考がそうしているだけである」。そして、一本の棒の両端が振動して、良い悪い、快不快、幸不幸となります。でも私たちはそれを、良い悪いと分割して二つにしてしまいます。それは分割です。でもそれは一本の棒の両端のようなものです。

あたかもそれは地球が太陽の周りを回っているようなものです。太陽に面している一方の端には光があたっていて明るく、遠い方の端は真っ暗です。地球は闇や光については何も知らず、光も光については何も知りません。良い悪い、快不快については、何も良くも悪くもなく、思考がそうしているにすぎません。それを修正したり変えたりしようとせず、そのままにしておいてください。

それは巡ってきて、あなたに反対の端を見せるでしょう。分離を続けようとせず、全体を見てください。

カット:(参加者に向かって)あなたの言ったことは素晴らしかった。というのも、ボブの足が下肢静止不能症候群になった時、医者に薬をもらいに行きました。それは必要なことであり、生はそんなふうに行動させるのでしょう。それは誰にもわかりません。他に誰か質問は?

参加者B:私も今の解答について述べたいと思います。というのも、私も最近まで同じようなことがあって、それと戦うことをやめたからです。たとえば、私たちは絶えず、平和な存在、すばらしい仏陀のようでありたいと思うのですが、それはまた別の状態です。落ち着かなくてもいいし、それから逃げ出そうとするかわりに何かを修正する必要もない。たとえそこにあなたがいてもかまいはしない。

それに気づいていて、観察すること。それで十分です。実際にひとたびそれをやると、その強烈さをなくすことができ、その状態になれば、「私は落ち着かない、オーケー」と言って、ほんの一瞬その落ち着きのなさを受け入れると、次のステップへと移ります。そうでなければ、「落ち着かないのは誰?」と自問します。

するとそれは単なるエネルギーであり、それはこんなふうにあるべきではないと思っていますが、それは単なるエネルギーなのです。それが助けになりました。

ボブ:あなたが言ったように、そのままにすることです。

参加者C:私もそれに答えたいと思います。マインドがあなたに告げることを見ること。それは時にはあなたに全く混乱するようなことを言うかもしれませんが、一つのことだけ見ることです。それは、たぶん、「ビーチに寝ころべばもっと幸せだろう」と言います。でも、それを見つめて、それが真実なのかどうか見て、金言を尋ねてみることです。

思考なしで、今なにが問題だろうか? そして、マインドはあなたが今どこにいるかを知るために小さなゴミを提供していると知ることです。

2023/03/29

苦しみを消すことのみが仏教の最終目標

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その54」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

この動画の中で佐々木先生は、「苦しみを消すことのみが仏教の最終目標だ」とおっしゃってみえます。苦しみを消して、そこからさらに幸福を手に入れようとするなら、新たな苦しみを生むことになります。
これは重要なメッセージだと思います。

セイラーボブの教える非二元を理解して起きることは、苦悩の消滅だけであり、それ以上のことは起きません。でも、スピリチュアルの世界で学ぶ多くの人は、何かもっと素晴らしいこと、精神的な変容のようなものが起こって、幸福感に包まれて暮らせるのではないか、と想像しているのではないでしょうか。

また、引き寄せの法則や、思考の現実化が起こって、社会的な成功が手に入るのではないかと思っている人もみえるかもしれません。でも、そうした幸せは、マインドが想像している幻想にすぎません。

誤解を恐れずに書くと、仏教も非二元も、私たちが想像しているような幸福や成功を手に入れるためのものではなく、そうしたものは実体のないものだということに気付くためのものだと思います。

幸せも不幸もマインドの産物にすぎない。そのことに気づくことが大切なのだと思います。

2023/03/28

あなたはもともとそれです

もし、あなたはもともと「それ」であるというところから始めなければ、「それ」に「なろうと」とするでしょう。「何かになる」という考えは、未来や努力の必要性、道筋を生み出します。それはまた、行為者、目標、願望を強めてしまいます。
                                    セイラーボブ

2023/03/27

二元性はフィクションです

二元性はフィクションです。
一つの本質が、うわべ上ではあらゆるものとなって現れているように見えます。
パターン、姿形が振動して二元的となっています。
それが、うわべ上では私たちを「それ」から遠ざけます。
分離した存在という信念、個人、人。
それは信念にすぎません。
                                セイラーボブ

2023/03/26

夢を夢として見つめる

夢が最後まで展開するのに任せなさい。
あなたはどうすることもできない。
でもあなたは、夢を夢として見つめ、現実というスタンプを押すことを拒むことはできる。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/25

苦悩は不要なもの

昨日まで掲載したミーティングでは、最初にヘイマンが「自殺を考えるほど苦悩している」と言ったものだから、あとは全員でよってたかって、「苦悩には実体がない」「あなたは実在しない」と教えていました。優しい人たちですね。

ヘイマンは何か月もミーティングに出ていて、いつもふさぎ込んでいたのですが、その原因がやっとわかりました。難民の人たちがどんな心境なのかは察して余りあるものがあります。

セイラーボブが言う、「私」は実在ではないということは理解できます。でも、苦悩の真っ最中にある人は、それを聞いてもすぐには苦悩から抜け出すことができないのではないでしょうか。ましてや、国を追われ、見知らぬ土地で身寄りも仕事もなく生きて行かなくてはいけないとしたら・・・。

いくらそれはマインドが創作した物語だと言われても、その物語をもっと素晴らしい物語に変えられないかとジタバタします。

素晴らしい物語に変えたとしても、それが物語である以上は実体のないものであり、いつかは消えていくとはわかっていても、できるものなら変えたいと思うもの。

私も過去にはたくさんの苦悩を抱えていました。中には病的なものもあり、普通に暮らしていくことさえかなり苦しい時期がありました。今思うと、何を悩んでいたんだろうと思うのですが、悩みの最中にいるときは、そんなふうに客観的に物事を見ることができませんでした。

多くの場合、苦悩や悩み事は、具体的な問題が解決したわけでもないのに、しばらくすると消えていきます。あきらめたわけでも、受け入れたわけでもないのに、あまり苦悩しなくなります。そうすると、まさにそれは物語にすぎなかったとわかるのですが、しばらくあとにならないとそれがわかりません。

「もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?」というポインターほど強力なものはないのではないでしょうか。これは、問題に目をつむれとか、目をそむけよということではなく、悩む必要はない、すべては思考の産物だと気づけということではないでしょうか。

悩み事があれば解決策を探す。見つからなければそのまま見守る。悩む必要はないということだと思います。今苦悩の最中にいる人には、わかっていても容易なことではないかもしれません。でも、それは単に物語にすぎないということを忘れないでください。

2023/03/24

実在ではないものを、あなたはどうすることもできません。

2023.3.12ミーティング 1:21:35から

ギルバート:(ヘイマンに向かって)基本的に、実在ではないものを、あなたはどうすることもできません。あなたはそれを変えることも修正するもこともできません。なぜならそれは実在ではないからです。それは簡単に理解できるのではないですか。

非実在に対して、あなたはどんな変化を与えることができるでしょうか。できません。そしてまた別の真実は、どうやって実在を変えたり変更したりすることができるでしょうか。実在を変えることはできません。

それは存在し、実在でないものは存在しません。では、どうして実在ではないものを使って実在するものを支えようと奮闘するのですか? そこにあるのは存在するものだけです。すべてはマインドの材料です。物語をフルストップしてください。

もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? それをやるためには、ボブが言うように、思考を一旦止めて、見ることです。そして、そこで認識したものに対して、あなたは何も言うことができません。それが良いとか悪いとか、一言も言うことはできません。それは無/何ものでもないもの(no thing)です。

空(くう)のマインドの本質は、透明で空です。普段、誰もそれに興味を持ちませんが、それを認識することが混乱から抜け出す方法です。あたかも、空(そら)が透明で空(くう)であるのと同じです。雲は現れますが、空(そら)を引っかいたり、ダメージを与えたりすることはありません。

2023/03/23

もしトイレに行くなら、チェーンを引いてあげるよ。

2023.3.12ミーティング 1:09:18

参加者:ヘイマンに一言いたのです。私は何年もひどく苦しみ、精神的に苦しい状態で、あなたが話したような一秒を求めていました。でも、あなたは今ここで座っているという事実を信じてください。それは起こるはずです。ただリラックスしてそれが起こると信じてください。それは起こります。

なぜなら、ここには何人の人がいるか見てください。それほどたくさんの人ではありません。でもあなたはもうここにいるのです。あなたはもうここにいて、その道の上にいます。ある日、何が起こるか見てください。信じて、自分の内側を見てください。苦しんでいてもそれでいいのです。ある日、カチッという音がします。

あなたはもうカチッという音がし始めているのを知っています。もしあなたが本当に絶望していて、その絶望がもっとひどくなって、あなたは火あぶりにあっているような気がしてどうしていいのかわからないかもしれません。でも実際はそれがあなたを、それが何であれ、あなたが最後に得るものへと導いているのです。

ですから、心配しないで。あなたが自殺のことを話したので、本当に絶望していることはわかります。でも、そっちへは行かないで。自分を信じてください。なぜなら、あなたはここにいるのです。あなたがここにいるということが驚くべきことです。

カット:すばらしい。もしあなたがボブの100歳の誕生日を見たいなら、自分をノックアウトしないで、待っていなければいけません。(笑い)

ヘイマン:たぶん、だから待っているのです。ありがとう。分析的な私のマインドにやってくる最大の問題は文化的な違いです。私はイラン人で、2013年に難民としてここへやってきました。私と、ここにいる人たちの間には途方もない違いがあります。言葉の違い、言語プログラミングの問題は別としても、理解よりも誤解の方が大きいのです。

でもここ、ボブには何か根本的なことがあります。それは、そうしたこと全部よりも強力で、それが私を2019年からここへ運んできています。

参加者:あなたもそうですよ。あなたも何の違いもありません。それは単なる脳の泡です。あなたはただストップすることが必要なだけです。ただストップするだけ。そのことを言うことさえ意味がありません。私と彼(ボブを指して)には何の違いもありません。あなたと私にも、他の人にも違いはありません。

ですから、今ストップして。あなたがそこへ行こうとするなら、今ストップするより良いことはありません。あなたは息もたえだえになっています。これは単なる議論です。ボブを楽しんでください。あなたに何も違いはありません。このことについては何も言えません。何の違いもないのです。

カット:すばらしい。

参加者:ストップして、そこにいてください。

カット:すばらしい。それがあらゆる概念や困難、違いから抜け出すこと。というのもそれがトラブルを招いているものだからです。

ボブ:一つの本質がパターンとなり、姿形となり、あらゆるものとなって現れています。ただそれだけです。

ヘイマン:深く感謝しなくてはいけません。私はシンプルな事実を認めなくてはいけません。ボブとあなたたちは、

参加者:いいえ。あなたも。あなたももともとそうなのです。ただそこでストップして、その続きはトイレに流してしまいなさい。その続きを言う必要はありません。あなたはもうすでにそれなのです。

ヘイマン:そのトイレは私の知覚の認識が現在経験しているところです。

参加者:私はそれを放っておけません。

ヘイマン:あなたの言うとおりです。あなたはボブと同じように最上の仕事をしています。でも、ボブより上手にはできません。ボブは50年も人々に向かって、あなたは自分で調べなくてはいけないと話しています。もちろん、問題が実在しているかのように現れています。

あなたが、そこへ行くなと正しく言ったように、私はそこへは行きません。というのは、何か根本的なものが私を捕まえているからです。私は、それは知性だと思っています。私はここにいるぐらい賢い。その上、私は進歩しています。進歩なんてないのですが。(一同笑う)

ギルバート:フルストップ!物語はブルシット(牛の糞)だ。フルストップ!

ボブ:もしトイレに行くなら、チェーンを引いてあげるよ。(一同笑う)

2023/03/22

あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか?

2023.3.12ミーティング 58:54から

ギルバート:分離した自己という考えはどのようにして私に起こったのか。根本的に私は宇宙とは分離してはいない。どうやって、この分離の感覚が根を張ったのか。ボブは彼の最初の本の中で指摘していますが、幼い子供が外の世界の何かを見て、「あれは私ではない」と言います。それが、分離の感覚、傷つきやすさの始まりだとボブは言っています。

物語とともに、あれは私ではないとなります。「あれは私ではない」「あれは私ではない」「全部、私ではない」。どうやって私はこの、私ではないと戦えばいいのか。それはそこら中にある。その物語の中で、「私」というイメージに物事を付け加えて安全にしようとしますが、それは決してうまくいきません。うまくいくはずはありません。なぜなら、それは実在ではないからです。

ボブは深い思いやりから、「私」が実在かどうかを調べるようにと指摘します。「分離、あるいは独立した実体あるものを見つけることができますか?」。それはとても実用的です。私たちの物語や苦悩などが、この分離した自己という信念にぶらさがっています。それを切り離すために調査します。

私はこの「私」を見つけることができるだろうか? 「私」にまつわる物語を永遠に語ってうんざりすることはできます。(笑い)でも、正直な話、誰が私の物語に興味があるでしょうか? もし私でさえ興味がないのなら、他の人には明らかなことです。

これはとても重要なことですが、実際にはあなたがそれを見つけることはできません。でもこれはとても神秘的なことですが、人々はこれをメッセージと呼びます。あなたはメッセージを受け取ることになります。メッセージは様々な形となってやってきます。それはポインターとなってやってくるのですが、それはどれも、無(no thing)を指しています。

形、物事としてやって来ても、無なのです。「私」はその無なのですが、「私」は無なんか欲しくありません。「私」は何かが欲しい。それが苦悩です。それでまた、「私」の物語に引き戻されます。それはまったく必要のないことです。心理的な苦悩はどれも、この自己のイメージ「私」が中心にあります。

それはまったく不要なものなのですが、あなたはそれをただ単に取り除くことはできません。それにエネルギーを注がないこと。その直接性とともに留まり、進んで無でいようとすることです。そうすれば、それがどんなものか見つかります。

ボブ:私が無と言うと、人々はゼロ、真空、空虚のことだと考えますが、そういう意味ではありません。それは無/何ものでもないもの(no thing)です。あれがそれです(天井を指して)。電灯がそれです。この顕現の中にあるすべては(それが)現れているものです。ゼロではありません。顕現の全体は現象としての現れです。

現象の定義は「そのように現れているもの」です。それはすべて見せかけにすぎません。そう見えているだけです。

カット:(ギルバートに向かって)私はあなたが言う、「進んで無でいようとする」という表現が好きです。もし、心の底から真実を望むなら、進んで自己に関するあらゆる観念を脇に置いて、ただ無でいようとすること。そうすれば、その無の中にあらゆるものの可能性があり、それがあなたなのだということが明らかになります。

でも、あなたが、野心的な思考、戦略。ギルバートが言う戦略、世界の中で安全で確かでいようとする戦略。この世は危険な世界なので、それと戦うために、自分に何かを加えて強くなろうとするのですが、それはできません。なぜなら、それはもちろんフィクションだからです。そこには何もないのですが、自身に対して、観念、考え、お金、教育で武装しようとするのですが無駄です。その鎧は役にたちません。

でも、あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか? どうしてあなたが傷つくことがあるでしょうか? 開かれた空間が、どうやってあなたをおびやかすというのでしょうか? ボブが言うようにそれは何もない状態ではありません。観念にとっては何もない状態ですが、そうではなくて、無/何ものでもないもの(no thing)です。

それは愛、本質、命、振動、輝きです。存在の神秘です。それはマインドにとっては何もないものであり、理解することができません。ゼロです。それをマインドで理解することはできません。マインドはそれを観念化し、それはゴミだ、おもしろくない、私は物が欲しいと言います。それは、脇に置くべきです。

すると、思考を超えた深い認識、悲観念の知る働きがあります。それはどんな猫にも蚊にも、もともとあります。彼らには進行中の物語はありませんが、明らかに彼らには意識があり、あきらかに存在し、意識的です。

あなたが彼らの目を見ると、認識、知覚あるものがそこにあるのがわかります。でも、そこには、「私は小さな人間だ」あるいは「私は子猫だ。この体という檻の中に閉じ込められている。なんとかしなくては」といった解釈はありません。

もちろん、体には何らかの位置の感覚があり、生き残るため、あるいは病気を治すための戦略はあります。でも、それは本当のあなたではなく、本当のあなたである意識の中にあるものです。体、それにまつわる物語、観念や習慣からくる振る舞いなど何であれそれは本当のあなたである認識の中で起こります。

それを見守り、それに魅了されて、それでいてそれに束縛されないでいてください。ええ、なんという夢なのでしょう。

2023/03/21

物語を落としてください

2023.3.12ミーティング 44:44から

ヘイマン:道なき道というのがこの道のことですが、私は自身のことを初心者だと思っています。物事はただ私に起こっていて、混乱したライフスタイルの中で、私は職にも就いておらず、規則正しい時間や方法で規律をもって物事をやってはいません。そしてまた、たくさんの思考にかきたてられ、最近では自殺を考えたりと、そういったたわごとの思考があります。

私があなたに望むたった一つのことがあります。それは100歳、あなたが100歳になった時、100歳を超えて、101歳、102歳、103歳になって欲しいということ。そしてまた、私が今言ったライフスタイルの件は、言いたかったことでも、言おうと思っていたことでもありませんが、言ってしまいました。それは完璧なことでした。ええっと、ありがとう。

ボブ:ありがとう。あなたが言った道なき道は、時間なき時間なのです。では、誰が100歳と言っているのでしょう。

ヘイマン:私です。今この時点で。

ボブ:「あなた」は、終わりのない、時間のない、空間のない今ここにある究極のものの始まりであり、それは自身に対する概念、言葉、思考によるものです。そこにあるのは観念、思考であり、それがあなたです。そこには観念、思考があるだけです。思考がなかったら、今この瞬間、何が問題ですか?

ヘイマン:ほんの一瞬、最大でも一秒の間、それは最高のシナリオです。何も悪くはありません。なぜなら、わずか一秒なら思考を止めることができるからです。でも、多くのことを自身に納得させるにはそれで十分です。

ボブ:ええ、もし一秒しかないのであれば、他の物事はどこで起きるのですか?

ヘイマン:すべてここにあります。

ボブ:その一秒の中に。では、それを分割することはできますか?

ヘイマン:不可能です。

ボブ:では、それとともに留まってください。あなたはそれです。

ヘイマン:それは難しいです。

ボブ:あなたは、今不可能といいましたが、不可能は難しいとは違います。

ヘイマン:これが、あなたが見てのとおりの私です。これが私の明晰さです。これが私のベストです。

ボブ:でも、実際あなたは自分が誰なのかを知っています。あなたは「それ」です。あなたはあらゆるものの本質と同じものです。

ヘイマン:ワオ!

ボブ:受け取ってください。つかんでください。

ヘイマン:できません。

ボブ:もちろん、できます。なぜなら、あなたは存在しているからです。あなたは、自分は存在していないと言うことができますか?

ヘイマン:私は完全に要点(point)を見逃しました。完全に。

ボブ:それほど尖った先(point)ではなかったはずです。(一同笑う)

ヘイマン:抵抗があって・・・

ボブ:リラックスして楽しんでください。

ヘイマン:このミーティングが終わるまではリラックスしていられると思います。

ボブ:あなたはまた観念化しています。それを一瞬脇に置いてください。もし、今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?

ヘイマン:今経験しているように、現在も大きな誤解をしていて、もしそれ以上にあなた言うことを誤解したとしても、私はあなたのところへ来続けるつもりです。私はこれが真実だと知っています。

ボブ:ええ。それはあなたが必要とする場所へと連れてくるでしょう。

ヘイマン:ええ、私が言いたいのは、必要としている以上に、そこにいたいということです。私は必要な場所にいたい。だから、ここにいるのです。

ボブ:では、単にいてください。(一同笑う)愛していますよ。

ヘイマン:あなたは素晴らしい。私もあなたを愛しています。

カット:すばらしい。さて、ターニャから(携帯を読む)。「関係性は存在しません。なぜなら、何、あるいは誰が関係していると言うのか」。とても素晴らしい洞察です。もし、ここに自己がないのなら、他のどこにも自己はありません。

そして、ジュリア。アメリカ人のジュリアが、つい最近彼女の父親を亡くした時に発見したと言った物語のことを思い出しました。彼女が父親について最も愛していたのは、父親がどんなに素晴らしかったかというロマンティックな物語でした。

ジュリア:それは描写です。私はその描写を愛していたのです。私が父のことを考える時、実はあなたが父を思い出させるのです。ボブは優しくて思いやりがあり、紳士的で愉快で、そして賢い。そばいるだけで素晴らしい。こうしたことはすべて描写です。あなたはそうではありませんか? あなたはこの描写ではありませんか?

ボブ:ご期待には沿えないかもしれません。(一同笑い)

ジュリア:それがわかった時、私は物語、描写を愛していたのだとわかりました。それが私の愛していたものなのです。私は父が私の手を取るやり方、触れ方が好きでした。それは形です。でも、彼の体が死んで、生気がなくなると、もはや触れることは楽しいことではありませんでした。死体に触れること、触れることをの喜び。(笑い)

私たちが実際に愛しているのは、それが何であれ、それに生気を与えているものです。今となっては、それは思考ですが、そこで起こっていたのは、物語、描写を愛していたということです。物語を愛していたというのは少しうんざりです。

ボブ:物語はどれも対象物です。あなたが認識するあらゆるものは対象物です。あらゆる思考、あらゆるものが対象物です。主体とともに留まってください。私が分離と言うような、物語を付け加えると、その物語が私たちを重くしてしまいます。

あなたが物語を落として物語から離れると、あなたは純粋な存在意識として残されます。そうしてあなたは軽くなります。そこにあなたのエンライトメントがあります。重しを降ろしてください。

2023/03/20

そこに苦しみがある必要はないのです

その誤った信念、「私」という存在のために、いわゆる人間の苦しみがあるのです。恐れを抱くことができるのは「私」だけです。不安になることができるのは、この「私」だけです。

怒ったり、自己憐憫や不安でいっぱいになったり、ストレスを感じたりすることができるのは、この「私」だけなのです。

それを常に信じていると、それが積み重なり、雪だるま式に増えていき、一見すると圧倒されてしまいます。

しかし、その苦しみがそこにある必要はないのです。
「私」がすべての問題の原因であることを見てください。その結果、ストレス、不安、恐怖、自己憐憫、自責の念、罪悪感、恥辱が生じるのです。
                                    セイラーボブ

2023/03/19

何も私を煩われせはしない

何も私を煩われせはしない。
問題が起きても私は抵抗しない。
それゆえ、問題が長引くことはない。
あなたの側にだけたくさんのトラブルがある。
私の側ではまったくトラブルはない。
私の側へ来なさい。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/18

振り返ってみると

昨日のミーティングの中でディーンは、振り返ってみると、以前のように苦悩している自分はいなくなっていたと言っていました。私も自分の昔を振りかえってみると、随分変わってきたなという実感があります。

以前の私はものすごく神経質で心配性でした。ささいなことでくよくよ悩んだり心配したりしてばかりいました。もちろん今でも悩んだり心配したりすることはありますが、以前と比べると、それほど強烈ではありません。悩んだり心配したりしても、切り替えや回復がずいぶんと早くなりました。

ああ、また「私」が心配している、と客観的に見ることができるようになったのです。その「私」が物語にふけっているのがわかっていて、見方や状況が変わるのを待つだけです。抵抗しなければ、物語は消えていきます。後悔することも減ってきたし、あれこれとジタバタしなくなりました。もう以前のようにどっぷりと病的な苦悩にひたることはないような気がします。

ボブのミーティングに来る人は誰しも苦悩を抱えてやってきます。ギルバートもそうだと言っていたし、カットもそうでした。そして、苦悩は必要のない物語にすぎないということに気づいて解放されます。ボブの教える非二元がもたらす唯一のものは、心理的な苦悩の消滅だけです。そしてその方法は、「私」は実在ではないということを自分で調べることだけです。

以前の私は、精神世界の本のコーナーに通い詰めで、いろんな道や法を求めてジタバタする毎日でした。何を試そうが、どうあがこうが、苦悩の消えない日々でした。それが今では、あれほど足繁く通った精神世界のコーナーにはまったく行かなくなりました。行く必要がなくなってしまったという言い方が正確なのかもしれません。ボブの言っていることは普遍的な真理であり、それ以上の真理はないように思えます。探求は終わったと言うと、ギルバートに叱られます。探求などもともとありはしないのですから。

2023/03/17

それはすべて物語だったのです

2023.3.5ミーティング 1:02:18から

ディーン:これは私のちょっとした話です。ここへ来る時、とてもポインターが聞きたかった。(笑い) スピード違反で捕まったんです。車から出て、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言ったのですが、とても変な感じでした。

罰金をもらったのですが、変な感じでした。それはまるで漫画のような感じで、とても奇妙な出来事のようでした。それはまるで、そこには車や全てがあって、私はトラブルの最中でしたが、そこにはどんな問題も心配もありませんでした。それはまるで今日あなたが話したことの再現のような感じで、それをあるがままにして、修正せず、正したりせず、それはまったく修正や正すことのない、あるがままの状態でした。

でも、以前の私はこんなふうではなく、私の人生は地獄でした。それがどんなに違っていたかを全く忘れていました。それはまったく気ちがいじみていて、これは間違っている、こんなことをすべきじゃなかった、これはだめだ、変更して修正しなくてはいけないと言っていました。

そうしたことが去ってしまったのです。それはすべて物語だったのです。それは完全に終わりました。ゾランのことを考えていたのですが、ボブに感謝しています。あらゆることに感謝しています。あらゆることを「それ」が含んでいます。ボブが現象として現れていて、その中に現れています。すべてがその中に現れています。そしてそれは空(くう)です。

その空は「浅い」という意味ではなく、それは一杯です。この空は一杯なのです。それはすばらしいことです。ありがとう。

カット:実際私は彼が警察官と一緒の場面を見ていました。それはまったく信じられないことで、ディーンが歩いてきた時はとても穏やかで落ち着いていました。(一部省略)それは、全体的に見ると不安な状況でしたが、不安になっていたのは警官の方でした。

警官は神経質になっていて、かわいそうなほど神経質に恐縮して言い訳して、ひどい状態でした。ディーンが状況の中をエネルギーに乗って滑空するように状況に対処すると、警官は自分の仕事をしただけで、恐れでいっぱいでした。そして警官は最後には手を振って、良い一日を言ったのです。罰金は払わなくてはいけませんが。もし、誰かこの話に価値があると思う人がいたら、箱の中にいくらか入れてください。それをあてます。(笑い)

2023/03/16

行為者は想像の産物です

2023.3.5ミーティング 51:04から

ギルバート:ええ、仏教徒は経典の中で短い言葉で言っています。あらゆる現象の本質は空(くう)である。もしそれを聞いて印象に残るようなら、それが真実だということを生まれつき知っているということです。

昨日、庭に何匹かの蝶が飛んでいました。彼らは(飛ぶために)努力していませんでした。そこには無努力がありました。あるいは、何らかのはっきりとした努力があったと想像することもできますが、あらゆる現象は空であり、そこには、どんな存在による努力もなされていません。

私たちはそうしたことを想像します。特に何か心地の悪いことが起こっている時には。そこには行為者はいないのです。行為者は想像の産物です。すべては行われ、行われなかったとことも終わっていないことも何もない。物事には始まりも終わりもない。

虹を見てください。虹は現象の良い例えです。虹には実際には位置がありません。子供の頃、虹のふもとには財宝があると聞いたことを覚えています。ある日虹が見えたので、愚かにも私は森を抜けて、虹の一方のふもとを目指したのです。もちろん・・・。
私たちは、財宝を見つけたいのです。

ボブ:それをどうしたのですか?

ギルバート:あ~、内緒です。(笑い)皆が見ている虹には位置がありません。皆同じ虹を見ているのに、それは同じ虹ではありません。違った角度から違った光が目に入って、そこにあるように見えます。聞いた話ですが、二重の虹を見る時は、確か常に46度から52度の角度で、太陽は後ろにあり、そこにはある種の物理の法則があるのですが、虹はそこにはありません。そこにあるように見えるだけです。

同じことが「私」についても言えます。ボブは言いました。「どこかの大馬鹿者が、『私』はいないと言っているが、彼が正しいか間違っているかは、あなたが自分で調べなくてはいけません」。自身の私生活など何でも調べてみて、そこに『私』がいるかどうか調べてみても、私はいません。というのも『私』はフィクションだからです。でも、それを調べる時、記憶やマインドから、あらゆる種類の物事がやってきます。『私』はいないということを見たくない抵抗があるかもしれません。もし『私』がいなかったら、私は一体何なのだ、私はどうしたらいいんだ、などなど。

でも、ボブが言うように、誰もそれをあなたの代わりにやることはできないし、あなたにそれを与えることもできません。そして私たちには皆、見る働き、知る働きの能力があり、分離していません。それが分離されているはずはありません。視覚的に物事はどこかに現れています。音はどこかに現れています。でも、あなたが音や視覚を分離しようとしてもできません。

それは同じ無(no thing)であり、それには位置がありません。でも私たちは、自己の中心を信じるように教えられました。あなたは個人であり、責任がある。あなたは正しい行いをしなくてはいけない、などなど。そしてあらゆる宗教がある種の罪悪感を人々に植え付けようとします。

でも、いずれにせよ、あらゆる現象の本質は空です。そこには、なされるべき努力はありません。つまり、非現実の中にうわべ上の現実があり、非現実を継続させています。といういのも、その中で『私』という個人がいるからです。私の現実であり、あなたの現実ではありません。でも、現実も非現実も無努力のものであり、どちらも同じ無なのです。

参加者:虹に関して一言付け加えたいと思います。あなたが財宝なのに、財宝を追い求めていました。(一同笑う)あなたはどこか反対の方向をへ走って行った。それはおもしろい話でした。とても感謝しています。

2023/03/15

調べてみることが必要なだけです

2023.3.5ミーティング 0:54から

ボブ:みなさんおはようございます。

一同:おはようございます。

ボブ:一つのもの(one)が、一つのもの(one)を歓迎しています。そこには一つのものがあるだけです。その他には何もありません。それを見るのは悪くない。(笑い)すべてが「それ」です。そした私たちは皆生まれつきそれを知っています。そのことを認識しているのですが、それを区別している唯一のものは言葉です。私たちは、身に着けた言葉によって、あらゆるものにラベルを貼り付けます。言葉は現実ではなく、ラベルにすぎません。(途中省略)

言葉は単なるラベル、描写にすぎません。描写は決して描写されるものそのものではありません。ここで描写しようとしているものは、描写されるものそのものではありませんが、それは、聖典やテキストの中でドヴァイタ、非二元と呼ばれるもののことです。非二元とは、二つではないということを指しています。一つもの(one)の他には何もありません。

他のものは、一つのものにとっては相対的に存在しているにすぎません。相対性は関係性であり、関係性が私たちの問題です。私たちには、うわべ上では一つのものが分割されて分離したもののように見えますが、決して分割されたことも分離されたこともありません。あなたがそれを認識していようといまいと、それがそこにあるすべてなのです。

ほんの少し調べてみるだけでわかるようになります。他に方法はありません。観念化することから抜け出せば、思考のない、永遠に新鮮な存在、思考から自由な意識があります。思考がやってくると、意思がやってきますが、それに構わないでおくと、それは去っていきます。

でも、私たちはそれを構わないでおきません。私たちはそれに固着し、言葉をうわべ上では現実だとしてしまいます。そのため、この顕現の中では、たくさんの苦痛、苦悩や奇妙なことが続いています。言葉や観念、考えを付け加えることなしに、それがいいとか悪いとか言う事ができるか考えてみてください。

「我はそれなり」という偉大なるマントラは、今ここ、今この瞬間があるだけだということを確かに知れという意味であり、ということは、あなたは「それ」に違いありません。ニサルガダッタも言うように、人は実在ではありません。私たちは皆、言葉を学んだ時に、この個人というイメージを身に着けました。

何人かの人はそれを調べてみるように言われ、それが真実ではなかったという者もあれば、引き続き抜け出せずにいる人もいます。でも、それを見破った人たちは、ほんの少し調べてみることが必要なだけだと言います。聖書にあるように、「真実を知れば、真実があなたを自由にするだろう」です。

もし、調べてみて虚偽であるとわかれば、あなたは虚偽から自由になるはずです。

2023/03/14

運命とともにありなさい

運命とともにありなさい。
決して逆らってはいけない。
邪魔してもいけない。
運命が成就するのを許しなさい。
                              ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/13

足ることを知らば

足ることを知らば、貧と言へど富と名づくべし。財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。
                                 往生要集 源信僧都

2023/03/12

あるのは今この瞬間だけです。

存在するとは、何かになることや、過去に存在したこと、未来に存在することではありません。何か、あるいは誰かになるためには時間が必要です。では、時間とは何でしょう? 今すぐ時間というものを見せてもらえますか? 時間はマインドの中にだけ存在します。マインドなしでは時間は存在しません。思考なしでは過去も未来もありません。あるのは今この瞬間だけです。今この瞬間、あなたという存在がすべてなのです。
                                    セイラーボブ

2023/03/11

理解の起こり方

非二元の教えを理解するとはどういうことか、それはどういうふうに起こるのかについてブログに書く時、いつもうまく表現できないと、もどかしく思っていたのですが、昨日のブログのミーティングの中でカットが上手に説明してくれていました。

その中で、ミーティングにやって来た人のほとんどの人は、ボブの話を聞いて、少しずつ理解が根を張るように起こってくると言っていました。たいていの人の理解はそうやって起きるのだと思います。私がボブの教えを明確に理解したと思ったのは、ボブに会ってから4年後のことで、ギルバートやカットの言葉がきっかけになりました。

ギルバートの「それはあなたの普通の意識のことだよ」と言う言葉と、カットの言う「非二元の世界を実際には見ることも体験することもできない」と言う言葉がきっかけになりました。同じ内容の言葉をセイラーボブからも何度も聞いていたのに、それまではよく理解できていませんでした。ある時バスに乗っていて、景色を見ていたら、ギルバートの言葉とカットの言葉が浮かんできて、(ああ、そういうことか)という理解が起きました。

シフトが起こったとか、そういうことではなく、普通の理解です。普通の理解なのですが、今までしっくりこなかったことが、あたりまえのことのように思えた瞬間でした。セイラーボブの言うことが、何の疑問も抵抗もなく、全部あたりまえのことのように思えたのです。

私はこのブログで、「確信」という言葉を何度が使いましたが、確信という言葉には、「信じている」というニュアンスがある気がします。信じているわけではなく、「あたりまえのことのように思える」と言った方が適切なのかもしれません。「地球は丸い」と確信しているわけではなく、それがあたりまえだ思っているのと同じです。

理解の起こり方は人それぞれでいいのだと思います。ジェラルディーンは以前にもミーティングのYouTubeに登場していて、同じような質問をしています。彼女の言う「カチッという音がしない」や「自販機にコインが落ちない」という状態は、私も長らくそうだったので、よくわかります。

意識のどこかに、何か劇的なことが起こるのではないか、何かが変わるべきだ、もっとスッキリした状態になるはずだ、というような思いがあると、なかなかカチッという音がしないのではないかと思います。理解が起きたら何かが起きるはずだと私も長らく思いこんでいました。残念ながら、私が想像していたようなことは何も起こりませんでした。でも、ある意味ではすべてが変わりました。そこには、もう何も探していない自分がいました。以来、「でも」も「もし」も消えました。

私のブログを読んで、セイラーボブの教えをすんなり理解された人は大勢いると思っています。そのために、せっせとこのブログを書いているつもりです。でも中には、「カチッという音がしない」人や「自販機にコインが落ちない」人もみえるかもしれません。でも、あきらめないで、心の片隅にセイラーボブの言葉を置いておいてください。

誰の言葉か忘れましたが、「アドヴァイタに咬まれた人は必ず毒がまわる」とどこかで読んだ記憶があります。やがては全身に毒がまわって、自然に理解が起こってくるはずです。そうなると、自然といろんなものが落ちていきます。

2023/03/10

カチッという音がしません

2023.2.26ミーティング 1:08:58から

ジェラルディーン:あなたがいつも胚(はい:受精直後の胎児のこと)の起源に遡る話をすると心を打たれるのですが、そのたびに、私は何もしたことがなくて、すべては与えられたものであるとわかります。これは正しい言い方ではありませんが、考える能力を自分で発明したわけではありません。それがとても心を打ちます。私の考える能力は、そこにあり、与えられたものです。このことを考えるたび、この話をあなたがするたびに心を打たれるのです。でも、カチッという音がしません(理解が起きないという意味)。(笑う)

カット:なぜなら、あなたは「カチッと」というのがどういうものかという期待を持っているからではないでしょうか? 「カチッと」とはどう意味ですか?

ジェラルディーン:理解したようには思えないのです。ええっと・・・。まだシフト(変化)が起こっていないようなのです。私は単にそれが真実だ、それは明白なことだと理解しただけです。

カット:ええ、そうです。それは真実です。それは明らかなことです。その考えを調べてみてください。というのも、バイロン・ケーティやエックハルト・トール、テリーなど誰それは、大電球が灯った、花火が上がった、解放されたという考えあって、この生命の本質、エネルギーはとても退屈な繰り返しなので、あなたにも同じことが起こらなければいけないという意味ではありません。

例えば、何百という人たちがトニー・パーソンズが歩いた公園がどこの公園だったのかを知りたがっています。なぜなら彼らも同じようにそこを歩きたいからです。(一同笑う)ジェフリー・マーティンの統計によれば、大多数の人にとって理解は、一度きりの大きな解放としてではなく、虚偽の皮をはぐようにして起こっています。

それはマークが言ったように、コインが自販機に落ちるように起きるかもしれませんし、ボブや私の場合のように、大きなシフトのようなものかもしれません。でも、ここにやってきた多くの人たちは、一回の大きなシフトの地点があったわけではありません。あたかもそれは、ただちょっと後ろを振り返って、「ちぇ、もう再びあのナンセンスを信じることはできない」「こいつからはもう解放された」「これも起こっていない」「ああ、サンタは現実にはいない」「地球は平らではない」。

それは神秘です。私が考えているわけではないのに、思考が起きて、ゆっくりゆっくりとその理解が根を張るのです。そしてある地点に来ると、もうそれ(古い条件付け)を信じることはできません。それはある意味徐々に起きて、虚偽が皮をむくように落ちていき、狂信していることが落ちていきます。

私はああいう風にあるべきだ、私はこれが正しいと信じているといったようなことがどんどん適切ではなくなっていきます。そして、生の神秘がますます美しくなり、あなたが言ったように、「オーマイゴッド! これはすべて与えられている。見ることは私のおかげではない、考えることは私のおかげではない。自分をコントロールすることさえ私のせいではない。体重をキープすることもパートナーをキープすることも、私にはできない。なぜなら、それも機械的に条件づけられた行為だからです。私は何も自分のせいにすることはできません。

ジェラルディーン:ええ、それはすべてそこにあるものです・・・

カット:でも。でも、何ですか?

ジェラルディーン:それは明白です。すべてはそこにあります。でも、コインが落ちないのです。(一同笑う)

カット:どうして落ちる必要があるのですか? もし、それがすでに明白なら、そこには人から言われた物語に対する微妙な期待があるということです。それは、これが大きなエンライトメントだ。これが解放だ。これがイエスや仏陀、エホバ、私は在ると同じ存在ということだ。エホバとは「私がその私は在るである」という意味です。「単に私がその私は在るだということはできないのですか?」「いいえ、私は神ではありません」。

こうしたことは人から言われた物語なのです。大きなエンライトメントとはそれだ、それは神のように見える、あなたは神だ。いいえ、それは自然な状態のことです。おしゃべりと同化していない時、それは私たちの中に自然にある状態のことです。その空間にコインが落ちる必要はありません。それは姿形のないものです。

あなたがその開放された空間であるなら、どこにコインを落とす必要があるでしょうか。その意識には境界がなく、限界がなく、空間がなく、時間がありません。その観念を見てください。違う、違う、これが私、ジェラルディーン。まだ私はそれを理解していない。この観念は、アウエアネスにやって来て去っているものです。

コインが落ちなくてはいけないという観念は、そのアウエアネスの中にやって来て去っていきます。でもあなたが、限界があって、コインが落ちる必要のあるジェラルディーンだという観念と同化するのをやめるか無視すると、あなたは自然な状態の中にいて、あなたが自然な状態そのものです。あなたがその開放された意識の空間なのです。観念はやって来ては去っていきます。それは他の思考同様、個人のものではありません。

ジェラルディーン:でもどうしてある人たちには、明晰さがあるのですか。つまり、彼らは私とは違った話し方をします。ええ、私も・・・

参加者:私にはすべての人が違うように話しているように聞こえますよ。

ジェラルディーン:ええ。(笑う)

カット:明晰さというものがあるかどうか調べてみてください。それもまた観念であり、それはとても有益なものとなりえるのですが、混乱のもとになることもあります。というのも、それは永続する状態ではないからです。究極の明晰さには話すことさえ必要ではありません。

私たちは今夢の中にいるということを理解してください。部屋の中いっぱいの人がいる夢ですが、実際には何も起こっていません。何も起きませんでした。ではどうして話すことさえ起こっていないのでしょうか? 夢の中の明晰さという夢を見ているのです。すると、明晰さの度合いというのは何なのですか?

話すことが起こっています。私は女性の体だ。それは明晰さですか? あらゆるコミュニケーション、あらゆる夢の内容が相対的なものです。それはすべて二元的であり、常にそうです。明晰さがある時もあり、それが物語となって泳ぎ回ってマインドが表現する時もあります。

ボブは例えば自身の子供の時のことを素晴らしい明晰さで語ることができます。でもそれは今は、まったく起こっていないし、まったく存在していません。それはまったくマインドの内容物にすぎません。それであなたは、明晰さの基準をどこに置くのですか? それは単に起こっていることなのです。

あなたは空間であり、それがなければ何も起こらないのです。そしてあなたはそれを知っています。なぜならあなたは、現れる形態が自分のせいで現れるのではないと知っているからです。

ラム:立ち止まって、自身に対して、自分はコインが落ちることをどう定義しているのかを尋ねるといいのではないですか? 「カチッと」をどう定義しているのか? そこにはあなたが使っている観念があります。それは何もないところからやってくるわけではなく、そうした観念の後ろには重要なもの、物語があります。たぶん、それを掘り下げて見て、それが何なのかを実際に知る。「カチッと」の意味が何なのか、エンライトメントの意味をどう定義しているのか、コインが落ちるとはどういう意味なのか。

そして立ち止まって、これは単なる物語だということを知る。どんな明晰さが欠けていようと、あなたには明晰さがないと思っていようと、それは全部物語の後ろにあるのです。その物語がそうした言葉に付着して、たとえば「カチッと」となって、あなたの頭の中を泳いでいるのです。

ジェラルディーン:ええ。私は自身のナレーション(物語・語り)が変化することを期待しています。何も変わらないかぎり、何も起こっていないのです。

カット:ええ、良い理解です。よくわかりましたね。「私は自身のナレーションが変化することを期待しています」。その物語(story)は何ですか?

ラム:ええ、それもまた別の物語です。ナレーションが変化すべきだという。

カット:ええ。そのナレーションはあなたのものでさえありません。それは生物の条件付けです。あなたは自身のアクセントがどうなっているのか知っていますか? あなたはその内容を変えたいと思っているかもしれませんが、それはすべて過去の経験に基づいているものです。あなたが過去に経験したすべての経験が影響しています。

ボブが言うように、体は胎児から成長します。あなたは、自分の体が違ったふうに成長してほしいと思うかもしれません。同様に、あなたの物語も胎児から成長して表現されたものです。それを変えることはできません。それを変える必要も変える理由もありません。

ジェラルディーン:でも、例えばあなたやボブは変わりました。

カット:変わったかどうかはわかりません。

ラム:その点は注意してください。たくさんの人がこの話題を上手に話すことができます。というのも、彼らは長い間この話を聞いていて、この非二元の話題に関するあらゆる観念や考えを吸収していて、彼らは話すことができます。それは・・・

ジェラルディーン:いいえ。そういう意味ではなくボブは・・・

ラム:いや。ボブやカットのことを言っているのではありません。

ジェラルディーン:そうではなくて、ボブの口から出る言葉はある時点で変化しました。

カット:ええ。確かにそれは事実です。あなたは焦点を注意に向けなくてはいけません。エネルギーの焦点を観念ではなく、実在にあててください。あなたはすでに事実を100%確実に理解しています。あなたは自身が存在するということを知っています。それを否定することはできません。存在しないようにとやってみても、それはできません。

やってみて、自身が存在しないと証明しようとしても、存在することを止めることはできず、存在し続けます。ということは、それが最終の真実だということを知っています。それがそれです。そして、物事はその上に起こっていて、あなたはそこに注意を向けているのです。それが認識すべきことであり、リラックスしてそこを出て、存在の真実という我が家へ帰るのです。それはいつも100%確実に存在する場所です。

うわべ上でそれを不鮮明にする物事があります。なぜなら注意は習慣的にそこ、物語へ向かうからです。でも、それを認識してリラックスするたびに存在の確実性へ戻ります。ボブのとても素晴らしい問いかけのように、「あなたは意識していないのか?」、そしてマークが言った、「あなたには意識がないのか?」「あなたは存在しないのか?」。その質問に対する答えが「それ」です。そこには何も言うことはありません。

ジェラルディーン:私は意識がないのか?

カット:ええそれです。

2023/03/09

意識(consciousness)とは何か?

2023.2.26ミーティング 1:03:51から

ラム:マーク、ニサルガダッタがあなたに告げた意識に関するポインターについて話してもらえますか? 彼があなたに「意識(consciousness)とは何か?」と聞いた時のことです。

マーク:私とボブが初めてか二度目にロフト(最上階の部屋)に行った時のことです。ニサルガダッタはもちろん英語を話さないので、通訳がいました。ニサルガダッタはまるでワシのようで、いくぶん荒々しく見えましたが、そうではありませんでした。彼は恐れ知らずの人で、それで荒々しく見えたのです。

彼は私とボブを指さし、「おまえ、おまえに意識(consciousness)はあるか?」と言いました。私はもちろんロフトの部屋に座っていたので、意識はありました。(意識のない人は)誰もおらず、それは当然のことと思っていました。当然、二つ目の質問がきましたが、その質問で私は投げやりになってしまいました。というのも、私は普段向こう(遠方を指して)を見ていたのです。ここを(足元を指して)見ているのではありません。ここには何もないから、向こうを見ていたのです。

そして二番目の質問は、「その意識とは何か?」でした。そんなことは考えたこともありませんでした。私はグルの敬虔な信者として献身していて、ちゃんとしたやつでしたが、自分が誰なのかは知りませんでした。二番目の質問は、その意識とは何かでしたが、何らかの理由、おそらくムクタナンダのもとで二年間マントラを献身的に詠唱したせいで、体が浄化されていたのだと思います。そして質問は、その意識とは何かでした。

私は目を閉じて内省し、それが何なのかを見ました。「なんてこった、想像することもできない。ただそこにあるぞ」と言いました。それには始まりがなく、誰もが持つ宝庫で、ある意味で光が差して、やっとわかった瞬間(penny drop:自販機にコインが落ちた)でした。そこには、見る働きがあり、探求は終わった。なぜなら、もともと私はそこにいたからです。

でも、その時点ではまだ未解決の事柄がたくさんあり、たわごとは数年後までやってきました。でも、それが基本的な理解でした。意識(consciousness)があなたの神性なのです。もしあなたに意識とはと尋ねたら、「何だって?」と言いますが、それがすべてなのです。

彼はまた、「体は木片のようなもので生命のないものだ。体はそれ自体で輝くことができるか、答えはノーだ。意識がなくては輝くことはできない。意識を脇に置くと、体は単なる死体だ。私の車、私の家という言い方をするが、ということは、『私』はそのどれでもないということだ。私とは根本的には意識なのだ。おまえも同じだ。それがわからないのか?」と言いました。それが彼の言ったことです。

参加者:その後、彼は何と言ったのですか?

マーク:彼の質問は「意識とは何か?」でした。私は、「それは想像することもできない。それはただそこにある」と言いました。すると彼は、「そのとおりだ。それをお前は観念で想像しようとしたり、理解しようとしたりしているのではないか。それはおまえがムクタナンダのアシュラムでやっていることだ。お前はあそこで時間を浪費してきた(一同笑う)。それが人々の話すやり方で、お前の感情など恐れてはいない」。私はあそこで精力的にやったが、それはそれほど重要ではなかったのです。

カット:ありがとう。

2023/03/08

知る働きがすべてなのです

2023.2.26ミーティング 40:04から

カット:今、ザンティから質問が届いています。「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」

ボブ:フルストップ! マインドに入っていかないで。もし、思考を停止すると何が問題でしょうか? そうすると、それが良いとか悪いとか、つらいとか言うことはできません。でも、あなたは呼吸を止めません。心臓も鼓動を止めません。生は続いていて、それは思考以前にあるものです。それが意味することは、あなたはマインド以前に存在するということです。
あなたは二歳か二歳半になるまで言葉を持っていませんでした。ということは、あなたはマインド以前に存在していました。

参加者:でも、フルストップと言っても、停止しない時もあります。その場合、マインドをあれと提携させろと言われるのですか?

ボブ:もしマインドが停止しない時は、そこに何があるのか気づいてください。そこには依然として見る働きがあり、聞く働きがあり、思考より前に空間があります。思考より前に、アウエアネス(意識)、すなわち存在、あらゆる知る働きがあります。その感じをつかんでください。

参加者:あなたは以前、アウエアネス、何と呼んでもよいのですが、それとマインドを連携させなさいと言われたことがありますが、それがあなたの言われる連携ということですか?

ボブ:ある思考は連携して一層よく、理解・反響します。というのも、現れる思考はすべて観念的なものだからです。というわけで、(ボブ、言葉が出てこず言葉につまる)

カット:非観念的な意識?

(ボブ言葉が出ずに笑う)

(一部省略)

ボブ:言葉が思いつかない。離れる。「離れる」です(思考から)。

参加者:マインドで行うどんな行為も、マインドを作り出すことになります。私、あるいはマインドのどんな行為もそうです。

ボブ:人の事実として、今もしあなたに意識がないのではないなら、意識があるということです。思考がやってくるやいなや、あなたはそれに物語を付け加えます。その物語がどんどんを成長して思考とともに展開していくことになります。もし、その思考から離れて、ただそのままにしておき、それに固着しないでいると、その思考は、ふたたび背景にある純粋なアウエアネス(意識)の中へと落ちていきます。なぜあなたは物語を付け加えるのですか? すべての物語には始まり、途中、終わりがあります。それは先へ先へと続いていきます。

参加者:あなたが話しているマインドの持つ傾向として、私たちが(このことを)やり遂げるのは私たちの条件づけに反することです。それをやることは、私たちの性分、条件づけに合いません。

カット:ええ。専念することです。私たちは非二元の魅力を見つけ、ボブが言うように、物事が起こって私たちをここへ連れてきました。物事が探求に駆り立て、時々は人生、答え、信念などに対して苦悩や不満をもたらします。それは、表面下でマインドが明け渡す準備をさせるために起こっているのか、あるいはマインドが調査を始めるために好奇心をもたらすためにやっているのかのどちらかです。

というのも、調査は最初、単なる道具であり、あたかもそれはマインドがマインドを掘り下げているようなものです。でも、時がたつにつれて、存在が際立つようになり、前に出てきて、注意が直接に根底にあるスクリーンへと向かうようになります。それは無、あるいは空(くう)であり、注意全体がリラックスしておしゃべりから抜け出します。(携帯を見ながら)そして、これはザンティが、「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」と聞いたことです。

究極の自由は、おしゃべりであろうと静かであろうと、気にしないでいることです。波ではなく、深海の海の静けさでいることです。おしゃべりと同化してしまうこと、おしゃべりを信じてしまうことが問題なのです。ボブが言うように、どうして物語がそれほど魅力的なのか、どうして物語に同化してしまうのか。もし、アウエアネス、存在、根底にあるスクリーンがなかったら、物語すら起こってはこないということを私たちは完全に忘れています。

生の神秘、エネルギーと比べて、物語がどれほど重要だというのでしょうか。(物語の)内容の魅力が減っていき、くつろぎがマインドから存在の愛の本質であるハートへと戻っていきます。それがポインターを通して起こります。「フルストップ」がポインターの一つです。リラックスはまた別のポンターです・・・。ええっと、ギルバート、何かありますか?

ギルバート:(あなたの)話が終わってからでいいよ。

カット:いいえ。私たちは皆同じことを話しています。(笑い)

ギルバート:いくつかのポインターは、とても有益な道具としてもたらされます。私にインパクトを与えたすばらしいポインターの一つは、「マインドを見つめ、それがどのように起こるのか、何が続いていくのかを見なさい」です。それはとても強力です。最初にマインドを見つめて、それが何を拠り所にしているのかを見なくてはいけません。

なぜなら、何が起こっているのかを観察しないかぎり、決してマインドを理解することはできないからです。要するに、あたかもマインドの目撃者のようになることです。でも、その目撃者にはどんな形態もありません。それは基本的には単に知る働きの活動なのです。ボブがすでに言ったとおり、すべてはエネルギーであり、それが振動してこうしたパターンとなっています。

でも、知る働きは振動してパターンとなることはありません。それは物ではないもの/無(no thing)です。マインドを見つめ始めると、それは非個人的で偏りのない目撃を使って何が起こっているのかを見ているようなもので、そこから多くの洞察がやってきます。「私」という思考は単なる思考、イメージ、記憶のかたまりに過ぎないということがわかりますが、この知る働きは記憶の中に蓄えておくことはできないのです。

それは永遠に新鮮で永遠に新しいものであり、記憶の中に蓄えておくことはできません。そのため、記憶の中へ入っていくことには意味がありません。というのも、記憶を信頼することはできないからです。あなたが何かを思いだすだびに、どこかが何か微妙に変化しています。これはしばしば法廷の証人が認識を変えてしまう時に見られることです。

認識は見る働き、あるいは知る働きではないということを理解しなくてはいけません。認識とは、ひとたびマインドが印象を処理するとそれが何かを作り出して記憶となります。でも、直接の見る働きは自発的に起こっていることです。そしてそれは、認知、すなわち知る働きと分離してはいません。それはどちらも物ではないもの/無です。

マインドを見つめることによって、マインドは実際には何も分割していないとわかります。ラベルを貼って名前、区別をつけることによって、分割しているように見えるだけです。あなたはあれやこれやと区別をしますが、そうした物は何か独立したものとして存在しているでしょうか? 知る働きがすべてなのです。私たちが知覚するものすべて、あらゆるエネルギーの動きは知る働きです。

それは個人的なことではなく、非個人的なことです。あなたは「マインドがぶっ飛んだ」と言いますが、マインドなどというものはないのです。マインドは単なる活動でありラベルにすぎません。私たちはマインドを責めたり、良いマインドだとか言ったりしますが、それはどれも物語です。

マインドを見つめることに戻ると、その知る働き、その認知活動はまったく非個人的なもの、包括的なものであり、それには始まりも終わりもありません。そのため、朝起きて、見る働きを始めるぞと言うことはできません。知る働きを始めるぞ、ラムのように、頭が働く前にコーヒーを一杯と言うことはできません。(笑い)ラムごめんなさい。マインドとは何か? それがどのように機能するのか見てください。

2023/03/07

AIはやがて自我を持つようになるのですか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その47」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

「AIはやがて自我を持つようになるのですか?」
この問いに対する仏教AIの回答がよかったですね。

2023/03/06

大いなる完成に何を付け足すことができるでしょうか?

あなたがその完全性なのです。そして、あなたに何かを付け足すことも取り去るこもできません。それゆえそれは「究極のもの」「大いなる完成」と呼ばれているのです。大いなる完成に何を付け足すことができるでしょうか? 何も。
                                   セイラーボブ

2023/03/05

そこであなたと会いましょう

Out beyond ideas of wrongdoing and rightdoing, there is a field.
I will meet you there.
When the soul lies down in that grass, the world is too full to talk about.
Language, ideas, even the phrase "each other" has no meaning.

善悪の行いという観念を超えたこところにある場所。
そこであなたと会いましょう。
魂がその草むらに横たわると、世界は語りつくせないほど満たされる。
言語や思考、「互い」という言葉さえ意味をなさない。
                              ルーミー

2023/03/04

探求などなかった

ギルバートはしばしばミーティングの中で、「探求などなかった」と発言しています。それはとても深い言葉だなといつも感心します。

私は長い間、自分は探求をしていると思っていました。探求を続けていけば、覚醒が起きて、すべての苦悩から解放されると思い、半分イカれた頭を抱えて精神世界をあちこちと探求してきたつもりでした。

でも、セイラーボブと出会って、自分は一歩も元の場所を動いていないということを知りました。そして、20年以上にわたって精神世界に費やした時間や労力、お金のことを考えて、随分と後悔もしました。でも、ギルバートの、「探求などなかった」という言葉を聞いて救われた気がしました。

自分では探求しているつもりでも、自分は北極点にいて北極点を目指している探検家のようなもので、どこへも行く必要はなく、ただそうやって自己満足してきただけだったと知ったからです。

精神世界の旅人の多くは、自分は何か尊いことをやっているという幻想に取り付かれています。でも、精神世界の本をどれだけ読もうと、何人のグルに会おうと、どれほど瞑想しようと、本質的には何も変わりはしないのです。なぜなら、もともと「私」は完全なものだからです。

探求を続ければ何かになるだろう、何かを手に入れるだろうというのは幻想です。探求者は幻想の中で探求ごっこをして遊んでいるにすぎず、それが尊いとかそうでないということは少しもありません。お金儲けや娯楽に懸命になるのと少しも変わりません。

私がこのブログを書く目的の一つは、一人でも多くの人が探求という幻想から抜け出して、あるがままの自分にくつろいで欲しいからです。そして、それをやり遂げる唯一の方法は自分で調べて、「私」は実在ではないということを知ることです。

たくさん本を読む必要も、グルに会う必要も瞑想する必要もありません。セイラーボブもギルバートもあなたのかわりにそれをやってくれはしません。自分で調べるしかないのです。そして、それを知った時、探求などなかったと知って、くつろぐことができます。

2023/03/03

誰も束縛されてはいません

2023.2.19ミーティング 1:22:29から

ギルバート:初めてここに来た時、たしか2000年だったと思いますが、その時はたくさんの人がミーティング来ていて、たくさんの人が苦悩していました。彼らも私も苦悩を抱えてここにいました。彼らは出口を探して様々なことで苦悩していました。

どこで、いつ探求が始まったのでしょうか? 探求は実際には一度も始まっていません。それは想像上の物語にすぎません。そしてここにいる私たちは皆、何かを手に入れることを期待してここにいるのかもしれません。それが探求の形なのですが、メッセージは、あなたはもともとそれなのだということです。

つまり、探求は想像上のキャラクター、「私」にまつわるフィクションなのです。それが「私」「自分」という衣装を着ているのです。物語が自身を生み出し続けているのですが、それは単なる顕現にすぎません。そこには出口はありません。なぜなら、あなたは束縛されてはいないからです。誰も解放される人はいません。束縛されてはいないのです。
それは空(から)のブロックのようなものです。私たちは常に複雑なものや問題を積み上げています。

ジェーン:それは自然なことです。

ギルバート:(ジェーンに向かって)特にあなた。(笑い)そして、取り壊し屋(ボブを指して)に会う。

参加者:しばしば人々は出口を探しているように見えます。あたかも何かがあなたをそこから出してくれるかのように思っているのですが、実際には何もそこから出ません。誰もそこから出ません。それは鳥かごの中の鳥の話に似ています。鳥はかごの中にいて、戸が開いているのを見て外に出ることを考え、最後には外に出てまた戻り、そしてまた外に出て戻る。最後には部屋の中を飛び回り、もうかごの中へは戻らない。そして、かごなどなかったことに気づくのです。

ギルバート:ええっと、何て言ったか、確か、ストックホルム症候群。拘束された人が拘束した人とずっと一緒にいると、その人に好意を持ち始める。私たち皆がそうなります。それはしばしばそこから出るだけのことです。あなたが理解して距離を置いて見ると、それはたわ言だとわかります。私は何をしているのだろうと思うのですが、あなたがやっているのではありません。

2023/03/02

物事は起こり、行為は行われるが、そこには個人としての行為者はいない

2023.2.19ミーティング 1:17:55から

ギルバート:あなたに会う以前、インドに行った時、あなたのことをクリス・デールから聞きました。ボンベイのラメッシ・バルセカールに会いに行った時のことです。私たちはランチに行こうと通りを歩いていました。彼は私のオーストラリア訛りに気づいていました。

ランチに行こうと通りを歩いていた時、オレンジの大きな看板があって、そこでオレンジ売りがオレンジを売っていたのをはっきりと覚えています。そして彼はかたわらにいて、「セイラー・ボブの名を聞いたことは?」と言いました。私たちは非二元の話をしていた時で、セイラー・ボブって何だろうと思いました。

「彼はニサルガダッタよりわかりやすくて、メルボルンでミーティングをやっている」と言いました。なんだって!気難しいインド人にはるばる会いにやってきたというのに、そいつはメルボルンにいるのか!と思ったものです。当時私はシドニーに住んでいました。

ラメッシがほとんど毎日言った言葉があります。それはたぶん仏陀からの引用ではないかと思うのですが、「物事は起こり、行為は行われるが、そこには個人としての行為者はいない」です。それはつまり、行為者というのは実際にはフィクションだということです。あらゆることは、意識あるいは認識、好きなように呼べばいいのですが、それによってなされるということです。

行為者がいないととわかれば、行為者にまつわるあらゆる苦悩はどうなるのか。どこに問題があって、誰が問題を持つというのか? 数年前にある男がボブに会いにきた時のことを思い出しました。彼はじっと聞いていて最後に理解して私にこう言ったものです。「もしあなたが問題を想像したら、あなたが問題を手に入れたということだ」。(笑い)そうやって(その言葉)が私に戻ってきたのです。

2023/03/01

みんな集って一緒に歌いましょう

2023.2.19ミーティング 58:43から

カット:(携帯を見ながら)トレーシーから質問が来ています。「どうやったら人は『私』を手放すことができるでしょう? 私はもう50年以上「私」と同化しています」。

ボブ:止めなさい。(一同笑う)

カット:(携帯を見ながら)イギリスのジュリアが(ジェーンの歌に対して)ありがとう、素晴らしかった。ジョナサンから、ありがとう、よかった。

ジェーン:質問の中に答えがあるということを言いたいです。「どうやって『私』を手放すか」という質問の中に、「私」とその人(手放す人)との分離があります。その人というのは「私」の別名のことです。ということは、その「私」はあなたの記憶にほかなりません。それは本当のあなたではありません。それはナレーション、すなわちあなたの記憶です。ですから、ボブやギルバートが言うように、今ここでその「私」が見つかるかどうかを調べてみることです。

ギルバート:そしてまた、「私」を落としたいと思っている私を見つけることができるかどうかです。それは単なる物語です。

参加者A:それはあたかも、偽物の自己が偽物の自己を取り除くことができるかということです。そんなことは起こり得ません。それは偽物だからです。ただありのままで在ることです。「私」という思考を解放することです。

参加者B:思考がやってきました。問題は夢の一部を愛し、一部を愛さないこと。夢の全部を愛すか、全部を愛しないかのどちらかです。それはあたかもあなたのマインドがどこかへ向かうのを止めるようなもので、そうすると、あなたは何もすることができず、全部を愛するかまったく愛さないかのいずれかです。

参加者C:ええ、マインドを働かせないことです。

ギルバート:高速道路の大きな赤い標識で、「止まれ、戻れ、あなたは間違った方向へ向かっている」というのがあります。私はあれが好きです。そこには正しい道も間違った道もない。

参加者D:今日のボブの話の中で私にとって印象に残ったのは、出口はないということです。全部を愛するか、まったく愛さないかのどちらかです。このことについて多くの人と話をして思うのは、そこには非二元的な見方や話し方があって、もしそれから外れると拒絶されます。違う!(笑い)それは違う。すべてがそれです。(そうでなくて)どうやって、我はそれなりと知ることができるでしょうか。それが印象に残ったことです。

ジェーン:ええ、少し付け足したいのですが、多くの人があれこれを言い、まだ(それを)手に入れていない、まだそれを理解していないと言います。彼らは皆頭の中にいて、まだ手に入れていないとか理解していないと言いますが、あなたは既にそれなのです。それなのにどうして誰それはそれではないと言うことができるでしょうか? それは皮肉な話です。

ギルバート:私は何年か前に参加者が言った言葉を思い出しました。「すべては一つであるということはわかった。でもギルバートだけは違う」(一同笑う)

********
ここからカビーシャがギターを出して、スーフィーの詩人ハーフェズの詩の歌を歌いました。彼女の歌はすばらしいです。ぜひ聞いてみてください。1:03:10から

「善悪の思考を超えたところにある場所
 そこには美しい場所がある
 そこであなたと会いましょう
 みんな集って一緒に歌いましょう」

2023/02/28

雨が止んだ今、視界は良好さ

2023.2.19ミーティング 51:08から

(何かシェアする人はいますか?とカットが聞いたあと)

ギルバート:どうやったら、「私」が(あなたの)トークを生き延びることができるでしょうか?(一同笑う)どうやったら生き延びることが可能か?

ボブ:私はそれを試みて見つけなくてはいけません。

ギルバート:そのとおりです。何年にもわたるあなたのトークで際立っている点、たとえば、たびたびここで持ち出されるのは、マインドを見つめて、それがどうように働くのを見なさいということです。あなたは何時間も話すことができるのですが、その結果は平易な言葉のとてもシンプルなポインターです。このマインドの働きと「私」という信念、それにまつわることを見抜くことが鍵なのです。

でも、私たちは物語を好みます。そこで物語を一つ語ると、ずっと昔、私はある企業の株を買いました。それは「私」と呼ばれています。そして私は何年にもわたってこの企業にどんどんと資金や物事を注ぎ続けました。そしてそれは私に多くのトラブルをもたらしました。そこからあまり利益は得られず、ちょっとだけ幸せでしたが、多くの心理的な苦しみがありました。

そして、私はその男に会いました。その男は、「その『私』に実体があって独立したものかどうかを調べてみたらどうか?」と言いました。でも、やりたくなかったのでやりませんでした。でも、予想もしない時に自然にそれは起こったのです。意識に質問がやってきて、私は実際に「私」の物語やすべては偽物の企業だとわかったのです。

そしてまた、あなたが言う別のポインターは、「何かが偽物だと知ったなら、それを信じることは二度とできない、信じたくても信じることができない」です。それはあたかも子供がサンタクロースは実在ではないとわかるようなもので、もう二度とサンタを信じることはできません。

子供はサンタが架空のキャラクターだと知ったからといって、それを回りの人に、サンタクロースはいない、と言って触れてまわることはしません。そこには知性があって、幼い子供がファンタジーに耽るのを許すのです。でも、私たちは今や大人で、心理的な苦悩は不要です。これは何年も前にボブから聞いた言葉です。それはとても適切で、心理的苦悩は不要です。

心理的苦悩は不要なので、なぜこの心理的苦悩が続いているのかを調べるのです。それは蜃気楼の中の水のようなものであり、そこには何もありません。あなたのトークにたくさんのポインターがあって、(苦悩を)大幅に減らしています。あたかもそういった会社がやってきて、大きな鉄球ですべてを破壊しているようなものです。そして余分なものを取り除くのです。

マインドの本質は澄んでいて空(くう)です。あなたが言うように、言葉や思考のない意識(アウエアネス)、非観念の意識(アウエアネス)、マインドの本質は澄んでいて空です。マインドに何が現れようと、それはその空の中に現れているのです。そしてそれ(アウエアネス)は変化することはありません。

人々は、これはとても澄んでいるとか、これはそうではないとか言いますが、清浄さは宇宙の性質のようなもので、行ったり来たりはしません。やって来て去っていくのは、分離した自己という信念です。うわべ上では程度の違いがあって、ある時あなたはとてもひどい日があって、別の日にはよく見えます。

でも、空(そら)を見上げると、何も空には貼り付いていない。雲が多い日もあれば、無い日もある。60年代にいい歌があった。「雨が止んだ今、視界は良好さ」(この歌は、「I can see clearly now」)。私たちの文化の中にも私たちの言語でいくつもポインターがあります。そして、シェイクスピアもまたすばらしい。それが私が感じていることです。

*********
ここからジェーンが、関連した歌として、「On a Clear Day」を歌いました。


すてきな歌詞なので、リンクさせていただきました。

2023/02/27

バイロン・ケイティ

昨日のブログには載せませんでしたが、別の場面でカットは、以前はバイロン・ケイティのアドヴァイス通りに思考を書き出して、それが真実かどうかをチェックしていた時もあったが、今はやっていない、いずれにしても、それは単なる思考にすぎない、と片付けて終わりにしていると言っています。

またカットは、普段の生活で余計な思考がやってくると、「はい、次どうぞ」と言ってその思考をやり過ごすそうです。私の場合はどうか。私も依然として嫌な思考がたくさんやってきます。嫌な思い出、忘れたいこと、人からの批判、後悔、人との比較、嫌いな奴のこと、恥をかいたこと、異常な妄想、私を傷つけた人のこと、私が傷つけた人のこと。ありとあらゆるネガティブな思考がやってきます。

ひどい時などは、気が付くと毒づいて独り言を言っている時があります。昔はそういった思考がどっかりと居座ってしまって頭を離れない時があると、たいていは酒で紛らわしていました。今は家で一人で酒を飲むということはまったくなくなりました。飲みたいとも思いません。

そうした思考は単なる思考であって、実態のないものだということが身についてきたのだと思います。昔はたくさんの気晴らしが必要でした。人に会ったり、おいしいものを食べたり、飲んだり歌ったり旅をしたり。でも、今そうしたことがあまり必要ではなくなってきて、興味が向かなくなってきました。いいのか悪いのかわかりませんが。

今回、バイロン・ケイティの本を読もうかと思ったのですが、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか」というボブのポインターを知っていれば十分な気がして、読む気が起きませんでした。(ネットやアマゾンで読む限りでは、バイロン・ケイティはすばらしことを言っていると思います)

「思考は実体がないものであり、それが世界が形成している」という真実を学ぶことこそが、非二元を学ぶ鍵だと思います。

2023/02/26

浄化は本当に必要ないのですか?

2023.2.12ミーティング 1:00:00から

ジョシュア:あなたがおっしゃったことの繰り返しになるかもしれませんが、それは、自身が抱いている信念を放棄、あるいは手放すという明確なプロセスではないのですか? 自身を認識するということは、信念を放棄するということにかかっていますか? それがあなたのおっしゃったことですか? ええと、つまり、自己を認識することは、探求、すなわち浄化のプロセスにかかっていますか? うまく説明できているか自信ありませんが……。

ボブ:私が話して指摘したことは、それは既にそうなのだということです。では、何を浄化する必要がありますか? それは単に認識するということです。

カット:ナーガルジュナは、マインドを浄化することはマインドを汚すことだと言っていたと思います。それはとても重要な言葉だと思います。「私」は夢を見ます。「私」は今や行為者だ。「私」には何かができる。そのことにのめり込む姿が目に浮かびます。ええ、「私」は真実をぜひ手に入れたい。「私」は自分のマインドを浄化する。一つ一つの信念を調べて、それを解放する。

そうやってますます力を注いでいきます。「私」はそれができる。「私」はそうした信念を放棄する。「私」は他の信念を選択することができる。「私」は自身のマインドをもっと望ましいものにする。ええ、スピリチュアルな成長とかそういったことは素晴らしい夢です。それがあなたの中で起こっていることです。

ボブ:「私」は体ですか? 「私」はマインドですか? 調べてください。その真実を知れば、そこには体もマインドも人もいません。では、何を浄化しようというのですか?

カット:それは、マインドを超越するということです。マインドが純粋だとか汚れているというのは認識です。純粋、訓練されている、訓練されていない、汚れている、汚いマインド、おかしなマインド、狂ったマインド、どんな形となって現れていようと、それは本当のあなたである認識の上に現れています。

ええ、それはしばしばそのようなやり方で起こります。ああ、スピリチュアルな私、スピリチュアルなエゴ。私は座って瞑想する、私は自身の信念を調べる、私はあれこれをする。それはまた、生がダンスをするやり方であって、それが良いとか悪いとかいうことではないのです。それが必要だとか不要だということではなく、そのように展開しているにすぎません。

ボブは瞑想していました。私も瞑想をしていました。バイロン・ケイティの言う、信念に対する質問に対する答えを書き出しました。それが助けになったか? それはわかりません。なぜなら、それをやらなかったらどうなっていたかはわからないからです。二つの人生を比べることはできません。それが生が展開するやり方です。

そして、スピリチュアルな体験のまったくない人や、どんなワークもやったことがない人もいます。それはすべて、生がどうやって自己を組み立てるかによります。「私は在る」が自己であるということが信念であると認識することでさえ、その認識はマインドを超えたところからやってきます。あるいは、私はジョシュア、私は誰々である、それはすべてマインドを超えたところからやってきます。

この質問がマインドで起こるのか、そしてそこから移行が起きるのか、それはすべて生にかかっています。それが良いとか悪いとかはありません。なぜなら、生には良いも悪いもないからです。

ボブ:私は誰か?

カット:誰が私なのか? 私とは誰か?

ボブ:ええ。

カット:ええ。あの存在の感覚とは何か? 私とは何か?

ボブ:それを知りたいと思っているのは「私」です。

カット:誰が質問しているのか? ええ。もしあなたが何らかのワークをやりたい気がするなら、やってみてください。でも、それが本当に必要でしょうか? まわりを見渡してみると、それが皆に必要でしたか? 誰かが、自分はマインドであるという思考から自由になりましたか? いいえ。

それが起こるのは、例えば「奇跡のコース」では、あなたにできるのは希望することだけで、最後の一歩は神、宇宙、スピリット、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが、その完全性からやってくると言っています。存在者は何もすることはできません。存在者は歌を歌うこと、信念を調べること、座って瞑想することなど、船を揺らすことしかできません。(笑い)

しかし、最後の一歩、理解は純粋で開放的な意識のフィールドからやってきます。そこから認識の展望が起こると、それがマインドを見ます。マインドが何をやっていようと、くるくる回っているのを、超えた観点から見るのです。一方で、たとえば良い行いをするのは良いことです。なんと素敵なことでしょう。時間を割いてボランティアで貧しい人たちに食べ物を与えること。素晴らしい。それはあなたのハートを開きます。何も悪いことではありません。ええ、生がみんなをそのように駆り立てるなら、私たちは天国に住むことになるでしょう。

ジョシュア:それで、浄化に関しては気にする必要はないのですか?

カット:ええ、まったくありません。

2023/02/25

おすすめの本を教えてください。

2023.2.12ミーティング 53:41から

カット:(オンライン参加者の質問を読みながら)トレーシーからです。ボブの素晴らしい本意外で、情報源として推薦できるような本はありますか?(ボブを見て)あなたの本以外で、情報源として何か推薦していただけますか?

(ボブ、首を横に振る)

参加者:カットの本が素晴らしいです。

カット:ああ、ありがとう(笑う)。(ボブに向かって)あなたの素晴らしい本と私の素晴らしい本以外の情報源として何かありますか(笑い)?

ボブ:出会うことができる本すべてにおいて、それがあなたの注意を引くかを見てください。

カット:ええ、トレーシー、これは素晴らしい答えです。先ほどボブがジョシュアに言ったように、試して、生があなたをどこへ導くかを見てください。生はあなたを読むこと聴くこと、探求を続けること、あるいは他の話し手や言語へと導くかもしれません。でも、私たちのところへやって来て、エックハルト・トールがこう言ったのはどういう意味ですか?とか、ムージが言ったのはどういう意味ですか?と聞かないで、彼らに聞いてください。(笑い)

というのも、以前はそうした質問をしょっちゅう受けたからです。今や人々はそうしたグループに参加するうちに、いくぶん以前より明晰になり、成熟して理解も進んだようで、グルめぐりや、そうした名前に関心を向けるのではなく、(自己の内側の)調査に専念するようになってきたようです。それはとても素晴らしことです。

でも、もしあなたが、それをやることに気持ちを動かされたなら、つまり、誰があなたに何をどうやってあなたの人生を生きろということができるでしょうか?

(ここから別の人のコメントを3分ほど省略)

57:42から

(カット、携帯のコメントを読む)
カット:ナッツからです。ボブの本が究極のベストです。そしてキャシーから。ニサルガダッタの『I Am That』が良い情報源です。ヴィベックはラマナ・マハシリの本。(カット笑う)誰でも5~10冊の(お気に入り)本があるのは知っています。でも、その話題に入っていってもよいのかわかりません。

というのも、ボブにも5~10冊のお気に入りの本がありますが、ボブはそれを言おうとしません。それは個人的な助言となるからです。

ボブ:ええ、あなたがそれらを全部調べると、何かがピンとくるかもしれません。たった一言が物事の方向を変えてしまうのに十分かもしれません。

カット:あるいは静かに座って、鳥が森へと飛ぶ音、風の音。それもまたメッセージを運んでくるかもしれません。

ボブ:「我はそれなり」というような単純な一言。私たちは皆それを聞いたことがあります。でも、彼はグルのところへ行って真実を教えて欲しいと言い、「それはもう聞きました」と言ったのです。(カット笑う)(ここで話ているのは、「汝それなり」と聞いて、グルのもとで12年間ウシの糞を片付け続けた男の話)

何年も経ってから、彼は本当にそれを聞いたのです(意味を理解したということ)。私も何年も前にそれを聞いたのですが、ニサルガダッタに会うまでは、本当には聞いていませんでした。

カット:でも、あなたはスコップで12年も牛の片付けをしなくてもよかった。

ボブ:いいえ。それまで17年かかっています。

(一同笑う)

2023/02/24

訓練は必要ですか?

2023.2.12ミーティング 47:39から

ジョシュア:お尋ねしたいのですが、日々の訓練(practice)についてです。訓練は実際のところ必要ですか?

ボブ:訓練が必要だと感じるのですか?

ジョシュア:何らかの形で役に立つのではないかと思っています。

ボブ:では試してみてください。

ジョシュア:やってみます。

ボブ:試してみれば、何らかの結果が得られるでしょう。

ジョシュア:はい。ありがとう。

カット:試してみるというのは素晴らしい答えですね。もし、シェフになりたいのなら訓練が必要です。泥棒になりたい場合も訓練が必要です(笑い)。あなたがそうした活動が好きで、スキルを手に入れたいなら、訓練が必要です。もし、従順で集中力があるマインドが欲しいのなら、訓練が必要です。

もし生があなたにスキルをもたらそうとするなら、スケートやパラシュートなど、なんでも訓練が必要です。でも、あなたは存在すること(being)を訓練することはできません。なぜなら、それをやめることはできないからです。それはあなたが始めたり止めたりできることではないからです。何かのスキルのためのあらゆる訓練には始まりと終わりがあります。

存在することは、生まれつき自然に常にそこにあるものです。あなたが実際に目にすることができるのは、その存在、実在の意識(アウエアネス)を不鮮明にするものだけです。もしあなたが、一日のうちのいつか、特定のやり方で自身でそれを調査するようにするなら、それは良いことです。

ジョシュア:ありがとう。

カット:そして、アンドリアンのコメントが素晴らしい。それは素晴らしい洞察です。最初にタイラーやピーターが言ったこともそうですが、誰も好んでスピリチュアルの探求者になったわけではありません。不完全な感覚、達成感の不足、欠乏の感覚、愛されていないという思いなどでじっとしていられなくて、苦悩の解決を求めて探求の苦境へと駆り立てたのです。

そして突然わかり始めると、あなたが最初に気づくのは、おや! もう何もつらくないぞ。関係性もつらくない。物事はもう何も深刻ではない。それは実在を見つめること。ロスが言ったように、体はぶつぶつ言うかもしれない。でも、自己同化を離れて、実在を見つめると、物事をはるかに軽いものに変えます。

最後には、内容物としての物事は起こっても全く気にならない。優勢になってくるのは背景にある感謝の感覚、喜び、驚き、感嘆の感覚です。そしてももちろん、そこにはあらゆるものがやって来て去っていきます。苦しみと喜び。飢えや寒さなどすべて。しかし、驚嘆の質は無くなりません。

2023/02/23

Chat GPTと正見


 

 この話は直接仏教とは関係ないのですが、おもしろかったので転載させていただきました。
すごい時代ですね。

2023/02/22

「私」は宇宙のどこにも存在しない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その39」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

正見。正しく見ること。
正しく見るとは、宇宙のどこにも「私」はいないということを理解すること。それが一番大切な基本。

2023/02/21

空間の広大さ

2023.2.5ミーティング 41:21から

(何かシェアするように求められて)

参加者:自身の物語がとてもリアルに見えるため、まったく距離を置くことができずにそれに巻き込まれてしまった場合でも、それは幻想の一部なのです。あなたが、あたかもそれが信念であるかのように物語にしがみついてしまったら、その執着、物語は問題となります。

この、ミーティング、非二元に関することの要点は、物語から離れて空間を作ることです。どんな物語であろうと、物語だということを知ることです。そうした固着がゆるむと、空間の広大さに対する感覚がやってきます。あなたは問題の源へとたどり着きます。

あなたがその空間の広大さを体験すると、非二元を体験し始めます。そこには一つのもがあるだけ。そこには一つの意識があるだけ。そして、現実と物語にしがみつくことが落ち始めます。それは素晴らしいことです。